王陵の谷を訪ねて。太子町の旅
人の車に乗せてもらって、おでかけする機会に恵まれまして。
太子町には叡福寺(えいふくじ)というお寺がありましてね。
このお寺の境内に聖徳太子(しょうとくたいし)の御陵があるんです。
叡福寺の山門前にやって参りました。
参拝客の方も途絶えません。
御陵を遠くから眺めます。
聖徳太子とその母、そして妃の御三方が眠ると伝わる古墳なのです。
聖徳太子は用明天皇の皇子なので、御陵の敷地はお寺ではなく宮内庁の管理になっています。
飛鳥時代、豪族蘇我氏の支援を受けながら、推古天皇を支えて政治を行った聖徳太子。
日本に仏教を伝えた偉人でもあります。
太子は日本仏教の始祖ということで、この叡福寺の御陵には空海(くうかい)上人、日蓮(にちれん)上人、一遍(いっぺん)上人等々各時代の新仏教の開祖たちがお参りしているのです。
仏教界のそうそうたる顔触れの人々が軒並み訪れている、凄いお寺なんですね。
この叡福寺の周辺はかつて磯長(しなが)と呼ばれた土地で、古代には蘇我氏の領地だったそうです。
聖徳太子の御陵があるこの叡福寺以外にも、推古天皇陵を始め天皇陵が多く点在し、「王陵の谷」という別名もあるんだとか。
叡福寺でのお参りを済ませて、出て参りました。
王陵の谷で、天皇の御陵を巡ってお参りしたいところなんですけれども。
今回は特別に目的の場所があってですね。
太子町と奈良県とを結ぶ古代から続く街道、竹内街道を東に進み、途中で南の小道に入ります。
推古天皇陵よりもさらに東、山中の住宅地を通る細道を抜けて、ある場所に来ました。
最寄りの駅がとても遠いので、自家用車が無い身ではこういう機会でも無いと来るのは難しいところです。
「道祖小野妹子墓」とあります。
日本史の教科書にも出てくる偉人、小野妹子(おののいもこ)の墓所でした。
聖徳太子の命を受けて、国書を携えて隋(ずい、中国の王朝)に渡った小野妹子。
滋賀県大津市に小野という土地があって、小野妹子はその小野の豪族の出身だと聞いたことがあります。
しかし彼の墓所は、故郷の小野から遠く離れたこの王陵の谷にあったのですね。
石段の上に、古墳の敷地が見えていますね。
この石碑の銘文によると大正時代、小野妹子の後裔にあたる華道の池坊家の方が、妹子の墓所を整備したということです。
妹子を「道祖」と称するのはそういう理由なのですね。
古墳と思われる築山の前に、祭壇と燈籠が設けられていました。
手を合わせました。
いつか、妹子の故郷である大津の小野にも旅してみたいと思います。
お参りの後、近くにある道の駅太子に寄って帰ります。
太子周辺で取れた野菜、食品などの産直品が売られていました。
道の駅の敷地から飛鳥橋を渡った先に、竹内街道歴史資料館があります。
古代の大阪と奈良とを結ぶ、重要な幹線道路だった竹内街道。
今でも現役のこの街道の歴史を知ることができる資料館なんですね。
道の駅太子にお越しの際にはどうぞご見学を。
今回は限られた滞在時間の関係で私は入りませんでした。
また次の機会に。
ところで私、道の駅でこれを買ったんですね。
「太子みかんソース」であります。
480円でした。
大阪産食材を使っている証明である「大阪産(おおさかもん)」の認証シールがちゃんと貼ってありますね。
太子の「上の太子観光みかん園」のみかんを使用し、羽曳野市のツヅミ食品が製造しているのだそうです。
帰宅後、食事時に試しにこの太子みかんソースを揚げ物にかけて食べてみました。
スパイスが効いた中にほんのりみかんの味わいがある、美味しいソースでした。
串カツをこのソースにたっぷり漬けて食べたらさぞや美味しいだろうな、と思います。
やみつきになりそうで。
お好み焼きに使っても絶対合いますね。
大阪グルメとの相性がよさそうな、そんな太子みかんソースでした。
皆様にもお勧めです。
道の駅太子以外の場所でも売っていると便利なのですが。
早足でしたが、太子の王陵の谷を訪ねた今回の旅でした。
また次の機会に、天皇の御陵を巡りに、竹内街道資料館も見学しに来たいと思います。
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『Hearts In Atlantis』Stephen King
新しい映画版作品が話題の"IT"に先駆けて、この本を読み終えました。
Stephen Kingの"Hearts In Atlantis"です。
1960年代、ベトナム戦争派兵中のアメリカで子供時代と青春時代とを送った世代を主人公にした、連作長編小説なのですね。
1960年、1966年、1983年、1999年と異なった人物の視点から、それぞれの時代での物語が5つの章で描かれます。
しかし全ての時代に繋がる記憶の源は、1960年。
この時代に生きる少年Bobbyを主人公に、物語は始まります。
独特の世界観を持った厳しい母と二人、経済的に苦しい暮らしを送る、Bobby。
彼の住むアパートの上階に、謎の老人が転居してきます。
風変わりなこの老人Tedと、Bobbyは交流を始めました。
お互いの信頼関係が築かれた頃、アルバイトを探すBobbyに、Tedは不思議な仕事を依頼します。
それは「黄色いコートの連中に気付いたら、知らせて欲しい」というものでした。
謎の集団に追われているTedが、同時に不思議な力を持っているらしいことに、Bobbyは気付きます。
やがてTedを脅かすように、「黄色いコートの連中」の痕跡が街のそこかしこに現れ始めるのでした。
Tedとの交流による不思議な体験を軸にして、Bobbyが生きる1960年の少年時代が描かれます。
この頃にBobbyと関わった友人たちが後の各章では成長し、主人公または重要な役割を担って再登場します。
アメリカのベトナムへの介入が本格化した時代を生き抜く中で、またベトナム戦争終結後長らく経っても心身が傷ついたままで、登場人物たちは1960年の少年時代の記憶を胸に生き抜くのですね。
ベトナム戦争を巡る戦場体験、アメリカ国内での市民同士の対立など。
当時のつらい状況は出てくるのですが、他のKing作品のような恐怖描写は無く、穏やかな気持ちで読み進められる作品です。
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道頓堀にタコベルができたらしい。大阪市の旅
表題の通りでして。
9月19日、大阪市内の道頓堀界隈にタコベルのお店ができたらしいんですね。
関西では初出店なんですね。
皆さん、タコベルご存知ですか。
タコベルはアメリカ合衆国発祥の、タコス専門のファーストフード店なんです。
創業者はGlen Bell、1962年にカリフォルニア州で1号店が創業されたんですね。
タコベル、メキシコ料理であるタコス(Taco)をアメリカ人の味覚に合わせてファーストフード化したお店なんです。
歴史があるんですね。
あくまでアメリコナイズされたメキシコ料理なので、本場メキシコの方々からの評価は分かれる模様。
まあそうであっても、日本ではなかなか食べる機会の少ないタコスのお店が道頓堀に出来たのは、嬉しいことであります。
メキシコ文化とタコスに憧れのある私も、せっかくなので道頓堀に様子を見に行くことにしました。
この駅前から、北側の戎橋商店街を抜けて道頓堀に向かって参ります。
戎橋商店街の入口にはハンバーガーチェーンのウェンディーズ・ファーストキッチンの店舗もありますぞ。
現在、マカオ行き航空券が抽選で当たるマカオフェアが開催されているそうです。
マカオにも行ってみたいですが、今回はメキシコ気分なのでこのままタコベルに向かいましょう。
週末の戎橋筋商店街は活気があります。
阪神高速の高架が走る千日前通りを横切って、さらに北へ歩きます。
道頓堀界隈、商店街の名前の由来である戎橋のたもとにやってきました。
この付近にタコベルのお店があるそうなのです。
この写真のビルの二階にテナントとして、タコベルが入っているのですね。
わかりにくい場所なので、タコベルの従業員の方たちが路上で案内に立っています。
さっそくビルに入り、階段を上って二階へ参りましょう。
店内はそこそこのスペースがあるのですが、開店して最初の週末ということもあってかお客さんで混み合っていました。
注文レジの前に行列が出来ています。
クーポン券とメニュー表のついたリーフレットをもらいました。
タコベルの来歴について、簡単な紹介文も載っています。
タコスのお店ながらタコス以外にブリトー、クランチラップスプリーム、ケサディーヤといった別のメインメニューも用意されています。
いずれもメキシコ料理由来、タコスに近いメニューなんですね。
また日本国内の店舗だけで提供されている特別メニューとして、沖縄発祥のタコライスも注文できます。
色々あるんですね。
今回は来店初回なので、まず定番のタコスをお願いすることにしましょう。
タコス二つにサイドメニューとドリンクのセットが900円です。
タコスは生地を二種類から選べ、トッピングのお肉もビーフ、ポーク、チキンから選べます。
トッピングする唐辛子の辛さも調整できるんですね。
サイドメニューもポテト、チップス、サラダなどがあります。
別料金でポテト類につけて食べるディップスも頼めますが、こちらもナチョチーズ、ワカモレ等メキシコ気分を盛り上げるフレーバーが揃っています。
ドリンクは通常と同じ料金でおかわり自由のドリンクバーに変更できました。
注文の後、窓際のカウンター席でタコスが出来上がるのを待っています。
道頓堀を行く人々の流れを眺めることができて、いい席ですね。
各席上には充電ができる電源コンセントも完備で、モバイル機器等を携帯している人には嬉しい環境だと思います。
店内は欧米系のお客さんでにぎわっていて、国際的な雰囲気です。
おそらくアメリカ国内でタコベルに食べ慣れていた、在日アメリカ人の方たちが中心なのでしょう。
待ち時間でちょっとした英会話のリスニングが出来るぐらい、英語が飛び交っています。
アメリカ西海岸の店舗にいるような気持ちになってきました。
そんな気持ちになっているところに、タコス完成。
タコス二つとサイドメニューのポテト、同じシートに盛られて出てきます。
脂のいい香り。
ソフト生地にチキンを挟んだ一品です。
チーズとレタスもたっぷり入り、とても美味しくいただきました。
タコス生地のもちもち食感、やみつきになりそうです。
ただこれは手にしたらすぐにかぶりつかないと、生地が柔らかいのでくねって中の具が落ちてしまいます。
中の具を落とさないうちに食べましょう。
こちらはクランチ生地にビーフを挟んだ一品。
辛めでお願いしたのでスパイシーなお味。
クランチ生地はかりかり食感で楽しいです。
中の具が落ちる心配は、少ないです。
ただあまり時間をかけて食べていると、中のソースが染みて生地が柔らかくなってしまうかも。
こちらも食欲に任せて食べきってしまいましょう。
タコベルの美味しいタコスでした。
タコス二つとポテトとで量はたっぷり、おなかがいっぱいになりました。
今はまだ開店したばかりで店内も慌しい雰囲気でしたが、これから混雑も落ち着くと、過ごしやすくなると思います。
タコスもいいですし、他にも気になるメニューが多いので、時々通いたいお店ですね。
このまま、道頓堀を代表するお店になって欲しいと思いました。
タコス目当て、タコベルでランチの大阪市の旅でした。
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三十三間堂から六波羅へ。京都市の旅(4)
このあたりが六道の辻なんですね。
六道というのは人間界、天上界、地獄などを含めた六つの世界を意味します。
この六波羅と六道の辻の界隈はかつて、「鳥辺野(とりべの)」と呼ばれた葬送の地の入口にあたる場所でした。
京の都の東、鴨川向こうの郊外にある鳥辺野の地は、死者が葬られる場所だったのです。
現世である都とあの世である鳥辺野とを結ぶ場所が、六道の辻だったわけですね。
その六道の辻に、こんなお店がありました。
名物の幽霊子育飴を売る、「みなとや幽霊子育飴本舗」です。
このお店には、幽霊にまつわる逸話があるのです。
慶長年間(西暦1596年から1614年)の頃のことだそうです。
ある女性が亡くなって埋葬された後、墓の中で赤ちゃんを生みました。
墓の中で生きている自分の赤ちゃんを育てるために、この母親が幽霊になって、毎晩飴を買いに来たといいます。
やがて赤ちゃんは発見され、近くのお寺、六道珍皇寺に預けられました。
成長して後、立派な僧侶になったということです。
上記のような逸話が伝わっている飴店なのですね。
その幽霊が買い求めた子育飴を、私も買ってしまいました。
500円…。
京名物で由緒がある一品ですが、高くつきました。
ちなみに小サイズで300円のものもあったのですが、なんとなくこちらの大きな方が見栄えがよかったのです。
家に持ち帰って食べたら、素朴で懐かしい、優しいお味でした。
今は固形の飴ですが、昔は水飴として売られていたそうです。
おそらく先の逸話の幽霊が赤ちゃんに食べさせていたのも、水飴だったのでしょうね。
お店の向かいには、子育地蔵尊を祀る西福寺があります。
こちらにもお参りしました。
幽霊子育飴をカバンにしまって、六道珍皇寺に向かいます。
緩い勾配を上ります。
六道珍皇寺です。
現在は臨済宗建仁寺派のお寺で、近くにある宗派の本山、建仁寺の塔頭のひとつなのですね。
境内には、平安時代の貴族であり歌人でもあった小野篁(おののたかむら)卿が、冥府(あの世)に出入りする際の入口として使ったと伝わる「冥土通いの井戸」があるのです。
その井戸を目当てに、私もやってきたのですね。
この木戸の向こうに縁側に面した中庭があって、その中庭の向こうに冥途通いの井戸があるんですね。
木戸の前に立って小窓からのぞいてみましたが、遠くの方にかろうじて小さく井戸が見えるぐらいの距離なので、なんだかわかりませんでした。
もやもやしました。
境内には他に、地獄まで音色を届かせると言われる鐘、小野篁の作と伝わる閻魔大王の木像があって、地獄趣味を満たせます。
面白い場所でした。
六道珍皇寺から出てくると、ちょうどお昼どきでした。
いつも京都観光に来る機会には、ラーメンを食べると決めているのです。
京都には美味しいラーメンの名店が多いですからね。
ただ、どうも鴨川の東側一帯にはラーメン店が少ないようなのです。
ラーメン店を見つけることができそうにないので、もう近くに手頃な飲食店があれば入ってしまおうと思います。
六道珍皇寺前から坂を少し上ったところに、力餅食堂の店舗がありました。
力餅食堂は、大阪、京都などの街を歩いていると時々目にする、京都発祥の、昔ながらの食堂のブランドなのですね。
紺地に白抜きの、交差した杵のマークの暖簾が目印です。
私も大阪で何度か入ったことがあります。
各地の店舗はチェーン店ではなく、それぞれ本店から暖簾分けした独立したお店なんですね。
お品書きの違いなど、それぞれのお店ごとに特色があります。
お腹も空いていますし、このお店に入ってみましょう。
お品書きに並ぶ料理は多いですが、私はこれを頼みました。
きつね丼です。
昔見たテレビの旅番組で、京都の太秦撮影所の役者さんが、撮影所近くの食堂できつね丼を食べているシーンがありまして。
それを見て以来、きつね丼は京都のご当地グルメなのだと私は思っています。
でも大阪の通天閣近くにある食堂にもきつね丼があったので、本当のところはどうなのかわかりませんが。
古くからやっているような食堂のお品書きにきつね丼があれば、つい頼んでしまいます。
刻んだお揚げとネギとをごはんにまぶして甘辛いだしがかけてあるという、きつねうどんの丼版とでもいった料理なのですね。
680円でした。
ちょっと割高な気がしますね…観光地京都価格なのでしょう。
お味の方は、きつね丼としてはまあまあのお味でした。
力餅食堂に来たら、これを頼まずにはいられません。
おはぎです。
あんこの内側にお餅が入っていて、甘くて美味でした。
松原通と東大路通とが交差する「清水道」の交差点に出てきました。
このまま写真の風景の奥へ、東に松原通を進んだ先には清水寺があります。
観光客も急に増えました。
今回は観光客で混み合う清水寺には向かわず、近くにある建仁寺にお参りしていこうと思うのです。
鎌倉時代、栄西(えいさい、ようさい)禅師により開山された建仁寺。
広い境内であります。
日陰も多く、散策していて心が落ち着きます。
禅宗の別の宗派である曹洞宗の開祖、道元(どうげん)禅師が修行した遺跡も境内にあります。
栄西禅師の「茶碑」が立っています。
栄西禅師は時の鎌倉三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)に『喫茶養生記』という自書を献上しています。
日本へのお茶の伝来の起源には諸説あって、その中には栄西禅師がお茶の習慣を伝えたという説があります。
立派な本堂の建築でした。
境内には外国人の参拝客の方も多いです。
近隣に貸衣装のサービスをしている場所があるらしく、浴衣を着て散策する外国人観光客の姿もあって。
涼しげな風景でした。
私も境内をしばらく散策した後、帰路につきます。
足早に史跡巡りするのもよし、落ち着いて鴨川が流れているのを眺めるのもよし。
京都旅の楽しみ方はいろいろです。
今回もよく歩いた、京都市の旅でした。
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台湾旅行三日目(1)。龍山寺とその周辺を散策。豆漿と油條の朝食
台湾旅行三日目の朝が来ました。
三泊四日の旅ですが、本日が観光できる実質最終日なのです。
思い残すところのないように台湾の空気を味わって帰ろうと思います。
まずは朝から、台北市は萬華區(Wàn huá qū)にあります寺院、龍山寺(Lóng shānsì)にお参りします。
…と思ったら、龍山寺站の構内で迷ってしまいました。
龍山寺站構内の封鎖箇所前に、神様が立って、こちらをうかがっています。
名も知らない、鳥頭の神様です。
微動だにしません。
現場には私の他にひと気も無いので、恐ろしくなって引き返しました。
通路を歩く頭上にも別の神様が浮いていました。
龍山寺にたどり着く前から、道教の神々からの精査を受けているようです。
地上への出口を探り当てて、なんとか日の目を見ました。
そうは言っても、今日も雨模様です。
空はどんよりと曇って、何か大雨が来そうな嫌な予感がします。
そんな予感を打ち払うように、龍山寺へ。
清代の創建で、約280年の歴史を持つという龍山寺。
お参りしましょう。
その建築の美しさにも見るべきところの多い龍山寺。
屋根の上で踊る龍の意匠が素晴らしいです。
さらに内部の廟へ。
仏教の観音菩薩をご本尊としながら、媽祖を始めとした道教の神々をも祀る、神仏混合のお寺です。
この雨模様で、観光客は少ないですね。
代わりに土地の人たちでしょうか、寺院内に大勢集まって、お経が書かれているらしい小冊子を手に唱和する人々の姿がありました。
台湾の庶民に根付く篤い信仰心を垣間見ました。
参拝を終えて、龍山寺周辺の街を散策します。
薬草を扱うお店が多い通りを歩いているときに、大雨が降ってきました。
耐え切れず商店の軒下に足を止めて、雨宿りです。
土砂降りです。
それにしてもこの界隈、立ち並ぶ建物はいずれも古くて、くすんだ色合いでした。
龍山寺は有名ですが、その周辺の街並はおよそ観光客受けしない雰囲気です。
雨のせいで、そんな印象が強まっているのかもしれませんが。
なんだか落ち着きます。
写真を撮っていいのか、迷うような雰囲気の通りを抜けたりしながら、散策を続けています。
建物の軒先に立って雨を避けながら、こちらに品定めするような視線を送ってくる、そんな女性たちがそこかしこにいました。
いずれの人も中年で、いやに露出度の高い派手な服装、そしてこってりと濃い化粧を顔に施しています。
日本の街ではあまり見ることのないタイプの人たちだな、と私は思いながら素通りしていきます。
龍山寺周辺の街に、妙な魅力を感じ始めています。
朝の華西街観光夜市(Huá xī jiē guān guāng yè shì)です。
朝なので、夜市の店々は開いていません。
観光夜市とは言うけれどこの界隈、夜に観光客が来て大丈夫なところなのか、私は訝しく思いました。
日本の日常に慣れた観光客が、ここに来れば新鮮で刺激的な体験ができることは間違いありません。
ただそんな体験をして、安全でいられるのかどうかは私にはわかりません。
朝のうちに散策するぐらいが精一杯です。
街の西側を南北に通る、環河南路二段という大通りに出てきました。
大通り沿いに娜魯湾原住民族商場(Nà lǔ wān yuán zhù mín zú shāng chǎng)というビルがあるのですが、閉まっていました。
台湾の先住民の方たちが民芸品等を販売する場所らしいので、見学したかったのですが。
時刻が早かったようです。
朝食もまだ済ませていませんし、次の目的地に向かう途中で食事していこうと思います。
良さそうなお店を見つけたんですよ。
達人豆漿大王(Dá rén dòu jiāng dà wáng)です。
豆漿って豆乳のことで、台北の朝食メニューとして一般的なんですね。
この機会に、このお店で私も台湾の朝食を食べてみたいと思います。
商品をテイクアウトする人が多い地元客に混じってこちらを注文、その場でいただくことにしました。
豆漿が20元(約80円)、油條が15元(約60円)でした。
油條(Yóu tiáo)って香港旅の際にもお粥店で食べましたが、揚げたお麩なんですね。
この油條と豆漿を一緒にいただくのが朝食スタイルなんだそうです。
豆漿はほんのり甘い、美味しい豆乳です。
油條の方はかすかに塩味がついているぐらいです。
テーブルの上にソースが備え付けてあるので、それを油條にかけて食べればよかったのですね。
私はソースを使わないまま、油條をたいらげてしまいました。
それでもさくさく食感で、悪くないお味なのでした。
朝食として量は充分なのですが、若干塩分が物足りないまま、食事を終えてお店を後にしました。
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三十三間堂から六波羅へ。京都市の旅(3)
豊国神社、方広寺界隈から北に向けて、大和大路通は狭隘になっていきます。
新しい住宅と昔ながらの町屋のようなお宅とが混在する住宅地ですな。
東西に走る大通り、五条通に出くわしました。
東方面に行けば、浄土真宗の開祖、親鸞(しんらん)聖人の眠る大谷本廟。
さらにその先には京都の観光地として筆頭に挙がる、かの清水寺が控えています。
しかし私の目的地、六波羅蜜寺はここから北にありますので、五条通を突っ切って大和大路を進み続けます。
もはや大和「大路」と呼ぶのは無理があるような小道になって参りましたが。
悪くない雰囲気です。
まずは六波羅蜜寺へ。
六波羅蜜寺に着きました。
ここは平安時代中期に、醍醐(だいご)天皇の第二王子の生まれで僧であった空也(くうや)上人により開かれたお寺です。
現在の宗派は真言宗智山派ということです。
ちなみに今回の旅ではお参りしませんでしたが、智山派の本山である智積院は、三十三間堂のすぐ近くにあります。
ともあれ、六波羅蜜寺。
市井の庶民に教えを広めてまわった空也上人の「念仏」の伝統を残すお寺です。
僧侶が、手にした鐘を叩いて念仏を唱えながら、練り歩くのです。
後の鎌倉時代に現れた時宗の開祖、一遍(いっぺん)上人の踊念仏に先駆けて、空也上人こそが踊念仏を始めた祖だという説もあるようですね。
いずれにしろ、空也上人も一遍上人も難しい狭義ではなくわかりやすい念仏を唱えるという形で、庶民に仏の教えを伝えた偉人だったと私は理解しています。
本堂にお参りをしました。
また今回お参りとは別に、目的があって来ているのです。
当寺には空也上人立像、平清盛坐像など、いずれも日本史の教科書に写真が載っているような、有名な重要文化財群が寺宝として所蔵されているのです。
また仏師運慶(うんけい)一族の菩提寺でもあるせいか、運慶作の地蔵菩薩坐像、運慶とその子湛慶(たんけい)の坐像もあります。
いずれも、参拝者が見学することができるのですね。
受付で宝物館の拝観料として600円を納めておきましょう。
本堂へのお参りの後、それらの寺宝を見学してきました。
歩きながら念仏を唱える姿として、口から6体の阿弥陀仏を発する空也上人立像の前に長らく立って、眺めてきました。
運慶の四男、康勝の作だそうです。
ありがたいお姿でした。
また先日の兵庫の旅、今回の京都の旅と平清盛公の足跡を味わってきている中で、穏やかな表情の清盛公の坐像を拝んで、感じ入るものもありました。
あと、由来はわかりませんが安土桃山時代の武将であり大名、井伊直政(いいなおまさ)公の坐像もありました。
境内にこのような石碑が立っています。
「此付近 平氏六波羅第 六波羅探題府」と銘が刻まれていますね。
平安時代後期、六波羅蜜寺の寺域内には平清盛一門の邸宅が立ち並び、平氏の本拠地となりました。
源平の合戦により平清盛一門が滅亡した後には、同地に鎌倉幕府により朝廷を監視する目的で六波羅探題が置かれます。
幕府執権である北条氏一門の出身者が六波羅探題職に任命されて、鎌倉から当地に赴任されたのですね。
この六波羅の地にも、各時代の強烈な記憶が積み重なっているようです。
六波羅蜜寺、中世好きには大変感じるものの多いお寺でした。
価格:25,300円 |
三十三間堂から六波羅へ。京都市の旅(2)
太閤塀に沿って三十三間堂の周囲を歩きましょう。
住宅地の趣きですな。
幕末に、坂本龍馬(さかもとりょうま)を始めとした土佐藩士の住居がこの界隈にあったんだそうです。
この界隈の地名は「大仏」と言って、安土桃山時代には方広寺の境内にあり、大仏様が立っていたのだとか。
後白河法皇、豊臣秀吉、坂本龍馬、といくつもの時代の偉人の痕跡が重なり合う土地ですな。
京都の街のこうした側面に惹かれます。
三十三間堂の向かって東側は、かつて後白河法皇の暮らした住居、「南殿」のあった場所です。
日中はさらに北方にあった「北殿」という政庁で政務を執り、「院政」と後に呼ばれる独特な政治体制を主導された後白河院。
朝晩には、この南殿一帯にて休まれたのですね。
南殿の跡地には、今は養源院と法住寺という二つのお寺、そして後白河院の御陵とがあります。
「血天井」が著名で、絵師俵屋宗達(たわらやそうたつ)の杉戸絵を所蔵している養源院。
浄土真宗遣迎院派のお寺です。
遣迎院派って、珍しい宗派ですね。
もともとは、豊臣秀吉の側室、淀(よど)君が亡父、浅井長政(あざいながまさ)の菩提を弔うために建立したお寺でした。
建立後間もなく焼失してしまうのですが、天下が豊臣家から徳川家のものとなって後、淀君の妹であり二代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の正室であった崇源院(すうげんいん)の手で再建されたのですね。
養源院の天井には、かつて京都の伏見にあった城、伏見城の床板が使われています。
石田三成(いしだみつなり)方の軍勢に攻められて落城することになりましたが、篭城していた徳川家の武将、鳥居元忠(とりいもとただ)以下の武将たちのものと伝わる血痕が、その床板に残っていたのですね。
その伏見城の床板が養源院の天井に使われ、「血天井」となって残っているというのです。
おぞましい逸話ですが、好奇心がわきますよね、実物を見てみたいですね。
お寺は山門から奥まったところにあります。
見に行ってみたのですが、拝観受付に、拝観料の記載が無かったのですね。
500円ぐらいだったら血天井を拝むために納めるのもやぶさかではないのですが、もし3000円ぐらいだったら苦しみます。
受付の方に一度尋ねてしまうと引っ込みがつかなくなると思うので、用心深くて吝嗇な私は血天井を見ることなくお寺を後にしました。
帰宅後にネットで調べたところによると、養源院の拝観料、500円だそうで。
それぐらいだったら血天井、見ておいてもよかったかもしれない…と今さら思うのでした。
お隣の法住寺にお参りしました。
後白河院が暮らした南殿の跡地にあって、院の御陵を守ってきたお寺です。
現在は院の御陵は「後白河天皇陵」として宮内庁の管理になっているのです。
せっかくですから、御陵にもお参りしたいものですが…。
養源院と法住寺の間にある御陵の入口は、閉まっています。
なんと、土日祝日は開放していないのだそうです。
参拝は平日の午前9時から午後4時半までに限られるのだそうで。
宮内庁、観光客泣かせの厳しい方針ですね。
もっとも、休日に観光客が大勢来るようになると、管理上の問題が出てくる故なのかもしれません。
それにしても、御陵への参拝が制限されているなんて、こんなことは初めてです。
まあ、愚痴を言っていても仕方がありません。
平安時代末期の政治史において、大きな存在感を誇った後白河院。
敷地の外からその御陵のある方を眺めて、感慨に耽りました。
次の目的地を目指しましょう。
行きたいのは、三十三間堂界隈から北にある六波羅蜜寺というお寺なのです。
大和大路通沿いに北に歩きます。
京都国立博物館のレトロな門前を素通り。
敷地内でロダン作の彫刻「考える人」が考えているのが見えました。
京都国立博物館の敷地に隣接して、豊国神社があります。
安土桃山時代の天下人、豊臣秀吉を神として祀った神社なのです。
お参りしておきましょう。
なかなか雰囲気のある境内でした。
ちなみに、秀吉の墓所「豊国廟」は、この神社の東にある阿弥陀ヶ峰という山の頂上にあるということです。
手水鉢には豊臣家の家紋、五七桐の紋が入っています。
日本国政府の紋章としてもお馴染みの紋ですね。
立派な唐門ですね。
近隣にある南禅寺の塔頭、金地院から移築されたのですが、もともとは伏見城の遺構なのだそうです。
私も参拝しました。
豊国神社の隣に、方広寺があります。
豊国神社との間の境が曖昧なので、私は知らず知らずのうちに入っていました。
表面に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が徳川家の天下を冒涜するものとして批判を受け、大阪の陣で豊臣家が滅びるきっかけになった、有名な梵鐘があるお寺なのです。
もともとは大仏を祀るお寺で、秀吉が刀狩りを行って民衆から武具を没収したのも、名目上は方広寺の大仏の材料にするため、ということでした。
今はこの大仏も大仏殿も残っていませんが、境内の梵鐘が見学できます。
かつては三十三間堂の蓮華王院を取り込むほどの広大な寺域を誇った方広寺ですが、現在はこじんまりとした慎ましい広さの境内です。
あの鐘のようですな。
見たところ、周囲に説明版等が無く、「無関係の鐘では?」と不安になりました。
とても大きな梵鐘です。
その表面に、気になる箇所が。
遠くてよく読めませんが、銘文の「国家安康」「君臣豊楽」の箇所を白塗りしてくれてあるようですね。
大胆なことをしますね。
でもおかげで、これが問題の梵鐘なのだとよくわかりました。
感慨深い思いで白塗り部分を眺めました。
境内では瓢箪の実が育てられています。
たぶん、豊臣秀吉が瓢箪を集めた形の「千成瓢箪」の意匠を馬印に用いていたことにちなんだものでしょう。
たくさん成っていて、これも千成瓢箪ですね。
面白い眺めです。
これらの実を乾かして水入れにしたり、唐辛子粉入れにしたりできますね。
釣り下がる梵鐘を見たり瓢箪を見たりして、境内から出てきました。
豊国神社と方広寺は地面から一段高くなった土台の上にあって、その周囲には巨石が石垣として積まれているんですね。
やはり秀吉の手によるものでした。
かなりの数の巨石が惜しげもなく道の端に積まれているものですから、驚きました。
大阪城の石垣を築いたのと同じ方法でもって、日本各地から巨石を集めたのかもしれませんね。
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