短編小説

『住宅地で味わう、坂転がり体験の娯楽』

長さおよそ1キロにわたる、長大で、かつ傾斜のきつい坂が眼下に延びている。 その傾斜の角度はほぼ90度である。 見下ろしていると、ひとりでに体が前のめりになり、坂を転がり落ちてしまいそうな錯覚に陥る。 こんな急な坂が一般の住宅地内にあっていいのか…

『濡れ衣で絡まれる』

繁華街で、通りがかりの男とすれ違いざま、義雄(よしお)は襟首をつかまれた。 「やっぱりお前じゃないか、この野郎」 人の喉元を締め上げながら、目を剥いてにらみつけてくる。 年齢は不明である。 頭をつるつるに剃り上げていて、若いのだかそれなりの年…

『夕暮れ時に迷う路地』

知らない街をやみくもに歩いていたら、いつの間にか迷子になっていた。 当然、土地勘はない。 この土地には、見たことのない風景を見ようと思って日帰りの旅に来た。 道に迷って今、見ている風景は、確かにこれまで見たことのないものだ。 だが、それを楽し…

『夕食のための徒労』

買い物に行って買うべきものを買わないまま、買わなくていいものばかり大量に買って帰ってきた。 「ああ…」 店で買い物をしながら、真理(まり)は自分でも何かが足りないと思っていたのだ。 それで思いつくままに、目的のものではないかと思われるものを次…

『空の上でも人間は一緒』

こんな辛い思いをするのなら、搭乗前にやたらに飲み物を飲まなければよかった、と思っている。 「知識があるのとないのとでは大違いですよね」 隣の席で、私と肩を並べるよしやんが上機嫌で喋っている。 よしやんは私の後輩だ。 私より5歳若い女性だ。 私た…

『楽しいゾンビの人の街』

薄暗い夜の街が、人の影であふれ返っている。 青白い人々の顔が、わずかな街灯の明かりに照らされて闇の中に浮き上がっていた。 誰もが目を閉じたまま、両手を前に突き出している。 開けた口から唾液を滴らせながら、歩き回っている。 徘徊している、と言っ…

『脈絡を断ってうろうろする日』

脈絡は無いがうろうろしよう、と今日子(きょうこ)は思った。 今までうろうろするのに脈絡を求めすぎた。 そうやって何かにすがるような気持ちでうろうろするから、うろうろの生の味がわからなくなるのだ。 そう思って土曜日の朝。 あまり使ったことのない…

『雨の日の重い傘』

急に傘の上に、重い雨の塊が降り注いできた。 尋常ではなく重い。 今日子(きょうこ)は、傘の軸を、慌てて両手で抱えた。 彼女の顔に陰が差している。 先ほどまでは、そんなに暗くなかった。 まだ昼下がりなのだ。 見上げると、傘の上に、何か日光を遮るも…

『ハンバーガーを食べさせない』

たまにはハンバーガーを食べよう、と思って義雄(よしお)はハンバーガー店に来た。 店舗の近くに来ると、人だかりができている。 集まった人たちが、店舗入口に殺到していた。 なんでさっさと店内に入らないのだ、とあやしく思いながら義雄は群集に近づいた…

『日常の悪徳、開き直る悪党』

丸顔を険しくしかめて皺だらけにした中年女性が、前かごのついた自転車に乗って向こうから来る。 私のそばまで来て、突然何事か早口な怒鳴り声をあげた。 ブルドッグが吠える声さながらだ。 自分が怒鳴られたか、と思ったがそうではない。 彼女を追うように…

『酔って深夜の大立ち回り』

人が酒に酔っているのに、後ろから妙な音を出す乗り物に乗って追いかけてくる。 「歩け歩け」 飲み会帰り、こちらは深夜の住宅地をほろ酔い加減で歩いていたのだ。 自宅まであとわずか、という場所だった。 時間も時間で、私のほかには歩いている人は見当た…

『林道を集落まで歩く』

ぼやぼや歩いている間に、山奥に来てしまった。 林の間を縫って、半ば獣道のような、草木にあふれた林道が通っている。 道の幅は、あってないような程度の幅だ。 車も通れない。 長太(ちょうた)はそんな道を、狐に化かされたような気持ちで歩いている。 歩…

『いてはいけない異国の虫』

庭先で、フンコロガシが野生動物の糞を転がしている。 今日子(きょうこ)はしゃがみ込んで、じっとその様子を見守っている。 コガネムシに似た、丸くて小さな外見の甲虫である。 逆立ちし、前足を地面に張って体を支え、後ろ足で自分よりも大きな糞の塊を転…

『遅刻しそうなガラス片の上』

歩道の上に、ガラスの破片が大量に散らばっている。 誰が散らかしたんだ、と真理(まり)はいらだった。 学校に遅刻しそうになっている。 朝から家で母と喧嘩して、出てくるのが遅れたのだ。 走って学校へ向かう途中なのに、路上がガラス片だらけである。 危…

『鉄橋を渡らせまいとする若い女性』

ふいのことだった。 「そこを渡るのはいけません」 後ろで小さな声がする。 小さいが、自分が言われているらしい。 義雄(よしお)は踏みおろしかけた右足を、空中で止めた。 田園地帯から、隣接する住宅地内に入るため、小川にかかる鉄橋に足を踏み入れると…

『チャジャン麺をたいらげる大食いの子供』

近所に大食いの子供が住んでいるらしいと聞いて、パク・ジョンスは見に行くことにした。 なんでもその子供は、テレビ番組で紹介されたのだそうだ。 子供は、カメラの前でチャジャン麺を大人三人分たいらげたという話だ。 ジョンスはいわゆる「びっくり人間」…

『夜明け前に来る不審なもの』

騒々しい音に惑わされて、目が覚めた。 辺りはまだ暗い。 夜明け前だ。 ぶいいいん、と何かが細かく振動するような音が続いている。 カーテンを閉めた窓の外から聞こえてくる。 よほど大きな音なのだ。 菊江(きくえ)は、窓に近づいた。 カーテンを少しだけ…

『熊殺しと異常な五人』

どこかで見たような奴が前のめりになって、覚束ない足取りで歩いている。 大きな男で、頭から血を流していた。 学生だ。 学生服の黒い上着が、ぼろぼろである。 前がはだけて、白いシャツと胸板がのぞいている。 歩き方も頼りない。 意識朦朧としているのか…

『コーヒーをすすり、自室で萎縮する夜』

人をからかうようなことばかりだ。 今日子(きょうこ)は自室で萎縮していた。 さっきから、からかわれるようなことばかりである。 夕食後、台所で洗い物をした後、自室に戻ってきた。 自室の扉を開けると、電灯がついたままになっている。 使っていない部屋…

『雨も降らず、ファミリーレストランへ』

適当なことばかり言う人がいるので、町内はいつも不穏な空気に満ちている。 適当なことばかり言うのは、真理(まり)の母である。 「横山さん、洗濯物取り込んで。ほら、雨降るわよ」 ベランダから、母が甲高い大声でご近所を煽るのが聞こえる。 真理はため…

『うつらうつらと夢見心地な朝』

深夜、眠れない。 手持ち無沙汰なので、少しだけのつもりでスマートフォンでパズルゲームを遊び始めた。 朝である。 あっという間だった。 スマートフォンの電池が切れて、我に返った。 一睡もしていない。 頭が重い。 まぶたも重い。 しかし、今日は月曜日…

『心を読む、おうどんの達人』

おうどんおうどん。 おうどん大好き。 おうどんを食べよう。 などと鼻歌まじりに歌いながら、うどん店のおやじがうどんを茹でている。 よっぽどうどんを茹でるのが好きな人なのだな、と義雄(よしお)は思った。 改札を出てきたばかりの義雄の鼻先に、鰹節の…

『感傷的な彼女と冬の藤』

こんなところにこんな公園があったのか、というような公園を発見した。 家の近所である。 確かに近所をくまなく歩いたことはない。 人生では、学校へ行ったり職場へ行ったり、定まった道を行き来するだけ。 盲点は多い。 それにしてもこんな近くに大きな公園…

『深夜の開運神社で』

最近、疲れ気味である。 さらにこのところ、身の回りによくないことばかり起こっている。 不吉だ、と思い長太(ちょうた)は神社にお参りすることにした。 週末に行けばいいのだが、どうも気が急くので、今晩中に行ってみようと思った。 地元に、開運のご利…

『他人の冷蔵庫を触る人』

玄関の扉に施錠していなかった自分もいけない。 それにしても、見も知らない他人がいきなり部屋に入ってくるとは思わなかった。 両手に大きくふくれたスーパーの袋を抱えて、荒い息をしながら義雄(よしお)の部屋に入ってきた。 背の高い、若い女性である。…

『自室の中でも顔、顔、顔』

部屋に一人でいるのに、ごそごそ音がする。 気持ちが悪い。 何かというとごそごそ、ごそごそ…。 この部屋は前からそうだ、と今日子(きょうこ)は思った。 自分しかいないはずなのに、どこかでごそごそ音がする。 そして、わりと大きな気配を感じるのだ。 部…

『正体不明のチラシ束』

義雄(よしお)はむかむかしている。 アパートの自室で朝起きて、郵便受けに新聞を取りに行くと、中にいっぱいものが詰まっている。 大量の古い広告チラシである。 どれも裏地が白く、その裏側に太字のマジックペンで手書きの文章が書きなぐられている。 そ…

『相まみえる熊殺しと柔の強者』

心労からか、彼女の顔はげっそりと痩せていた。 「お願いします」 膝に両手をついて腰を曲げ、彼女は何度もこちらに頭を下げる。 いたましい、と彼は思った。 彼、餅田万寿夫(もちだますお)は、しばらく前から「熊殺しの男」と呼ばれている。 彼が通う私立…

『お白湯で妄想する寒い夜』

熱いお白湯をふうふう吹いて飲みながら、私は考えている。 たまには美味しい玉露のお茶を淹れて、舌の上をころころ転がしてから飲みたいな、などと。 しかしだ。 今は最低お白湯は飲むことができるのだから、まだいい。 しかしそれがかなわなくなったらどう…

『戦乱の世、長芋を脅し取る』

米びつには米一粒すらない。 「もう食べるものがないよ」 米びつの中をのぞきながら、おっかさんがそうおっしゃる。 長引く戦乱で、稲の手入れに人手は割けず、かろうじて実った稲穂には火がつけられた。 でもこうして家が残り、母子で無事生きていられるだ…