連載小説
作務衣の僧侶たちは部屋を去った。 時子(ときこ)たち一同はそれぞれ、車座になっていたままの位置にいる。 彼女たちの前にはそれぞれ、精進料理の膳が据えられている。 「よかったの?」 美々子(みみこ)が静かな声で言った。 一同は、美々子ではなくアリ…
時子(ときこ)たちは僧坊の一室で、車座になっている。 精進料理を待っている。 お坊さんが運んできたら陣形をどうするか決めよう、というのは東優児(ひがしゆうじ)の提案だ。 なら、お坊さんが来たときには優児が聞いてくれるだろう、と時子は期待した。…
「北畠殿に謁見するには、どういう手はずを取ればよろしいのか」 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)が、訊ねている。 聞いているのは、佐脇与五郎(さわきよごろう)。 与五郎は北伊勢の大名、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)の配下の武…
如意輪寺境内にある僧坊のひとつで、精進料理がいただける。 入口で靴を脱いで、時子(ときこ)たちは、僧坊の内部に入った。 受付で案内を受け、枯山水の庭園に面した和室一間に通された。 部屋の最中にはテーブルも何も置かれてない、広々とした畳敷きの部…
父母と幼い妹を、那古野城内の土牢に残してきている。 小一郎(こいちろう)の足取りは重い。 尾張の支配者、織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)の計らいで、旅装束といくばくかの路銀、大小の刀を与えられている。 それでもなお、心もとない…
織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)は、那古野城の地下牢に来ている。 いくつかに区切られた房のそれぞれに、罪人が押し込められている。 尾張一国を統一して後、弾正忠は領内の治安回復に努めていた。 それで、収監される罪人の数は日増しに…
靴を脱いで、暗い本堂に足を踏み入れた。 「あれっ」 中の風景に目が慣れてきた。 「アリス…?」 時子(ときこ)は恐る恐る声を上げた。 すぐ手前に、正面の御本尊に向かって、アリスが座り込んでいる。 その横に美々子(みみこ)が立っていた。 御本尊に向…
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)と蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)は力を合わせた。 二人で茶店の中から、猿姫(さるひめ)の体を抱えて、外に運び出した。 外には、農家で借りた荷車を支えて、佐脇与五郎(さわきよごろう)が待っている。 阿波守…
山門内側で待っていた美々子(みみこ)たち先の三人と合流した。 「遅いぞ」 美々子は腕組みしている。 「理由も無しに急いで先に行くからでしょ」 町子(まちこ)は負けていない。 ヨンミは本堂を見ている。 東優児(ひがしゆうじ)は境内を囲む土塀の際に…
織田家の当主、織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)は、清洲城を本拠に定めている。 隣接する諸国との戦は小康状態にあって、動きがない。 城内の空気は落ち着いている。 彼の兄、三郎信長(さぶろうのぶなが)を支持する織田家家臣は家中から…
時子(ときこ)たちと同じバスから降りた年輩の女性たちが、ぽつぽつと間隔を置いて如意輪寺があると思しき方へ車道の勾配を登っていく。 六人はその後に続いた。 「何これ、結構歩く流れじゃないだろうね」 歩きながら、美々子(みみこ)は小さな声で懸念を…
では行って参る、と二人は茶店から出て行こうとする。 「三郎殿、どこへ?」 猿姫(さるひめ)は慌てて縁台から立ち上がりかけて、背中の痛みに耐えかねて再び後ろに尻餅をついた。 蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)が駆け寄って彼女の肩を押さえる。 「…
茶店の奥から、彼女が漏らすうめき声がわずかに聞こえた。 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、思わず唇を噛む。 床机に腰掛けて、苦々しい顔でいるのだった。 背中を刺されて負傷した猿姫(さるひめ)。 彼女を、三郎は仲間の蜂須賀阿波守(はちすか…
出立の朝が来た。 「お世話になり申した」 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、宿舎の小屋の中に集まって見送る仲間に頭を下げた。 立ち並ぶ男たちの中に、親方もいる。 当初は手厳しい対応を受けたが、三郎が仕事に慣れてからはうまくやってきた。 気…
港に入ってきた商船から、荷を降ろす。 降ろした荷を、荷車に積み込む。 荷で満載の荷車を、蔵まで運ぶ。 荷車から荷を蔵内部に運び入れる。 商船が入港した際、そうした分担で港の運び手たちは仕事をする。 「近頃は荷の動きが激しいですな」 織田三郎信長…
路線バスは山道に入った。 時子(ときこ)は先日アリスと来て知っている。 間もなく、山中のバス停に着くのだ。 「間もなく如意輪寺口。間もなく如意輪寺口です。お降りのお客様は降車ボタンを押してください」 アナウンス声にうながされて、時子は降車ボタ…
猿姫(さるひめ)は妙な気配を感じて、振り返った。 畦道に、編み笠を被り、脚絆を履いた武士が立ってこちらを見ている。 猿姫は農家の夫婦と共に鍬で畑の土を掘り返し、耕していたところだ。 春の気配が迫った、しかしまだ底冷えの残る朝。 尾張の織田の刺…
運転手の女性が運転席に戻った。 「お待たせいたしました」 車内に低音のアナウンス声が響いた。 時子(ときこ)たち一同、よく待っている。 時子の背後で、美々子(みみこ)が小さくうなずいている気配がある。 「如意輪寺方面行き、間もなく定刻発車いたし…
白子港の、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)が寝泊りする掘っ立て小屋に、猿姫(さるひめ)からの文が届いたのは、一行が離散して半年余りも後のことであった。 「織田のうつけに、文が来ておった」 蔵の後始末を終えた親方が、手に文を持って小屋の戸…
停留所に来た目的の路線バスに、時子(ときこ)たちは乗り込んだ。 この駅前の停留所が始発で、如意輪寺方面に向かうのだ。 時子たち一行の他にもバスを待っている乗客は何人かあった。 中高年の女性ばかりだ。 スーパーの袋に榊、仏花などを入れて携えてい…
猿姫は、棒を器用に操った。 「やっ」 水田の中から、棒先で泥ごと跳ね上げられて、泥鰌(どじょう)が宙に飛んだ。 「えいっ」 と勢いをつけて、猿姫は体を躍らせ、腰に結わえたびくで落ちてきた泥鰌を受ける。 宙を舞った後、泥鰌はびくの中に収まる。 泥…
時子(ときこ)たちは、駅前のバスターミナルにあるバス停で、バスを待っている。 土曜日の午前中である。 先日アリスと二人でアルバイトの面接に出向いた帰り、如意輪寺(にょいりんじ)という寺に寄った。 その帰り、友人たち皆で再び如意輪寺に来ることを…
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、平気な顔で立っている。 猿姫は、おそるおそる彼の顔を見上げた。 「三郎殿」 「なんでござる」 三郎は何気なく振り返った。 彼に伝えるのが心苦しい。 猿姫は、唾液を飲み込む。 「実は…」 「なんでござる」 「あ…
猿姫(さるひめ)は、心の疲れを押して祠に戻った。 「猿姫殿っ」 観音扉の戸を開けるなり、歓声を耳にする。 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)の声である。 「お帰りが遅かったので、拙者心配しておりました」 祠内部の薄暗い中に、猿姫を迎える三郎の…
時子(ときこ)はアリスと二人、如意輪寺の本堂を後にした。 帰る時間だ。 冷たい風の吹いている、境内に出る。 時子は、身じろぎした。 山門の方に向かう。 「お坊さん、会えなかったね」 時子はアリスの方を振り返った。 当寺にはアリスの知り合いの僧侶が…
竹薮の中で猿姫(さるひめ)は、忍びの女である一子(かずこ)と対峙している。 一子は猿姫の心を迷わせる言葉をかけてきた。 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)たちと同道することが、いかに猿姫のためにならないか。 語りかけて、彼女に忍びになるよう…
時子(ときこ)は座ったまま不安な面持ちで、横に座るアリスを眺めている。 アリスは上の空で、目の前の本尊に視線を向けていた。 彼女は少し前に、この本堂に泊まりたいと漏らした。 時子には寝耳に水の話だ。 面接の帰りに、時子はちょっとした寄り道のつ…
棒の切っ先を、いつでも相手の喉元に突き立てられるように。 猿姫(さるひめ)は、棒を構えて腰に引きつけている。 目の前に立つのは、忍びの女、一子(かずこ)。 月明かりの下に、素顔を晒している。 「貴様と取引することなどない」 答えながら、ひと息に…
絨毯の敷かれた床の上に、時子(ときこ)とアリスは座り込んだ。 目の前には本尊の威容がある。 二人で、この本尊を眺めている。 如意輪寺の本堂の中は、天井にランプ照明が灯っているばかりで薄暗く、静かだった。 外では境内を吹く風の音がしている。 しば…
如意輪寺の境内にいる、時子(ときこ)とアリス。 夕暮れどきの寒さの中で、二人はお寺の建物に入ることにした。 たとえ寒くても、もうさっさと帰ろう、という気は二人にはなかった。 先ほど、食品工場での面接で即日採用を告げられたばかりで、気持ちが高ぶ…