『延々とついてくる奇妙な男』
夜間の帰路である。
数メートルの間隔を置いてついてくる気配が自分の背後にある。
菊江(きくえ)は後ろを振り返った。
「貴殿に興味はござらぬ」
相手の姿が目に入るか入らないかの瞬間に大きな罵声を浴びた。
慌てて前に向き直った。
相手の姿は確認できなかった。
しかし男の声なのは間違いない。
気持ちが悪い。
その男は興味はないと言うが、駅を出た後からもう10分以上はこちらの後ろを歩いているのだ。
つかず離れずである。
自宅まで帰る道沿いにずっと街灯が灯っていて、また自分たち以外にちらほらと人通りもあるからいいようなものの、正体不明の男に延々と後ろに立って歩かれるのは気持ちが悪い。
どういう人間なんだろう。
思わず振り返った。
「貴殿に興味はござらぬ」
また斬りつけるような大きな罵声である。
菊江は慌てて前を向いた。
振り向いた瞬間、街灯の明かりの下に、もやもやとした人影を見たような気がした。
気持ちが悪い。
だが、ああも大声で罵声を浴びせられると、歩きながら振り返って相手を見るだけの気持ちは萎んでしまう。
立ち止まって体ごと相手に向き直る勇気は毛頭ない。
菊江は歩いた。
坂道にさしかかった。
もう何十年も前になる高度経済成長期、雑木林に覆われた郊外の山を切り開いて宅地化したのがこの界隈である。
菊江の家は、その山の中腹にあたる、坂の途中につくられた台地の上にあった。
菊江は坂を上った。
息が上がるほどの傾斜ではない。
しかし、後ろから男につけられていると思うと呼吸が乱れて、苦しくなった。
男も、後ろで坂を上り始めた気配である。
迷惑だ、と菊江は思った。
坂の上にある住宅は、少なくないとは言え数が限られている。
男にこんなところまでついて来られては、このまま菊江の家も知られてしまう。
菊江は後ろを振り返った。
「貴殿に興味はござらぬ」
全く同じ調子の、大きな罵声を浴びる。
慌てて姿勢を戻した。
しかし、もう我慢の限界だった。
菊江は走った。
坂道である。
今朝、足に馴染むスニーカーをはいて出かけたのが幸いだった。
家までのわずかな道を必死に駆け上った。
後ろから男も走って追いかけてきているのかどうか、耳をすませる余裕はない。
相手が歩調を変えずにいてくれることを願うばかりだ。
坂道の途中につくられた台地にたどりついた。
五軒の住宅が軒を並べている。
菊江は、大きな音をたてて自宅の玄関に駆け込んだ。
内側から扉に錠をかける。
台所から、菊江の母親が驚いた顔をのぞかせる。
「どうしたの菊江、どたばたして」
「誰か訪ねてきても絶対玄関開けちゃ駄目よ」
母親が菊江の引きつった顔を見て状況を理解したかどうかはわからない。
確認する余裕はなかった。
菊江はそのまま階段を駆け上がって、二階の自室に飛び込んだ。
自室の窓からは、住宅前の通りが見下ろせるのだ。
今は窓にカーテンが引かれている。
菊江は窓の前に身を屈めた。
慎重な仕草でカーテンを少しだけ開いて、外をのぞく。
街灯で周囲は明るい。
坂道から台地にさしかかる地点が見える。
ほどなく坂道の下から、菊江をつけてきたらしい男が姿を現すのも見えた。
菊江は息をのんだ。
窓から見下ろして初めて目の当たりにした男の姿は、もやがかかったようで、よくわからない。
こちらに向かって、悠々と歩を進めてくる。
その姿ははっきりしないが、明かりを反射する光沢を持った頭頂部と、腰から提げた二本の刀だけは菊江にも確認できた。
菊江は恐怖のあまり呼吸をするのも忘れ、目を見開いた。
そんな菊江に気づいてか気づかずか、男は歩調を早めも緩めもせずやってくる。
菊江の家の前を通り過ぎた。
そのまま歩いて、菊江の家から三軒隣の、台地の一番奥にある住宅に近づいていく。
菊江のいる位置からはそれ以上は見えないが、どうやら男はその住宅の玄関内に入っていったらしい。
台地の奥には、まだ雑木林が残っている。
日中でも、かつてのうっそうとした周辺の風景を思わせる大きな影が、件の住宅にはかかっている。
通りに街灯があっても、夜間ともなれば家屋の半分は暗闇に包まれる。
それが故に、その奥の住宅にだけはいつまでたっても入居希望者が現れず、空き家なのだ。
自分は興味をもたれていなかったようでよかった、と菊江は思った。
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