『雨も降らず、ファミリーレストランへ』
適当なことばかり言う人がいるので、町内はいつも不穏な空気に満ちている。
適当なことばかり言うのは、真理(まり)の母である。
「横山さん、洗濯物取り込んで。ほら、雨降るわよ」
ベランダから、母が甲高い大声でご近所を煽るのが聞こえる。
真理はため息をついた。
横山さんは、近所の若い主婦である。
先日、旦那さんと一緒に引っ越してきたばかりの人で、町内に溶け込むのに躍起になっている。
横山さんは母に煽られて、鵜呑みにして洗濯物を取り込むだろう。
しかし、天気予報を見ていれば母のいい加減なのはわかる。
午後から、降水確率はわずか20パーセント足らずだ。
今だって、若干曇り気味の空であるに過ぎない。
雨など降るまい。
近所でうちの母の言うことを間に受けているのは、もう横山さんだけなのだ。
「真理ちゃん。上がってきて、お母さんが洗濯物取り込むの手伝って」
家の中に向かっても叫んでいる。
馬鹿なお母さん、と真理は小さく毒づいた。
横山さんに呼びかけた手前、自分の側でも洗濯物を取り込まないわけにはいかない。
まだ乾いてないでしょうに、と真理は思う。
「ちょっと真理ちゃん」
「うるさい」
真理は叫び返した。
「もう。お母さん、手伝ってって言ってるでしょう」
真理はそれ以上相手にならなかった。
休日も、家にいるのはつらい。
机の上の勉強道具をバッグにつめ込んだ。
玄関に向かう。
家から外に出てきた。
「あっ、真理ちゃん」
母がベランダから真理の姿を見つけて叫んだ。
「どこ行くのお」
真理は返事をしなかった。
歩いた。
向かいの住宅のベランダで、横山さんが洗濯物を取り入れている。
人の良さそうな女性だ。
見上げた真理と目が合って、にこり、と笑いかけてくる。
真理は相手の目を見ることができず、ぎこちなく会釈をして足早に通り過ぎた。
途中、古くからいる近所の住人ともすれ違う。
横山さんと違い、相手は真理を見ると顔をそむけた。
無理もないのだ。
適当なことばかり言う母のおかげで、うちの一家は近所の鼻つまみ者だ。
鼻の奥が熱くなって、真理は小走りになって界隈から離れた。
ファミリーレストランのテーブル席で、真理は勉強している。
彼女には行き着けのファーストフード店があったのだが、そこで真理は喧嘩沙汰を起こした。
結果、店側から一ヶ月間の出入り禁止を言い渡されてしまった。
一ヶ月間と限定されたのは、店側の温情であろう。
その間はこうして、別のファミリーレストランに来ては自習の場としている。
今日もドリンクバーで粘ることにした。
だが家に帰りたくないので、このままここで夕食を食べていくかもしれない。
夕食を食べた後も、もしかしたら帰らないかもしれない。
24時間営業のお店だ。
朝までここにいようか、と思った。
「真理さん、真理さん」
とテーブルの横に立って呼びかけるものがある。
見上げると、先日、例のファーストフード店で真理と揉めた同級生の男子二人組だった。
休日なのに部活の帰りなのか、制服姿なのだ。
真理は緊張した。
「この間はすみませんでした」
二人は頭を下げた。
真理も立ち上がって頭を下げた。
ちゃんと謝っていなかった気がする。
「こっちこそ、ごめんね。この間、怪我とかしなかった?」
「大丈夫、俺たちこれで柔道部員ですから」
真理に手酷く痛めつけられた男子が、笑って肩から担いだ大きなスポーツバッグを持ち上げてみせる。
柔道着が入っているのだろうか。
何となく悪い気がする。
「よかったら、何かおごらせてもらっていい?おわびしたいので」
二人とも恐縮した。
「そういうつもりで声かけたんじゃないんだ」
「それはわかってるけど」
「気にしないで、挨拶しにきただけです」
「そう?」
「もう行きますわ。勉強の邪魔してごめんね。また」
さばさばしている。
手で謝意を示して、二人は離れたテーブル席に座った。
今日も仲が良さそうだ。
自分たちを痛い目に遭わせた相手とあれだけ自然に話せるのは、あの二人は人間が出来ているのだ。
真理は思った。
自分ももう少し、母に優しくできたらいいのかもしれない。
だが、そうは思っても上手くできそうにない。
夕食どき、真理は珍しく量の多い肉料理を注文した。
がつがつと肉食獣のように食べた。
向こうの席で楽しく食事している、男子生徒たちにあやかったのだった。
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