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『瞬殺猿姫(1) 猿姫うつけ殺し』

領主が本拠を北方の清洲の城に移してからというもの、那古野の城下は寂れる一方だ。 

その那古野の、長屋が並ぶ裏路地である。 

小柄な若い女が、まじめくさった顔をして歩いていく。 

顔が小さくて額の広い彼女が眉をひそめている様は、どこか思慮深い猿を連想させた。 

服装もおかしかった。 

髪は短く、首のあたりで切りつめている。 

裾を腰の下あたりで切った羽織の下に、股引を履いている。 

脛にはごてごてした脚絆を巻いていた。 

さらに背中には、長い棒を収めた袋に紐を通して担いでいるのだ。 

まっとうな女ではない。 

曲がり角から話をしながら歩いてきた幼い子供と若い母親が、彼女にぶつかりそうになる。 

「あっ」 

体勢を崩して、母子は動くことができない。 

ぶつかる瞬間だった。 

若い女は表情も変えず、素早く身をかわして親子の体を通り過ぎ、平然と歩いていく。 

並の人間の動きではなかった。 

驚いた顔で、母子は女の背中を見送った。 

「母ちゃん、あの人、何」 

子供は興奮冷めやらない顔で母の着物の袖を引いた。 

「あれは、猿姫だよ。那古野に帰ってきてたんだね」

母は胸に手をあてて息をしている。 

「猿姫?母ちゃん知ってるの」 

「昔小さい頃にね、一緒に遊んだこともある。その後すぐ、あの子は今川様のところへ送られちまったんだ。でも帰ってこれたんだね」 

母親は目に薄く涙を浮かべながら、女が去った方角を見つめた。 

当の女の姿は、もう見えなくなっている。 

 

若い女は、彼女を知る人からは猿姫(さるひめ)と呼ばれていた。

猿姫は尾張国那古野城下の中々村という土地の生まれである。 

幼い頃に父親と折り合いの悪かった猿姫。

彼女は那古野の実家から遠く離れた、遠江国武家に奉公に出された。 

そこで長らく勤めたが、同僚の若衆たち相手に喧嘩沙汰を起こした。

猿姫は、強かった。

大勢の怪我人を出して暇を出された。 

那古野に戻ってきたが、猿姫は地元の領主に仕官するのが嫌だった。

実家に戻るのも気がとがめた。 

仲の悪い父親は健在で、実家に彼女の居場所はないのだ。 

仕方なく、日中は街をうろつくか郊外に出かけて時間をつぶしている。

夜は木賃宿に泊まるか知り合いの家を訪ね歩くかしている。 

悪くすれば、野宿することもある。 

 

今日は日差しが強くて、まぶしくてたまらない。 

猿姫は街の外れを歩いていた。 

雑木林の間を通る道で、歩き続ければ領主の住む北の清洲の城下まで行けるのだ。 

途中、出くわす川のほとりに朽ち果てた小屋がある。 

以前は、舟を保管する場所だったのだ。 

そこが、夜を過ごすのに困ったときの猿姫の定宿だった。 

中には使い物にならなくなった舟が放置してあって狭いが、屋根があって日陰なのだ。 

もういい加減に泊めてくれる人も尽き、手元の金も頼りない。 

日は高いが、もう川沿いの小屋の中に落ち着いてしまうことにした。 

 

きしむ戸を開けて小屋の中を見ると、先客がいた。 

薄暗く、姿ははっきり見えなかったが、置きっぱなしの舟の陰に隠れる気配がある。 

草鞋を履いた素足がのぞいている。 

埃っぽい場所だが、密会に使う物好きな男女もあるのだ。 

だが、気配は一つしかない。 

猿姫はため息をついた。 

捨て置かれたような場所とは言え、自分は先客を追い出してまで居座れるほどの身分ではない。 

元通り戸を閉めようと手をかける。 

「待たれよ」 

中から声がかかった。 

「猿姫殿であろう」 

猿姫、猿、と呼び捨てられることはあっても、殿までつけてもらえるのは稀だ。 

見ていると、舟の陰から男が出てきた。 

猿姫の目が中の暗闇に慣れて、男の姿が浮かび上がってきた。 

 

体は細いが上背があり、猿姫を見下ろしている。 

若いが、妙な風体の男だ。 

顔立ちは整っているが、目尻を下げた笑みを浮かべるその表情は、どこか人柄が良さそうだ。 

上等な絹の羽織を身につけていた。 

しかしその羽織が、下品なのだ。 

布地に、口に出すのもはばかられるような、いやらしい絵柄が丁寧な刺繍で描かれている。 

腰に大小の刀を挿していて、なおかつ男はいくつものひょうたんをぶら下げていた。 

下品な羽織の前を、麻縄で結わえて合わせている。

しかし刀とひょうたんの重みで、結びのぞんざいな縄がゆるんでいた。 

そのために前は大きくはだけて、生々しい胸板から腹にかけてと赤い褌。

さらに草鞋を履いた素足が露わになっている。

 

汚らわしい侍、うつけだ。 

自分の娘離れした服装のことは棚に上げて、猿姫は眉をひそめた。 

尾張のうつけ侍、と言えば近隣に名が知れ渡っている。 

織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。 

「織田三郎信長でござる」 

三郎は、薄暗い中でことさら笑顔をつくる。 

右手を猿姫の方に差し出した。 

 

三郎は尾張の領主である織田家の出身であった。 

だが奇行が多く、織田家中はおろか領民からも軽んじられている。 

共も連れずに下品な格好でうろうろしているからだ、と猿姫は相手を見ながら思った。 

領主はとっくに清洲に移ったというのに。

三郎は、いまだ落ち目の那古野城下でくすぶっているのである。 

反射的に猿姫は、相手が自分の手を握ろうと近づけてきた手を、手先で叩き落していた。 

「いたっ…」 

「何の真似だ、気持ちの悪い」 

「しかし南蛮にはこうした挨拶があるのだ」 

「南蛮のことなど知るか」 

猿姫は、小屋の中に踏み込んだ。 

手をさすっている三郎に迫り、相手の下品な羽織の襟元をつかんで、頭を引き寄せた。 

「な、何をなされる」 

小柄な相手に襟を取られて前かがみにさせられ、三郎は目を剥いた。 

「お前、私の名を呼んだな、猿姫と。なぜ知っている」 

「なぜって、拙者は方々歩き回っておるから、人の噂をよく聞くのである。近隣の武芸者のことには詳しいのだ。貴殿が那古野城下の生まれなのも、今川家中では図抜けた棒の使い手だったことも知っておる」

 目を剥いたまま、三郎はまくしたてた。

「それで何だ。ここで私が寝泊りしていると知って待ち伏せか」 

襟首をつかんだ拳を相手の胸板に押し付ける。 

三郎の顔が歪んだ。 

「ま、待ってくだされ。それは誤解じゃ、拙者は拙者の理由でここに潜んでいる」 

彼女の手でねじ上げられながら、三郎は訴えた。 

襟首を放してやる。 

三郎は反動で背を反らせて、後ろによろめいた。 

鎖骨のあたりをさすっている。 

猿姫が手荒くしたせいで、肌が赤くなっていた。 

「なんで潜んでいた?」 

「それを教える前に、後ろの戸を閉めてくだされ」 

「ふざけるな」 

武芸に明るい猿姫も、暗い小屋の中で男と二人になることには抵抗があった。 

何をされるかわからないし、外聞もある。

「しかし敵方に見つかっては困るのだ」 

三郎は真顔になって言う。 

気迫がある。 

不覚にも、猿姫は、たじろいだ。 

「敵方」という言葉、また彼が潜んでいた理由も気にはなる。 

妙なことをされたら遠慮なく叩きのめせばいい、と自分に言い聞かせて。

猿姫は背後の戸を閉めた。 

暗い。 

壁の羽板の隙間から差し込む、わずかな光だけが頼りだ。 

風が通らないので、蒸して熱い。

そんな中で、猿姫と三郎は見つめあった。

暗い中にお互いの姿が、ぼんやりと浮かんでいる。 

「閉めたぞ。説明してもらおう」 

少しばかり緊張して、早口で猿姫はうながした。 

三郎は、依然真顔でこちらを見つめている。 

「その前に、猿姫殿。拙者に約束してくれぬか」 

「約束、何をだ」 

「織田弾正忠には仕官せぬと」 

猿姫は目を見張った。 

「どうして」 

三郎は、口元で笑ったらしい。

 

織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)。

弾正忠は尾張国を治める織田家の当主であり、なおかつ三郎の実の弟である。 

現在、清洲と那古野を含めた尾張国全域を、この弾正忠が支配している。 

 

弾正忠は、歴代の織田家当主の中でも、際立った才能を持って生まれた男であった。 

冷静沈着な人柄から若くして家中の家老たちの信頼を勝ち取った。

家老たちの協力を得られれば、領内の統治も円滑に進められる。

善政を敷いて、領民から慕われた。

領民から慕われているので、その領民から選ばれた兵たちは、弾正忠によく従う。

戦場において、弾正忠の兵の動きは抜群の統率力を誇った。

尾張国内で長年織田家に敵対していた多数の土豪たちを、彼は容易に討ち取っている。

そうした弾正忠の功績があって、織田家は尾張一国を統一することができたのだ。 

 

そういう経緯がある。

先代の当主は身まかる際、うつけで有名だった嫡男三郎を黙殺した。

代わりに、優秀で実績のある弟を跡継ぎに指名した。 

当然、誰も異論は無かったのである。

 一方の兄、うつけの三郎は、家中に居場所を失ってしまった。

今や、客将のような身分になって、かろうじて暮らしている。 

追い討ちをかけるように最近、彼の唯一の庇護者だった家老が、三郎の先行きを悲観して自害してしまった。 

だがそのあたりの詳しい経緯は、猿姫はよく知らない。 

「私に弾正忠に仕官するなとは、どういうことだ。話が読めないが」 

猿姫は眉をひそめ、片頬をふくらませた。 

子猿じみた表情である。 

生真面目な猿姫がそんな顔をすると、だいたい見た者は笑う。

しかし暗くて見えづらいこともあってか、三郎は動じなかった。

「何も聞かずに約束してもらいたい。でなければ続きを話せぬ」 

「そんな約束はできない。私だって生活に困っているからな。仕官の口があれば仕官する」 

三郎は当惑した顔を見せた。 

親指を口元に運んで、指先を噛んでいる。 

「うつけめ、子供みたいな真似はよせ」

猿姫は思わず叱った。 

「貴殿に話の腰を折られてしまったのだ。よし、仕方ない。約束はせずともよい」

「どっちなんだ」 

「要は拙者が明言しなければよいのだ。猿姫殿、これを見てくれぬか」 

三郎は指先で、放置された舟の上を指した。 

背の低い猿姫がのぞきこむには、舟のへりが少し高い。 

彼女は背伸びして中を見た。 

舟の内側には、木の端切れなどがごちゃごちゃとつまっている。 

暗い中ではっきりとは見えない。 

だがその内部に、細長く大きな袋が置いてあるのがわかった。 

袋は中に何か入って、大きくふくらんでいる。 

槍か刀でも入っているのかと思ったが、それにしては短く、かさがある。

 「鉄砲である」

 三郎は短く言った。 

「なんだそれは」

 「南蛮から伝わった得物でな。鉄の玉を、火薬の力で矢のように放つことができるのじゃ。鉄の玉が真っ直ぐに飛ぶ。そして、撃つのにたいした腕力も技もいらぬ」

武術に明るい猿姫には、その鉄砲の有用性がぼんやりと理解できた。

もし本当に腕力と技を必要としない武具なら、誰にでも使えるということだ。

足軽どころか、女子供にも使えるかもしれない。

「それは便利だな。だがなぜここにある」 

「貴殿は約束をしなかったから、それは教えられぬ。が、数日後にこの小屋の近くを那古野城に向かう弾正忠が通る、ということは伝えておこう」

三郎は冷静な声で告げた。

猿姫の顔から血の気が失せた。

鉄砲という武具の実際は知らないが、弓矢に置き換えれば、状況の想像はつく。

小屋の中からの、狙撃。

「おっと。深入りし過ぎたらしい。それ以上聞くのはやめておくよ」

猿姫は三郎の真顔から、慌てて目を背けた。

話が、重大すぎる。 

「武芸者としての私をかいかぶっているようだが…。悪いが、そういう大それたことに加担はできない」

答えながら、猿姫の額に汗がにじんだ。

 「俺は何をするとも言ってはおらぬ。だが、まあそういうことである。貴殿に力になってもらいたかったのだが」 

三郎が弱々しい声で言うのが聞こえる。

 心を開きかけた猿姫の及び腰に、傷ついたのかもしれない。 

「私も、お前の力になりたいのは山々なんだが」

「無理強いはせぬ」 

猿姫は、何だかうしろめたくなる。 

「拙者が貴殿に話したいことは、それだけであった。もう行かれよ」 

三郎は、小さな声でうながした。 

「そうか」

「うむ」

「大丈夫か」

「うむ。行かれよ」

「じゃあ私、行くよ。うつけ殿、元気でな」

「猿姫殿もお達者で」 

三郎はこちらに背を向けて、応じる。

 「お達者で」

猿姫が背中を向ける後ろで、消え入りそうな声でもう一度つぶやくのが聞こえた。 

後ろ髪引かれる気持ちを振り切るように、猿姫は戸を引き開けて外に飛び出した。 

 

相変わらず外の日差しは強く、目がくらんだ。 

視界も定まらないうちに、外から小屋の扉を閉めた。 

扉に背中をつけ、しばし深呼吸する。 

落ち着いた。 

目を開けた。 

川のほとりである。 

遠巻きに、街道をこちらに向かってくる複数の人影が見えた。 

四人。 

目を見開いている猿姫に向かい、次第に速い歩調で迫ってくる。 

彼らは彼女に視線を合わせているのだ。 

逃げようかどうしようか迷っている間に、近寄られていた。 

肩衣に袴姿で腰に大小の刀を挿した、武士である。 

それぞれが、頭に編み笠を目深にかぶっていた。 

目元が見えない。 

猿姫は、殺気を感じる。 

「娘、その中で何をしていた」 

武士の一人が威圧的な声をあげる。

近隣の武家なら間違いなく織田家の者だろう。

しかしそれにしても彼らは三郎の仲間か、それとも弾正忠の手先か。 

猿姫には、迷いがある。 

「いいえ、何も。宿無しなので、ここで寝泊りしております」 

武家に対する町の娘らしい声をあげて応じながら、相手の出方を探った。

笠をかぶった相手の口元が、薄く開いた。 

「うつけの寝床に呼ばれたか」 

「はっ?」 

顔に血が昇った。 

「な、何をおっしゃっているのか、私にはわかりませぬ」 

「伽は済んだのかな。うつけ殿は死ぬ前にせいぜい楽しまれて、成仏なされることだろう」 

武士たちの口元に、かすかに笑みが浮かぶ。

猿姫の全身が、緊張を覚えた。 

那古野城下にうつけの片棒を担ぐ輩が、まだ残っているとは聞いていた。たかが小娘だったとはな。気の毒だが、貴様にもここで死んでもらう」 

猿姫の間近に迫った武士が、腰に手をやる。 

殺気。 

武士が親指の先で鯉口を切る。

それと猿姫が背中から愛用の棒を真っ直ぐに振り下ろすのとが、全く同時だった。 

がつん、という重い音が周囲に響いた。 

武士は崩れ落ち、地面に大きく膝をついた。

それから全身で崩れた。

武士の刀は抜かれなかった。

男がかぶっていた編み笠はひしゃげて折れ曲がり、頭から転がり落ちる。

後には、男の剃り上げた頭頂部が砕けて割れ、赤く染まっている様がのぞいていた。 

猿姫は男の遺体を見下ろしている。 

体の側面を武士たちに向けていた。 

両手で持った棒を横に構え、股を大きく開き腰を落として立っている。

 

残る三人の武士たちは猿姫を遠巻きに取り囲んだ。

距離を取ったうえで、次々に刀を抜いて構える。

猿姫は、首を回して武士たちを見た。

弾正忠が遣わした追っ手たち。

三郎は共する者もなく、一人であの小屋に潜伏して。

近くを通る弾正忠を狙撃するつもりだった。

だが優秀な弟には、追い詰められたうつけの悪あがきなど、お見通しだったのだ。 

 

うつけの三郎には、居場所がない。 

猿姫の自分にも、居場所がない。 

じわじわと追い詰められて、消されていく。

 

追っ手の武士たちは、足先でじりじりと猿姫との距離をはかっている。 

戦いに、猿姫の野生の血が騒ぐ。 

「さっさと来いよ。お前らはうつけと小娘相手に腰が抜けたか?」 

自分でも気持ちを抑えられず、猿姫は口角を大きく上げて笑っていた。 

相手に牙を見せる、凶暴な野猿の顔。 

猿姫の獣じみた嘲笑に、男たちは釣り込まれた。 

手前に立った二人が、先を競うように猿姫の元に殺到する。 

一方が刀を横から払う動きで襲いかかった。 

棒の届く距離は、刀よりも遠い。 

猿姫は手の中の棒をしごく。 

口先で息を吐いた。 

肩から先を鞭のようにしならせて、棒の切っ先を小刻みに武士の肉体に撃ち出すのだ。 

鼻の下、喉、鎖骨、胸骨。 

武士の刀が届く前に、棒の連撃が四度に渡って相手の肉体にめり込んでいた。

猿姫の棒扱いは巧みである。

だがその見た目に反して、棒は軽いものではない。

いずれも、一撃一撃で確実に相手の骨を砕いている。 

相手は前につんのめり、手先で刀を宙にひと振りさせながら、顔から地面に突っ込んで事切れた。 

二人目の死亡。 

だが、その間にもう一人が猿姫の右側面に大きくまわりこんでいた。 

腰だめに構えた刀を、猿姫のわき腹めがけて体ごと突き出してくる。 

危なかった。 

猿姫はかろうじて上半身をひねり、棒を相手の刀の腹にぶつけて男を弾き飛ばす。 

もう一人の武士が猿姫の左側から迫っている。 

猿姫は棒を体に引き寄せながら、相手に距離をつめた。 

棒の一方を下から跳ね上げて、相手の刀を側面に弾き飛ばした。 

そして、後ろに下がっていた棒のもう一方を、体勢を崩した相手の脳天へ気合と共に打ち下ろす。 

最初に犠牲になった武士と同じく、相手は脳天を割られた。 

三人目の死亡。 

刹那、背後からの一撃を猿姫は予期した。 

殺気が迫っていたのだ。

 

だが避けられない。 

下半身に重心を乗せずに繰り出す突きはいい。

だが棒を打ち下ろす強烈な一撃を放った場合、猿姫の重心は低く落ちてしまう。 

そこから次の動きに移るまでには隙があるのだ。 

刀の切っ先が、猿姫の背中を袈裟懸けに切り下ろした。 

相手も無我夢中だったのだろう。 

もし無防備な背中を突き刺されていたら、致命傷だった。 

背中の肉を断ち切られる痛みが走る。 

だが、傷は浅い。 

切りかかられたことで、猿姫は無理やり前のめりに倒れて傷を浅くすることに成功したのだ。 

猿姫は倒れながら、前方に転がった。 

切られた背中が地面に接して、嫌な感触があった。

それでも棒を抱え、地面の上で体を反転させる。 

最後の武士は血に塗れた刀を上段に構え、低い位置にいる猿姫に追いすがった。

 

轟音が鳴り響いた。

 

猿姫は、地面の上で仰向けになりながら、とっさに棒を構えて顔を守っていた。 

その棒の向こうで、武士が前のめりになって倒れていく。 

口元から、血があふれていた。 

刀を放り出して、地面の上にうつ伏せに伸びた。 

倒れた武士の着物の背中には、小さな穴が開いていた。 

猿姫は、小屋の方を見た。 

煙が渦巻いている。 

小屋の戸の隙間がわずかに開いているのが見えた。 

戸ががたがたと開いて、中から三郎が現れる。 

片腕で、長い棒状の道具を抱えている。 

あれが鉄砲か、と猿姫は思った。 

三郎はおぼつかない足取りで進んできた。 

周辺に倒れている武士たちの遺体を見回した。 

鉄砲を地面に投げ出した。 

仰向けになっている猿姫の姿に目を落とす。 

「猿姫殿、ご無事か」 

その声が震えている。 

猿姫は背中でうずき始めた痛みに顔をしかめながら、それでもうなずいて返した。 

「うつけ殿、鉄砲、お見事」 

「おお」 

三郎は強張った笑みを一瞬浮かべる。 

それからよろめいて、地面に膝をついた。 

両手をついた。 

這ったままうなだれて、嗚咽を漏らす。 

やがて猿姫が呆れて見ている前で、涙を流してすすり泣き始めた。 

「怖かった…」 

まるで子供のようだ。 

いくらうつけとは言っても、これから先が思いやられる。 

猿姫は空を仰いで、息をついた。

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