『手間のかかる長旅(054) お金が欲しいままに自宅に戻る』
食事の後の、つかの間の雑談を終えた。
店を出た時子(ときこ)たち三人は、挨拶を交わしてその場で別れた。
それぞれ、午後からの予定に向かうのだ。
町子はアルバイト先、アリスは広告向けの撮影でスタジオに行くという話だった。
時子には、午後の予定はない。
出費は嫌なのでまっすぐ帰ろう、と時子は思った。
午後から特に予定はなく、予定もないのに無理して街を歩こうものなら、余計な物欲が湧くかもしれない。
余計な物欲が湧けば、出費につながる。
一人になってから、アパートの自室の方角に向かって、とぼとぼと歩き始めた。
街の中心地から、郊外に向かう国道沿いの歩道を一人、進んでいる。
日はまだ高く、人通りも多い。
これからお昼を食べに行くのか、オフィスビルから出てくる若い女性従業員の集団とすれ違った。
制服姿の彼女たちは、楽しそうに話しながら、時子の横を過ぎていく。
あの人たちはお昼を食べて、その後また仕事に戻ってがんばるのだろう、と想像すると時子は後ろめたくなった。
アパートに帰ったら、時子は自室の掃除と、夕食の準備を始める。
それ以外に、何もすることがない。
以前に請け負っていた在宅の仕事の注文は今はなく、しばらくは次の依頼が来るあてもなかった。
先ほど、アリスに自分の旅行の予算について心配されたことが、まだ心に残っている。
旅行に行くだけの予算は確保しているつもりだが、やはり何かした方がいいかもしれない。
実のところ、お金はもっと欲しいのだ。
でも何をしたらいいのだろう、と現実的なことを考えると時子の胸はざわつく。
在宅の仕事の元締めに、こちらから催促の電話でもかけてみるべきだろうか。
いままでに、そんなことはしたことがないので、抵抗がある。
これは、旅に出るまでに、何か新しいアルバイトでも探して少しでもお金を貯めるべきかもしれない。
新しいことに挑戦するのが苦手なたちの時子も、そんな考えに迫られるぐらい、思い詰めた。
郊外にある、自分のアパートにたどり着いた。
学生の頃から住んでいる、女性専用の賃貸アパートである。
家賃が安い。
その分、部屋は狭いが、小さなキッチンとユニットバスがちゃんとついている。
時子が実家からのわずかな仕送りと臨時の収入だけで生活していられるのは、この経済的なアパートに住んでいるおかげだった。
そんなアパート建物の入口に立った。 オートロックの玄関扉は、当然閉まっている。
脇の壁面についたインターホンに、時子は財布から取り出したカードキーを近づけた。
背後で、人の気配がする。 驚いて、カードキーを手にしたまま時子は振り返った。
「あ、おんに、ときこおんに」
声をかけられた。
立っているのは、時子と親しい人物である。
長い黒髪の、小柄でどこか幼い容貌の女性だ。
時子と町子の仲間たちの一人、ヨンミだった。
彼女は隣国から来ていて、親戚の経営する食品店で働いている。
時子よりも年下で人懐っこい人柄、それもあって時子は彼女に仲間うちでも特に親しみを感じていた。
ヨンミは今はトレーナーにジャージというラフな格好で、足元にはふくらんだボストンバッグが落ちている。
「ヨンミちゃん。いったいどうしたの」
驚いた時子は、高い声をあげてしまった。
ヨンミは、友人である。
だが、時子の家にわざわざ訪ねてきたことはこれまでなかった。
その服装とボストンバッグは、なんだか訳ありに見えた。
しかもヨンミは、胸の前で両手を合わせて、どこかすがるような目で時子を見ているのだ。
「ときこおんに、かるごしおぷそよ。とわじゅせよ」
「あの、ええと…」
困っている雰囲気は伝わったが、時子にはヨンミの話す言葉がわからないのだった。
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