『手間のかかる長旅(055) 思い余って二人で部屋に入る』

ヨンミは切実な目でこちらを見ている。 

時子(ときこ)は戸惑った。 

ヨンミの足元に落ちているボストンバッグから察するに、おそらく泊めて欲しいと言っているのだ。 

どうしよう、と思った。 

なにしろ意思疎通ができない。 

「泊めて欲しいの?」 

「ね」 

ヨンミはうなずいた。 

「弱ったな…」 

時子は両手を頬に当てる。 

「あにぇよ、ときこおんに、くにゃんおぬるぱん」 

ヨンミは訴えた。 

長居はしない、とでも言っているのだろうか。 

時子が戸惑っている間に、付近の通行人たちが、アパート前で押し問答する二人に気を留め始めていた。 

また近所に住む高齢の男性が、数メートル離れたところにわざわざ立ち止まって、好奇の目で二人を眺めている。 

この状況が、ますます人目を引いた。 

注目を浴びて、時子の顔が熱くなる。 

「とりあえず中に入りましょう」 

「ね」 

ヨンミはうなずいて、足元のバッグを拾い上げた。 

衣類が入っているのだろう、衣擦れの音がした。 

ヨンミを伴って玄関扉を開けながら、時子は思案している。 

言葉は通じないものの、素性の知れた相手なのだ。 

不安はあれど、部屋に入れたところでおかしなことにはならないだろう、と自分に言い聞かせた。 

ヨンミも不安だったのか、時子の方に身を寄せてくる。 

二人で時子の部屋に向けて通路を進んだ。 

 

部屋に入って靴を脱ぐと、入口の脇にトイレ付きのバスルームがあって、その隣には備え付けの小さなクローゼットがある。 

そこを抜けた奥には、六畳の和室が一間あるだけの部屋だ。 

隅に木製の事務机の椅子があり、机の上にはノートパソコンを置いたままになっている。 

部屋の壁側には流しとガスコンロ台の簡易なキッチンが設けられている。 

この部屋に、テーブルのようなものはない。 

時子が食事をするときは、いつも事務机の上でなのだ。 

和室の真ん中にヨンミを座らせた。 

そうしておいて時子は、ガスコンロで水を入れたケトルを火にかける。 

来客のためにテーブルぐらい買っておいた方がよかったな、と今さら痛感した。 

ボストンバッグを部屋の隅に置いたヨンミは、あぐらをかいて、力なく座っている。 

疲れた様子だった。 

時子も彼女の横に座った。 

しばらく、無言で時を過ごした。 

ガスコンロのガスの音だけが聞こえている。 

「何があったの?」 

時子は尋ねた。 

答えを聞いてもわからないのだが、お湯が沸くまで気詰まりなのだ。 

「うりおっぱが、ぱらんぴうぉっそっそよ」 

答えるヨンミの声は弱々しい。 

「え、ええと」 

「くれそ、ちょぬんかるごしおぷそよ」 

ヨンミの語尾は消え入りそうな泣き声になって、彼女は両手で顔を覆った。 

時子には何だかわからない。 

ヨンミは身を曲げて、泣いている気配である。

 

時子は彼女のそばににじりよって、ともかくも手でヨンミの背中をさすった。 

「なんだかわからないけど、元気出してね」 

両手の隙間から、ヨンミは濡れた目で時子を見る。 

「マイボーイビトレイドミィ、ゼンアイワズキックドアウトフロムヒズルゥム」 

泣きながら、まくしたてた。 

それは英語の言葉らしい。 

「う、うん?」 

時子は英語も不得手なのだ。 

時子の煮え切らない反応を見て、感極まったヨンミは声をあげて泣いた。 

泣き声とほぼ同時に、ケトルが口から鋭い音を立てて蒸気を吹き上げる。 

時子は不覚にも、発作的に笑い声をあげてしまった。 

異様な状況が何だか面白かったのだ。 

しかしヨンミに気付かれてはまずい。 

とっさに自分の口を押さえるように、泣いている友人の体に覆いかぶさった。 

相手の事情も飲み込めないまま、ヨンミの体を抱きしめる。 

「ときこおんに」 

ヨンミも、時子にしがみついた。 

ケトルが二人のそばで、けたたましく蒸気を吹き続けている。

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