『失くした傘の行方』
どこかに、傘を置き忘れてきたらしい。
しかし大事に使っていたものなので、自分がうっかり忘れてきたというのが信じられなかった。
もしかしたら、置き引きにあったのかもしれない。
それで然るべき窓口に言って、傘を失くしたと伝えたら、小船に乗せられた。
「いや、私は傘を失くしたので、届けられてないかと思っただけで」
「いいから座ってなさいよ」
船頭にたしなめられ、私はその小船の底に仰向けに這いつくばった。
私は高所恐怖症でもあり、また船恐怖症でもあるのだ。
何しろ小船なので、揺れる。
船頭は長い櫂を持って、その先で水底を突くかたちで小船を前に押し出すのである。
小船は、湖面をぐらぐらと揺れながら、進んでいく。
と言っても私は仰向けになって船底に視線を落としているので、周囲の様子はわからない。
なんで傘を忘れただけでこうなったのだろう、と思う。
そう言えば、初めて来たその役所の建物の前に、湖があって小さな桟橋が出ているのを怪しく思っていたのだ。
湖の前にわざわざ役所を建てる意味がわからない。
始めから、来庁した市民を湖に送り出す目的なのでは?
そう思っている間にも、船頭は小船を漕いで行く、いつの間にか私の頭上で歌を歌いながら漕いでいる。
年季の入った、渋い歌声であり、私は船恐怖症も忘れて聴き入った。
「ついたよ、降りておくれ」
陸地に着いたらしい。
船頭にうながされ、船底から身を起こしその桟橋に降り立った。
小島だった。
湖の中ほどに、ごく小さな小島がある。
その陸地の上に、木造の日本家屋が乗っかっていた。
平屋で、島の水際すれすれまで土地を使って建っている。
母屋といくつかの建物を渡り廊下で結んだ、なかなか立派な屋敷だ。
だが水気にやられたのか、木材のところところが傷んでいる。
「おいらはここで待ってるから、入っていって傘のこと聞きなよ」
船頭に後ろから声をかけられ、まごついているわけにもいかず、私は玄関の戸を開けて建物に入った。
古い旅館のようだった。
玄関口の土間から上がると、上がり框から奥の方まで通路が続いている。
驚いたのは、その通路の側面の壁に、無数の傘がかけられているのだ。
色とりどり、形も様々なそれらがおびただしいカーテンのようになって、壁にある出っ張りから下がっている。
「おお、傘よ!」
私は叫んだ。
土間に靴を脱いで、屋敷に上がった。
柔らかいカーペットが敷き詰められた床を、傘を物色しながら進む。
私が無くした愛用の傘は、そう高いものではなかった。
しかしこの通路にかかっている傘の中には、格式のあるものも多い。
いったいどうやって集めたのだろう。
通路を行き止まりまで来ると、左手に部屋があった。
扉はなく、部屋の中が見えている。
木製の大きな机があって、その後ろに中年の女性が座っていた。
和服をまとって、ゆったりとした雰囲気。
机の上に片肘をついて、物憂げな表情でいる。
傍らには煙草盆を置いてあって、煙管がさしかけてあった。
煙草の先から煙がゆらゆらと天井にまで昇っている。
「あの」
私は声をかけた。
女性はふいをつかれたように私の方を見た。
慌てて居住まいを正して、椅子から立ち上がった。
「ああこれはどうも」
頭を下げる。
何か、後ろめたそうな風情だ。
「傘をですね、失くしたんです。ここにあるんじゃないかと思いまして」
私は率直に言った。
「それはそれは」
女性の視線が一瞬泳いだ。
「では、ここにお探しものがあるのかもしれません。ご自由にご覧になってください」
彼女は丁寧に言ってお辞儀をし、再び椅子に腰を落ち着けた。
机の上に目を落とし、もじもじと身じろぎして私には二度と目を合わせない。
腑に落ちないまでも、許しを得たので自由にしようと思う。
また通路に出て、傘を物色した。
長々と時間をかけて見てまわる。
「あっ、あった!」
私は思わず叫んでいた。
10年ばかりも前に失くしたはずの、携帯用の傘を見つけた。
これは、当時、結構高くついたものだ。
失くした当初はあきらめがつかなかったのに、忘れた頃になって見つかるなんて。
私は、携帯用の傘を携える。
屋敷を後にした。
桟橋から小船に乗り移った。
這いつくばる気にもならず、腰を掛けて背筋を伸ばした。
湖面の景色がいい。
船頭の渋い声の歌を聴きながら、もといた場所に帰った。
新品価格 |