『瞬殺猿姫(7) 髭武将には手荒な猿姫』
男をうつ伏せにさせて、座敷の畳の上に押し付けている。
猿姫は彼の上に覆いかぶさり、男の背中に片膝を押し当てているのだ。
そのまま、うつ伏せの男の両手首と足首とを背中の上できつく縛り上げて。
男を、えび反りの体勢にさせた。
酷い体勢で縛られているのは、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)である。
阿波守は苦しげな表情を見せながらも、猿姫のするままに任せていた。
「何も、そこまで手荒にすることはないのでは」
二人の姿を眺めながら、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は気の毒そうに言った。
猿姫のやり方が、目に余ったのである。
「三郎殿は甘い」
三郎の方を見て、猿姫は叱りつけた。
「こいつは、危険な男だ。こうでもしておかないと、こいつとお主とを二人きりになどできない」
阿波守を縛り上げて、ようやく猿姫は彼の体から離れた。
畳の上を這って部屋の隅に行く。
そこに置いてあった自分の身の回りの物と愛用の棒とを集めて、手に取った。
気だるそうに立ち上がっている。
視線を、外の通路に面した障子戸の方に向けた。
「猿姫殿。どこへ行かれるおつもりか」
「お湯を使ってくる」
三郎の方を見ず、猿姫は早口に答えた。
諸々の物を抱えたまま障子戸を開けて部屋の外に行き、後ろ手に戸を閉めた。
猿姫が外の通路を歩き階段を降りていく、小さな足音。
三郎と阿波守は黙ってその足音が遠ざかっていくのを聞いた。
しばらく、静かな時間が流れる。
手持ち無沙汰な三郎の目前で、阿波守はえび反りのまま放置されている。
不自然な体勢で、拷問を受けているような姿である。
「…苦しくはござらぬか」
酷い目に遭っている阿波守と二人きりになり、三郎は何を話しかけていいか思いつかなかった。
苦し紛れに、わかりきったことを聞いた。
「…苦しい」
畳にその髭面を埋めながら、阿波守は苦しげな声を漏らして返す。
恨めしそうに、三郎の方に目を向けている。
我ながら馬鹿なことを聞いた、と三郎は思った。
「すまぬが、少しの間の辛抱でござる。我慢してくだされ」
猿姫が部屋に帰ってくれば、阿波守の縄も解いていいはずだ。
「馬鹿なことを」
三郎の説明を聞いて、阿波守は苦しい姿勢で鼻を鳴らした。
「何がでござる」
「あの女が湯を使って戻ってくれば、次は誰の番だ」
「誰の番とは」
「うつけ。次はお主が体を清めに行くのではないのか」
「あっ」
確かに、と三郎は思った。
織田弾正忠(おだだんのうのじょう)の刺客から逃れ、何日も那古野の郊外で潜伏生活。
続けて陸路と海路の旅を経て、ようやく今夜、この白子の宿に落ち着いたのである。
その間、ろくに体を清める機会もなかった。
猿姫でなくとも、お湯を使って、長い間の体の汚れを落としたくなるのは道理だった。
「おっしゃるとおりですな」
うなずいている三郎を見返す阿波守の表情は、暗かった。
「そうだろう。なら、お主がいない間、今度は俺はあの女と二人きりにされるのだ」
「結構ではござらぬか」
阿波守の気持ちも顧みず、真面目に答える三郎である。
ここ最近の日々を猿姫と二人きりで過ごしていて、彼は満更でもない気持ちだった。
「何が結構なものか。この場にお主がいなくなれば、歯止めがなくなるだろうが」
「と、おっしゃると」
「止める者がいなくなれば、あの女、遠慮なく俺を痛めつけるに決まっている」
阿波守は、うんざりした顔で三郎を見ている。
三郎は苦笑した。
「しかし、猿姫殿とて、訳もなく貴殿を害するようなことはあるまい」
「お主の目には、あの女が行儀のいい姫君か何かのようにでも見えているらしいな」
「行儀のいい姫君にしては多少手荒なところはあるが、あれで根はまっすぐな、優しいお人柄でござる」
三郎は猿姫をかばった。
「おめでたい男だ、お主は」
阿波守は鼻を鳴らした。
「な、何がでござる」
「あの女は、お主に利用価値があるからそれなりの態度を取って遇しているだけのこと」
「利用価値、でござるか」
三郎は息を飲んだ。
「左様。俺が先ほど言った通り、お主は織田家の嫡男である以上、利用価値がある」
「で、ござろうか」
もはや流浪の身で、実家に命を狙われる現状では、三郎には実感がわかない。
自分に、それほどの価値があるのかどうか。
「しかし阿波守殿、失礼ながら、貴殿は猿姫殿を見損なっておられるように思います」
自分の価値云々以前の問題である。
猿姫が、利用価値を品定めしたうえで他人の扱い方を変えるような女であるなどと。
三郎には思えなかった。
「それは、俺に対するこの扱いを見ても言えるのか」
うつ伏せで手首と足首とを結び合わされ、えび反りにされている阿波守はうめいた。
たとえ敵方の人質相手にしても、酷い扱いであった。
「お気の毒でござる」
三郎には、気の毒そうに阿波守を眺めた。
「されど、ご心配召さるな。利用価値云々とおっしゃるなら、貴殿にも利用価値がござる。貴殿は人質でござる故、いろいろと…」
「その先は聞きたくないぞ」
阿波守は苦しい姿勢でわめいた。
三郎は、口をつぐんだ。
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