『瞬殺猿姫(10) お伊勢参りはできない猿姫』

通路の脇で、壁にもたれかかって。

猿姫(さるひめ)は、指先を噛んでいる。

彼女は愛用の棒を傍らに立てかけて、思案しているのだった。

宿の下女が来て、彼女を一瞥して通る。

「お嬢さん、えらい今日はおめかしして、どこへ行くん?お伊勢参り?」

「いや、そういうわけじゃない」

思案している猿姫は、素っ気無く答えて下女の視線をやり過ごした。

下女は苦笑して通り過ぎた。

伊勢参りはしたいけれども不幸な身の上だからかなわない、と猿姫は思った。

この宿屋に泊まって、伊勢街道を通って南の伊勢神宮に向かう。

そんな客が、いるのかもしれない。

港で栄える白子の宿場には、大きくて格式の高い宿はいくらもある

それに比べて猿姫が今滞在してるのは、小さくて安普請の宿である。

だが、質素な宿を必要とする客も、世の中にはいるのだ。

猿姫一行は、宿場の外れにある、目立たないこの宿を選んだ。

追われる身である。

さらに、旅を続けるうちに余計な荷物が増えていく。

「おい、一子」

人質の分も路銀を負担しなければならない以上、質素な宿ほどいい。

「えっ、何?」

この女の路銀まで三郎殿に出させるわけにはいかない、と猿姫は思っていた。

 

階段の下の物置部屋に、一子(かずこ)と名乗る忍びの女がいる。

いったん外に引きずり出したのだが、猿姫は考えがあって、再び彼女を中に戻らせた。

「間違っても、逃げる気なんて起こすなよ」

戸の隙間を開いて中をのぞき込みながら、猿姫は脅しつけた。

一子は、積まれた布団の隙間から、光る目だけをのぞかせていた。

「逃げないよ…」

「もし逃げたら、わかっているな」

「わかっているけど、逃げないから」

「どうだか」

鼻を鳴らせて、猿姫は再び戸を閉じた。

羽織の胸元に、一子から奪った彼女の財布がしまってある。

まるで賊のやり口だ、と猿姫はうしろめたく思わないでもない。

だが、一子の体を探っても、他に奪えそうな物がなかったのだ。

一子から離れている間、彼女を逃がさないようにする必要がある。

そのために質として預かっておける物が、財布ぐらいしかなかった。

もし逃げたらお前の金を全部使ってしまってやる、と言い含めてある。

一子が約束を守るなら、彼女の金には指一本触れない。

そう自分に言い聞かせた。

思案の末に、猿姫は二階の座敷に戻った。

彼女は、一子を仲間に引き合わせるのを、控えたのだ。

 

障子戸を開けて中に入った。

織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、居住まいを正して座っている。

猿姫の顔を見て、顔を輝かせた。

「猿姫殿、お戻りになられたか」

「うん」

三郎の明るい声に、猿姫は戸惑った。

「拙者は嬉しゅうござるぞ」

「たいそうな。厠へ行っていただけなのに」

「それは方便で、拙者が嫌で出奔したのではないかと心配してござった」

「馬鹿な。そういう馬鹿を言うから、うつけだと言うんだ」

猿姫は呆れた。

三郎の傍らの男に目をやった。

たくましい髭面の人質、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)である。

阿波守は大きな態度であぐらをかいている。

煙草盆を手近に置いて、煙管を使っている。

猿姫は、彼の仕草に気付くなり、厳しい表情をつくった。

「おい。誰が貴様に煙草を吸っていいと言った」

阿波守は鼻から煙を吐きながら、無言で猿姫の顔を見上げた。

まぶたが半分閉じていて、挑発的な表情である。

「煙を吐くな。だいたい貴様、縄で縛っていたはずだ」

「解ける縄だから解いたまでのこと」

阿波守は平然と答えた。

「この際言うがお主、どうも縛るのは上手くないようだぞ」

愚弄する口ぶりである。

猿姫の頭に血が昇った。

「貴様」

棒を腰の横に構え、先を阿波守の方に向けた。

すぐにでも、思うままに突きを放てる姿勢だ。

殺気立っていく猿姫を、阿波守は変わらず挑発的な視線で眺めている。

奴の喉笛に一撃食らわそう、と猿姫は思った。

「猿姫殿、お気を確かに」

猿姫と阿波守との間に、三郎が倒れ込むようにして体を割り込ませた。

「ここでひと悶着起こしては、旅に差し支えます」

猿姫の前に、三郎は両手をついた。

「三郎殿」

猿姫は呆気に取られた。

他人の前に手をつくなど、貴人のすることではない。

「よせ、三郎殿」

「では、阿波守殿をお許しくださるか」

猿姫を見上げて懇願する三郎である。

三郎にはかなわない。

猿姫は苦々しい顔で構えを解き、棒先を畳の上に立てた。

彼女の態度を見て、三郎はほっと息をつく。

二人の様子を、当の阿波守は面白そうに眺めていた。

自分の命を救った三郎に感謝する様子もない。

 

一子をこの二人に引き合わせなかったのは、正解だった。

 

猿姫はそう思った。

今の醜態を見せずに済んだからだ。

それに、もしこの場に一子を連れてきていたら。

得体の知れない阿波守が、一子と結託するなり彼女を利用するなりして。

三郎と自分とを、窮地に陥れるかもしれないのだ。

やはり一子の存在は当分自分だけの秘密にしておこう、と猿姫は思う。

何より、自分以外の女が旅に加わりなどしたら、話が難しくなる。

三郎との絶妙な関係に狂いが生じるのは、猿姫は嫌なのだった。

 

猿姫は、三郎と阿波守を台所に連れて行き食事をとらせた。

旅支度を整えて、宿を出た。

宿場を通る伊勢街道を、伊勢神宮とは逆の方角、北へ歩く。

白子の北方に位置する城、神戸城へと向かう。

神戸城主、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)と会見する手はずなのである。

「今さらだが、三郎殿。お主の羽織、やはり着替えようか」

歩きながら。

改めて三郎の羽織を見て、猿姫は眉間に皺を寄せた。

「なあ三郎殿」

「嫌でござる」

「嫌だと言ってもな」

三郎は戦国大名の嫡男らしく、上等の絹を使った羽織をまとっている。

しかし問題は、その羽織に刺繍された絵柄が、口に出せないほど下品なのだった。

また彼は、衣服の着こなしそのものが横着なのである。

猿姫が化粧をしたように、三郎には正装させるべきだった。

「正装しよう、三郎殿」

「無用でござる」

「しかし、神戸下総守に見くびられたらどうする」

「よいではござらぬか。まずは見くびらせましょう」

三郎は上機嫌で、考えがあるのかないのかわからぬ口ぶり。

猿姫はため息をつきながら、三郎に従って歩いた。

その後ろから、髭面の阿波守が大股に歩いている。

もはや縄もかけられず、自慢の髭を片手で撫でながらいい気である。

人質らしくもなく、腰には大小の刀をしっかり挿している。

さらに、彼らのはるか後方で。

街道筋に植えられた松の樹木の陰に、時々隠れながら。

一行をつけて歩く、忍び装束の女がいる。

一子である。

頭巾に忍び装束姿で、日中は目立つ格好なのだ。

しかし、街道を行く他の通行人たちは、奇異な彼女に全く注意を払わない。

それほどまでに、彼女には気配が無かった。

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