『瞬殺猿姫(17) 阿波守を爪弾きにする猿姫』
北伊勢の神戸城、縁側に猿姫(さるひめ)と織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)はいる。
忍びの一子(かずこ)がその場を立ち去った後も、二人は途方に暮れている。
南近江の大名、六角家と共に。
西の関家が、この城に攻めてくる。
「六角家の力を借りた、関家の攻勢。おそらく、大軍勢でござろう」
三郎は、青い顔でつぶやいた。
猿姫は首をかしげている。
関家と六角家が共謀して攻めてくる、というのはあくまで一子の言葉だ。
彼女は、場内の下人たちが荷造りをしていた、という事実を見たに過ぎない。
「しかし、関家云々は、あの女の妄想かもしれない」
三郎を落ち着かせたい思いで、猿姫は努めて静かな声で言った。
「所詮、得体の知れない忍びの言うことだ。話半分に聞いておかなければ」
「ですが猿姫殿、あの女人は猿姫殿のご友人なのでござろう?」
いつの間にか三郎の脳内では、一子と猿姫がそれなりの仲だということになっているらしい。
猿姫はため息をついた。
三郎のせいではない。
一子のあの馴れ馴れしい振る舞いを見れば、誰でも関係を計りかねるだろう。
「一子とは、今朝初めて会ったばかりだ」
「えっ」
「あいつ、私たちが泊まった白子宿の宿の、階段下に潜んでいた」
三郎は、不安そうに猿姫の顔を見た。
「それで外に引っ張り出して、尋問した。主の名を吐かないので、身元が割れるまで財布を預かることにしたんだ」
「今朝、そんなことがあったのでござるか。拙者らがいる座敷の下で」
「まあな」
「しかし猿姫殿、貴殿、朝そんな素振りは露ほども見せなかったのに」
三郎の口調に、わずかではあるが、責める響きがあるのを猿姫は聞き取った。
猿姫にしても、一子のことを三郎に黙っていたのは後ろめたい。
「そんなことがあったのなら、拙者にもお知らせくださればよいものを」
猿姫の胸が痛んだ。
「目覚めたばかりのお主にやっかいごとを知らせるのは、気の毒かと思ったので…」
「お気遣いは嬉しゅうござるが、拙者、猿姫殿に何でも一人で抱え込んで欲しくはありませぬ」
三郎は強い口調で言った。
気後れしながら、猿姫は、彼の目を見上げた。
猿姫を見つめる三郎は、真摯な目をしている。
「すまなかった」
猿姫は頭を下げた。
「謝ることはござらぬ」
三郎は即座に言う。
「ただ、これからは、内緒はいけませぬ」
「うん」
「拙者も、見聞きしたことは猿姫殿に何もかも話しまする」
「うん」
「それ故、猿姫殿もご遠慮なく、細かなことでもかまわず教えてくだされ」
三郎は正しい。
猿姫たち一行の代表は、三郎なのである。
彼に隠し事をしたのは、やはりよくなかった。
「よほど話しにくいことでもない限りは、お願い申す」
三郎は、彼なりの気遣いを見せた。
猿姫も彼の目を見てうなずく。
うなずき返す三郎。
二人して客間に戻ってきた。
中では、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)が座敷の上に寝そべっている。
そのむさくるしい髭面と不遜な顔つきを見るなり、猿姫は反感を持った。
「戻りました」
「おう、それにしても長かったな」
三郎に返事しながら、阿波守は、意味ありげな視線を二人に送っているのだ。
猿姫は、顔をしかめた。
猿姫と目が合い、鼻を鳴らす阿波守。
「お主らは二人で仲良く遊べて楽しかろうが、その間、俺は手持ち無沙汰で仕方がない」
意味ありげな言い方だった。
猿姫の顔に、血が昇った。
「何の楽しいことがあるか」
とっさに、猿姫は腹立ち紛れの声をあげた。
手にした棒を、阿波守の足めがけて振り下ろす。
慌てて足を引く阿波守。
座敷の上に、棒先がめり込む。
「猿姫殿、乱暴はいけませぬ」
横から、三郎が猿姫の腕を取って押さえた。
「放せ、三郎殿」
「いけませぬ」
「こいつの下品な口ぶり、もう我慢できない」
「いけませぬ、今は仲間割れしている場合ではござらぬ」
「こんな奴を仲間に数えるな」
暴れようとする猿姫を、横から三郎は抱きかかえるようにして押し留めている。
再び寝そべった姿勢に落ち着いて、阿波守は二人を眺めている。
「うつけと猿姫の間に入って二人の邪魔をする気はない。俺はもう人質で構わん」
「貴様、今さら何が人質だ」
一子のことも関家と六角家の軍勢のことも、脳裏から離れた。
猿姫は、ただ目の前でだらしなく寝そべる阿波守に、殺意を覚えている。
猿姫たちが客間に戻った頃、一子は御殿の屋根の上にいた。
屋根瓦の敷き詰められた上を、恐る恐るといった足取りで歩いている。
日光を吸った瓦は、焼けるような熱さだ。
だが、一子は顔に汗もかかず、表情は落ち着いていた。
まだ日は高く、空には雲も少ない。
屋根の上から、遠くまで見渡せるのだ。
東からは潮の香りの混じった風が吹いて、不安定な一子の体をあおる。
屋根の傾斜に沿って立ちながら、一子は西の方角、遠い亀山の地を見やった。
亀山は、東海道沿いの宿場街である。
その中心には、関家のいる亀山城がある。
一子は目をこらして、その遠方の亀山の地に異変がないか、確認しようとしている。
見通しはいいが、遠いのでよく見えない。
目の上に手の平でひさしをつくって日の光を遮り、さらに目をこらす一子。
その彼女の背後に、人の影が立った。
「一子姉」
男の声である。
一子は振り向きもしない。
「一子姉、そんなこといくらしても、遠くの城は見えんで」
「毎日こうしていれば、そのうち見えるようになるかもしらん…」
後ろにいる人間に、一子は気を許した声で返した。
一子の背後の斜面に、その男は立っている。
彼女と同じ柿渋色の忍び装束を来た男だ。
頭と口元は頭巾と布で覆われて、顔は見えず目だけがあらわである。
その目は、呆れた素振りを漂わせながら、目の前に立つ一子の姿を見守っていた。
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