『瞬殺猿姫(20) 一子は生きる。猿姫には負けない』
どうしたらいいだろう、と猿姫(さるひめ)は思案しながら歩いている。
神戸城の本丸御殿である。
背中に棒を担いで、通路を歩いている。
客人が、他家の城内をむやみやたらと歩き回るのは、あまり褒められたことではない。
だが、歩き回って城内の様子を確かめないといけないのだ。
この城が、本当に城攻めを受けるのかどうか。
先に忍びの一子(かずこ)が伝えた知らせの真偽を、確認する。
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)が彼女に託したのは、そういうことである。
その三郎は、城主に直に話を聞きに行った。
猿姫は、三郎を心配している。
三郎が、城主である神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)に対して不信感を持っているようなのだ。
猿姫自身が絡んでのことである。
三郎も神戸下総守も、見たところ双方の人柄は悪くない。
二人で穏便な話し合いはできそうに見える。
そのうまくいく話が、自分のせいでこじれてしまったとしたら、猿姫は後味が悪い。
人のことを心配して歩きながら、猿姫は城の台所に出てきた。
無意識に、通路を流れてくる食べ物の香りにつられて来たのだ。
しばらくすれば、昼食の時間である。
台所は、その調理中だ。
調理中の城の台所に、見知らぬ客人が入り込んだりしたら、いいことはない。
武家は、食事に毒を盛られることを恐れている。
強いて調理中のところへなど顔を出せば、あらぬ疑いをかけられるかもしれない。
台所をのぞきたかったが、疑われるのはごめんだ。
それに調理中で忙しい折を邪魔してもいけない。
揉め事を起こさなければ、そのうち猿姫たちにも、昼食を振舞われるはずだ。
いったん客間に戻って、食事をいただいた後に城内を調べようか、と猿姫は思う。
きびすを返し、後ろを振り返った。
そのとたん。
彼女の目の前、すれすれのところに立っている人物と、鉢合わせした。
突然、至近距離に現れた人の姿。
背後に気配などなかったのだ。
驚いて、猿姫は声をあげそうになった。
お互い額をぶつけそうなほどの至近距離に立っている。
「一子」
忍び装束の女、一子である。
相手を見上げた猿姫の視界いっぱいに、相手の驚いた顔がある。
「猿姫さんが、急に振り向くとは思わなかった」
「私は、つけられているとは思わなかった」
一子は、猿姫に気付かれることなく、彼女のすぐ背後からついてきていたのだ。
「なんのつもりだ、お前は。趣味の悪い」
動揺を隠したくて、猿姫は相手をなじった。
「あなた、何かを探しているようだったから。手伝ってあげようかと思ってね」
猿姫の至近距離に立ちはだかったまま、一子は胸を張って言う。
「何を探っていたのかな?」
「余計なお世話だ。どいてもらおう」
猿姫は、相手をにらんで言った。
「台所を見に来たんでしょう?」
「余計なお世話だと言っている」
「台所、私が見てきてあげましょうか?」
猿姫に向かって、さらに、にじり寄ろうとする。
猿姫は、にじり寄ってくる相手に、かえってぶつかるように体を突進させた。
一子の体にぶつかる寸前で、身を翻して相手の背中に回った。
目の前から猿姫の姿が消えたので、一子は重心を定め損い、前につんのめる。
転ぶ寸前で、素早く一歩を進めて踏み止まった。
「やるね」
相手の見事な体の使い方に、感嘆の思いだ。
猿姫は、凄い。
嬉しくなって、笑顔で猿姫の方を振り返った。
すでに猿姫の背中は遠く通路の向こうにある。
物凄い足の速さだった。
一子は、呆気に取られた顔でその後ろ姿を見送った。
「忍びである、この私を出し抜くとは。あの娘、只者じゃないな」
思わず、一子は独り言を言った。
しかもその娘に、財布を取られたままになっている。
一文無しだ。
白子宿の宿で猿姫に脅されるまま財布を差し出し、いまだに返してもらっていない。
「畜生、私の財布、返してよ」
本人がとっくに立ち去った通路で、脳内に猿姫の姿を思い浮かべて。
一子は、独り言で文句を言った。
しかし、そんなことをしても何にもならなかった。
誰も聞いていない。
また、聞かれても困る。
恥ずかしい。
奪われた財布を猿姫からどうやって取り返すか、その答えはいまだに浮かばなかった。
当面は、一文無しの身で。
猿姫から付かず離れず、活動するしかない。
こんな先のない小さな城に長居しているのも、そのためだ。
通路に台所から、料理を煮炊きするいい香りが漂ってくる。
たたずんでいた一子は、気を引かれた。
台所から食べ物を調達することを考える。
このところ、ろくなものを食べていない。
忍び込んだ先で、住人に気付かれないように物を手に入れるのも、忍びの者の技だ。
武家の食べている料理を、盗み食いする。
そのことを想像すると、一子は己の舌先がじんわりと湿るのを感じた。
食欲が刺激される。
台所に忍び込んで、料理をいただく。
さらに、猿姫が食べる膳を調理番から聞き出して、眠り薬を盛る。
そうすれば、彼女から穏便に財布を取り返すこともできる。
一石二鳥だ。
よだれが出そうになる口元を手の甲で拭っていると、背後に馴染みの気配があった。
「一子姉」
一子が親しくしている、連れの忍びの男だった。
「台所の前でうろうろしていては、城の者に疑われるで」
二人で御殿の屋根に登った際には、お互い忍び装束を着ていた。
ところが、目の前の男は今、その忍び装束を脱いでいる。
小袖に袴を着用して大小二本の刀を腰に挿し、武家らしい装いでいるのだ。
人目につく忍び装束の一子と比べ、その姿は場に馴染んでいた。
「一子姉、台所で何かする気か?」
彼は尋ねた。
「中の料理に、細工をしようかと思ってん」
男の問いに、一子は親しげに答えた。
「眠り薬。そうしたら、あのお猿の娘を眠らせられるやろう」
「やめや、そんな姑息なことは。後々、猿姫さんから恨まれるで?」
男は小声で抗議する。
一子は言われて頬を膨らませ、軽く相手をにらみつけた。
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