『瞬殺猿姫(22) 慶次郎を見る、猿姫の疑わしい目』
客間に帰る途中で猿姫(さるひめ)は、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)と出くわした。
猿姫は城内の探査をいったん打ち切り、昼食を食べてから続きをやろうと思っている。
「三郎殿、首尾よくいったのか」
「ええ。ご心配かたじけない。下総守殿から、諸々の話を聞けました」
満足そうに答える三郎の顔を見て、猿姫は安心した。
三郎は、城主である神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)と会っていたのだ。
昼食時、彼から新たな情報を得られるかもしれない。
「私の方は、さっぱりだったよ」
三郎と比べて、自分の方は成果がない。
それで、猿姫は少し恥ずかしそうに言った。
「もうすぐ、昼餉の頃合だから。昼餉をいただいて、その後で続きをしようと思う」
「昼餉にいたしましょう。ただ、その後の調べは無用でござる」
「なぜ」
「詳しいことは客間で話しますが、ひとつだけ。やはり関家、攻めて来るそうでござる」
声を落として語る三郎。
猿姫の背中に、緊張が走った。
神戸家と対立する、関家が攻めてくる。
先に忍びの女、一子(かずこ)が知らせた話だった。
「では、一子の言っていたことは正しかったのか」
「そのようでござる」
「のんびりと、もてなしの膳を受ける余裕もなくなったな」
「いえ、まだ時間の猶予はござる。昼餉はいただいておきましょう」
三郎の悠長な口ぶりに、猿姫は焦りを覚えた。
戦になるなら、逃げるなり戦うなり。
次の行動のための備えを、しておかなければならないのだ。
しかし、まだ詳しい話を聞いていない。
もしかしたら三郎は、何か自分たちが焦る必要のない理由を握っているのかもしれない。
とりあえず客間で話の続きを聞こう、と猿姫は思った。
三郎と二人で、肩を並べて客間までの道を戻った。
猿姫は客間の障子戸を開けた。
しかし中に、見慣れぬ人がいる。
部屋の奥に、若い武士が正座をし、背筋を伸ばして座っている。
傍らに、大小の刀を横たえている。
若いが、どこか風格のあるたたずまいだ。
部屋の外に留まり二の足を踏んでいる猿姫の方に、彼は視線は向けた。
「お入りくだされ」
よく響く、通りのいい声だった。
しかし猿姫は、その声には釣られない。
「そう言うお主は」
冷静に声をかけた。
部屋の外で踏み留まったまま、中の相手を見据えている。
「滝川慶次郎利益と申す」
武士は猿姫の厳しい視線にも顔色を変えず、朗々と名乗った。
滝川慶次郎利益(たきがわけいじろうとします)。
「貴殿らと同じく、神戸家に客人として招かれております」
じっと見ている猿姫の視線に耐え、慶次郎は冷静な声を返してくる。
猿姫は、首をかしげた。
「おかしいな。他に客人がいるという話は聞いていない」
「急な呼び出しを受けましてな。今夜の戦に拙者が入用だ、とのこと」
猿姫は思わず息を飲んだ。
「今夜の戦」
「左様。関家が攻めてくるそうですな。拙者、伊勢の土豪の者でありますが、今は神戸家に同心しております」
「ふうん」
猿姫は小首をかしげた。
背後では、三郎が固唾を飲んで見守っている。
半信半疑のまま、猿姫は、彼を振り返り目で合図を送った。
二人で部屋の中に入った。
慶次郎とは離れた場所に固まって、二人は座り込んだ。
蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)は、まだ帰ってきていない。
猿姫は、愛用の棒を身近に置き、あぐらをかいて座りながら。
慶次郎に向けて、上目遣いの疑り深い視線を送りつけている。
「慶次郎殿と言ったな」
「左様でござる」
「お主がここにいるというのは、私たちと同じ部屋で夜を越すということか?」
「いえ、そうではござらぬ」
慶次郎はかぶりを振った。
「先に申した通り、拙者、夜間は神戸家の戦に加担します。貴殿らのお休みは妨げませぬ」
「では、なぜここに?」
「同じ客人同士、共に昼餉をいただこうと思って参りました」
「ふうん」
猿姫は、また首をかしげた。
「いけませぬか」
落ち着いた慶次郎。
首をかしげたまま、猿姫は横に座る三郎の顔を見た。
三郎は猿姫の顔を見返した。
「なんでござる」
「どう思う」
「どう思うとは」
「慶次郎殿のことだ」
「本人を目の前にして言うのもおかしゅうござるが。なかなか、いい武者ぶりでござるな」
さしたる緊張感もなく、三郎は慶次郎を褒める。
褒められた慶次郎は、それでも顔色を変えず、猿姫たちを見ていた。
「そういうことではなく、同席を許すかどうかという話だ」
呆れながら、猿姫は言った。
自分たちの居場所に急な闖入者があったというのに、三郎の警戒心の希薄なこと。
生家の織田家に追われる身だということを、忘れているかのようだ。
「あ、そういうことであれば。よいのではござらぬか」
猿姫の言葉を受けて、三郎は朗らかに言った。
「慶次郎殿のお言葉通り、同じ客人同士。この場を借りて、よしみを通じるのはよいことでござる」
三郎は人柄がよいのが取り柄だということは、猿姫も内心認めている。
しかし相手の素性も知れないのだ。
あまり気前のいいことを言っていると、痛い目に遭わされるかもしれない。
危ないと思いながらも、猿姫はそんな三郎の言葉につい、なびいてしまうのだった。
「一行の頭がこう言っている。お主にはいてもらっていい」
猿姫は、疑わしい目で見たまま、慶次郎に申し伝えた。
「ありがたいことでござる」
軽く会釈を返す慶次郎である。
猿姫は慶次郎の挙動に注意を向けたまま。
何とか、相手から不審なものを嗅ぎ出そうとしていた。
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