『手間のかかる長旅(078) 時子もアリスも情緒的』
土曜日の朝。
前夜に一睡もできなかった末、時子(ときこ)は寝床から身を起こした。
横になったまま、一晩中不安な思いにとらわれて、目が冴えてしまったのだ。
昨晩、友人の町子(まちこ)からメールを受け取った。
友人の一人、アリスが怒っているという内容だ。
もともと、金曜日に仲間たち全員で集まって遊ぶ予定だった。
ところが成り行きで、アリスに連絡もなく、他のメンバーだけで集まったのである。
そのことを後から知って、のけものにされたアリスが怒ったらしいのだ。
先に金曜日に集まることを提案した時子は、責任を感じている。
責められるべき立場なのは、彼女なのだ。
朝食をとり、身支度を済ませた後、時子は出かけた。
公園で、町子と落ち合う約束なのだ。
彼女と会って、アリスにどう釈明するか、相談する。
昨晩のうちに、その旨を町子とメールで確認してあった。
いつもの公園に来た。
すでに、町子が座って待っているのが遠くから見えた。
こちらに体の側面を見せている。
彼女の向こう隣に、背の高いアリスが座っている。
毛皮のコートを身にまとったうえ、両腕で身を抱えるようにしている。
寒さに震えているのだ。
彼女たちの姿を目にして、時子は足がすくんだ。
町子には、怒っているアリスに釈明するため、相談する約束だった。
それなのに、町子はいきなりアリスを連れてきている。
酷い話だ、と時子は思った。
体が震える。
見る限り、二人は言葉を交わすこともなく、お互い前を向いて座っている。
ひたすら時子を待つ構えだ。
そんな彼女たちの前に出て行く勇気は、時子にはなかった。
出直そう、とっさにそう思った。
二人の方に目を向けたまま、じりじりと後ずさる。
そんな彼女の方に、座っているアリスが何気なく顔を向けた。
「あっ時子」
見つかった。
体ごと時子の方に向け、目を丸くして彼女を見つめるアリス。
彼女の手前にいる町子も気付いて、時子の方に体を向けた。
二人は一瞬、無言で時子に視線を浴びせた。
怒っていたというアリス。
時子との事前の打ち合わせを違えて、アリスを連れてきた町子。
この二人が、無言で時子に視線を浴びせる。
時子は、圧力を想像した。
さらに後ずさる。
「時子、こっち」
アリスは叫んだ。
その高い声に、時子は反射的に背中を向けた。
公園の外に向かって、時子は走った。
「時子」
再び、アリスの叫び声。
捕まったら、怒られる。
時子は走った。
公園のベンチから、離れていく。
「時子、待て」
しかし公園から出たというのに、依然としてアリスの声が追ってくる。
時子が走り出して間もなく、アリスもベンチから立って彼女を追い始めたらしい。
後ろから、走って追ってくるのだ。
「時子」
普段走り慣れていない時子である。
追ってくるアリスは、足が長くて歩幅が広い。
追いつかれる。
路上で呼吸が苦しくなり、よろめいたところで、後ろから両肩を抱かれた。
「時子ったら」
頭の後ろで、くぐもった声。
肩を持って、振り向かされた。
正面にアリスが立っている。
走ったせいで、長い髪は乱れに乱れ、毛皮のコートの襟元が大きく裏返っている。
荒い息をしながら、泣いている。
涙でアイラインが崩れて、目の下に濃い色の滴りをつくっている。
時子は、ぎょっとした。
「なんで逃げるのよ」
乱れた姿でアリスは時子の肩をとらえたまま、涙声をあげる。
責める口調ではなかった。
ただ、悲しい声だ。
時子を見つめる目にも、涙と悲しみが満ちている。
時子は、こんな取り乱した様子のアリスをこれまで見たことがない。
焦り、アリスの目から逃れようと、自分の視線をさまよわせた。
何か言わなければならない。
「怒られると思ったの」
震える声で、やっと弁明した。
おそるおそる、アリスの目をうかがう。
目が合った瞬間、アリスは時子の体を引き寄せて、自分の胸に抱きしめた。
「怒らないのに、逃げることないのに」
自分の頬を時子の額に押し付けるようにしながら、涙声で言った。
時子はされるがままになりながら、驚きで目を見開いている。
朝の路上で、二人はしばらくそうしていた。
時子は、アリスに抱かれながら。
アリスはアリスで何かあったのかもしれない、と思い始めている。