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『瞬殺猿姫(25) 眠る猿姫を巡り、客間は荒れる』

織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、緊張で固まった体を動かそうと躍起になった。

傍らに、眠り薬を嗅いでしまった猿姫が横たわり、眠っている。

その二人の目前に、刀を手にした男が迫っていた。

男は、滝川慶次郎利益(たきがわけいじろうとします)と名乗った。

しかし得体の知れない相手だ。

本当の名など、わかるものではない。

猿姫(さるひめ)の昼食の膳に眠り薬を盛った、卑劣な男なのだ。

右手に抜いた刀を持ち、歩いてくる。

「猿姫さんが眠っている、今の内に体を探らせてもらおう」

慶次郎は、横たわる猿姫を見ながら、何気なく言った。

三郎は耳を疑う。

「何」

「言うたやろ。猿姫さんが、俺の身内の財布を持っている。それを返してもらう」

慶次郎は、三郎の目前に歩いて来た。

二人の膳の、向こうに立っている。

手にした抜き身の刀の、切っ先を三郎の首に向けていた。

「織田様は邪魔立てなさるな。俺も穏便に済ませるつもりやから」

切っ先を三郎に向けたまま、膳の周囲を回って猿姫の傍らに近寄ろうとする。

「離れよ」

とっさに叫んで、三郎は手近の膳にあった塗り箸をつかみ、投げつけた。

宙を回りながら、箸は慶次郎の顔面に向かって飛んでいく。

慶次郎は、難なく避けた。

彼の背後に、箸が落ちて乾いた音をたてる。

その間に、三郎は猿姫をかばって、彼女と慶次郎との間に体を割り込ませた。

はずみで、猿姫の膳を蹴り飛ばし、転ばせてしまった。

料理が座敷の上に散った。

「猿姫殿には、指一本触れさせぬ」

慶次郎に向かって言葉を放った。

投げつけられた箸を避けた後、慶次郎は三郎のことを眺めている。

「立派なことをおっしゃる」

箸を一本手にして自分の方に向けている三郎を見ながら、慶次郎は笑っていた。

三郎は、唇を噛む。

自分の刀も鉄砲も、部屋の中の離れた場所にある。

手元で使えそうなものは箸だけだった。

刀を手にした慶次郎相手には、とても分が悪い。

それでもなお三郎は、無防備な猿姫に、男が手を触れることなど許せなかった。

彼女のことは、自分が守らなければならない。

たとえ得物が箸一本、もしくは素手であったとしても、相手を食い止める。

無法を許すわけにはいかない。

顔に薄笑いを浮かべている慶次郎の顔に、必死に視線を浴びせ続けた。

 

一方で、慶次郎は、心底弱っていた。

目の前で、織田家の嫡男が、敵意のこもった目で自分を見ている。

二人の間には、ひっくり返った膳と、散らばる料理。

背後には、箸が一本落ちている。

引っ込みがつかなくなってしまった。

事態が、深刻になりすぎた。

刀を見せれば、戦慣れしていない武家の若者など、あっさりと。

腰を抜かすはずだと、慶次郎はたかをくくっていたのだ。

一子(かずこ)の財布のために、死に物狂いの相手と殺し合うなど。

割に合わない。

それでは何のために苦労して猿姫に眠り薬を盛ったのだか、わからなくなる。

眠る猿姫をかばい、握った箸の先をこちらに向ける三郎の気迫は、厳しかった。

こちらが強いて進めば殺し合いになる空気だ、と慶次郎は思った。

それで、弱っている。

何とかして、言葉巧みにこの場を乗り切れないものか。

顔に薄笑いを浮かべて相手を見下ろしながら、慶次郎は泣きたくなっている。

「いやはや、天晴れな殿様やな」

何を言おうか心も定まらないうちに、慶次郎は口走った。

そのついでに、ごく自然な様子で、腰を低く沈めた。

持っていた抜き身の刀を、足元に置いた。

三郎の視線が動く。

姿勢を戻し、慶次郎は、両手を宙に上げた。

手を開いてみせる。

無防備であることを強調した。

「どうやろ、こうして刀を置くから、お互い少し話をせんかな」

張り詰めた場の空気を、あえて緩めるのだ。

そうすれば、緊張に耐えていた相手から、譲歩を引き出せる。

「何の話だ」

三郎は、かすれた声を返してくる。

箸を構えたままである。

自分が先に無防備になってみると、相手の箸一本でも怖いものだ。

だが、慶次郎は内心を顔には出さない。

「織田様が嫌がるようなら、俺も強いて猿姫さんに手は触れん」

相手の目を見ながら、ゆっくりと言った。

三郎も殺意のこもった視線を保って見返している。

「だが、財布は返して欲しい。どうやろか、織田様が、猿姫さんの体を探って見つけてはくれんか」

三郎の表情が、揺らいだ。

「俺が触れなんだらええのやろ。親しい織田様の手なら、猿姫さんも気にはすまい」

慶次郎は続けて言った。

取引なのだ。

たかが忍びの財布など、三郎にとって価値はないはず、と慶次郎は推測する。

目の前の若者が守りたいのは、傍らで倒れている娘のことだけだ。

無用な財布を返してこの場を収められるなら、お互い悪くない話のはずだ。

 

見ている慶次郎の前で、三郎は一瞬視線を泳がせた。

迷っている、と慶次郎は思った。

相手は再び慶次郎に視線を戻した。

その顔が、よりいっそう強張っている。

悪い予感がして、慶次郎は、緊張を覚えた。

「お断りいたす」

押し殺した声だった。

「馬鹿な…」

宙に上げていた両手が自然に下がって、口元を押さえそうになった。

「悪くない申し出のはずだ」

「猿姫殿は今、眠っておられる。いかな男の手も触れられない」

慶次郎を見上げ、苦しげな視線を向けながら。

三郎は、押し殺した声で続けた。

そんな馬鹿な、と慶次郎は思った。

 

いかな男の手も触れられない。

 

三郎は、自分自身のことも、その男の手のうちに数えているのだ。

慶次郎は、頭が真っ白になったように感じる。

自ら刀を手放してまで持ちかけたのに、申し出を蹴られた。

どうすればいいのだ。

目の前で箸を持って猿姫を守る三郎。

次第に、頑固な彼のことが、慶次郎は憎らしくなってきた。

こんなことなら、眠り薬など盛らずに猿姫を起こしておいて。

土下座でもして彼女に財布を返すよう乞うた方が、まだましだった。

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