『瞬殺猿姫(30) 猿姫に路銀を取られたままの一子』
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)と蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)は、神戸城の本丸御殿にいる。
三郎、阿波守の順に前後に並んで通路を歩いている。
緊張した面持ちで足早に歩く三郎に比べ、後ろからついていく阿波守は気楽な表情をしている。
神戸城の城主、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)と、三郎は三度目の謁見を終えたばかりだった。
今夜行われる神戸家と関家との戦を見物させてもらうよう、申し入れてきた。
「本当によかったのか?」
歩きながら阿波守は、背筋を伸ばして歩く三郎の背に声をかけた。
「血生臭いものを見ることになるかもしらんぞ?」
気遣う調子ではなかった。
戦慣れしていない三郎を、からかっているのだ。
「我らに関係のない戦なのだ。朝までおとなしく城内にこもっておればよいではないか」
「しかし、せっかくの機会でござる」
三郎は前を向いて歩きながら、答えた。
「下総守殿によれば、今宵の戦は儀礼的なものであるとのことでござる」
「そんな戦があるか」
阿波守は馬鹿にしきった声でなじる。
「しかし下総守殿はそうおっしゃいました」
「馬鹿馬鹿しい、何のためにそんな真似事の戦をするのだ連中は」
「係累にあたる関家と、必要以上に殺し合わないため。そう聞きました」
「だったら最初から戦そのものを止めればいいではないか」
後ろから矢継ぎ早に遠慮のない声をぶつけられて、三郎は困ってしまう。
三郎だって、阿波守と同じように思っているのだ。
「関家と神戸家、お互いの独立を守るため、戦そのものは必要なのではござらぬか」
「なんでだ」
「詳しいことはわかりませぬが…」
阿波守は自分を困らせて喜んでいるのではないか、という疑いが胸に湧き始めた。
通路の途中で、向こうからやってくる猿姫の姿を目の当たりにした。
いつものように愛用の棒を手にして、足早に来る猿姫。
「猿姫殿」
起きて無事に動いている彼女を見て、三郎は安堵の余り声を高めた。
猿姫は無表情のまま軽くうなずいて、三郎の脇に立った。
三郎と阿波守も足を止める。
「心配をかけたな」
猿姫はしっかりした声で言った。
「猿姫殿のご無事を、信じておりました」
ずいぶん心配した、と言いたいところをこらえて三郎は答えた。
猿姫はうなずき、一瞬三郎の後ろにいる阿波守の顔に視線を走らせる。
にやにやと笑っている阿波守の髭面を見て眉をひそめ、すぐさま三郎に視線を戻した。
「ところで、二人してどこに行っていた?」
「実は…」
「おい、通路の中ほどで話もないだろう。客間に戻ろう」
後ろから馴れ馴れしく三郎の肩に手をかけ、阿波守は言った。
猿姫の表情が険しくなり、阿波守をにらみつける。
三郎は慌てた。
「阿波守殿のおっしゃるとおりです、行きましょう」
猿姫をうながした。
猿姫は阿波守の顔に一瞥くれて、三郎と共に元来た方角に歩き始めた。
三人で客間に戻った。
忍びの女、一子(かずこ)は神戸城の西、東海道沿いの亀山の宿場町に来ている。
同じく忍びの男、滝川慶次郎利益(たきがわけいじろうとします)を伴っていた。
二人して忍び装束ではなく、旅人の装いであった。
旅をする武家の女と、その家臣の男。
そうした風情を装って、二人でいる。
夕暮れ時の亀山宿である。
亀山は、関家の本拠である亀山城の城下町でもあった。
宿場の往来は、旅人と地元の商人で賑わっている。
「関家と六角方が兵を動かす時間になるまで、この辺りの宿に潜んでいよう」
傍らの一子に、ささやくようにして慶次郎は言った。
一子は顔を背けた。
「一子姉」
「うるさい」
一子は、いまだに機嫌を損ねている。
猿姫に奪われた財布を取り返すように慶次郎に依頼したが、慶次郎は果たせなかったのだ。
「今夜から、私とお前は別行動をする」
一子は、冷たい口調で言い渡した。
「それは仕方ない」
慶次郎は、肩をすくめた。
いつものことだ。
必要なときだけ、二人で行動を共にする。
「でも、一子姉、ええんか」
「何が」
一子は、慶次郎の方をうっとうしそうに見た。
「財布取られて、一銭も持ってへんのやろ。俺がついてなくて、大丈夫か?」
「うるさい、忍びに路銀はいらん」
一子は威勢よく言い返した。
「ちょっと、大きい声を出しなって」
慶次郎は不安そうに、周囲を見回した。
「もし人に聞かれたらどうする」
幸い、周囲を行き交う人たちは忙しく、一子たちの言動には無関心だった。
「誰も聞いてへん。びくびくするな」
一子は慶次郎の態度にいらつきを見せながら、歩き始めた。
「私はこっちへ行く。お前はあっちへ行け」
そう言い捨てて、あとは大股に、しかしどこか危なっかしい足取りで一子は進んでいった。
取り残されて、慶次郎は立ちすくんだ。
価格:5,298円 |