『瞬殺猿姫(31) 猿姫から離れ、一子は亀山宿』
一子(かずこ)は、物置部屋の中に積まれた、布団の間に挟まっている。
亀山の宿場町である。
旅人向けの宿が、いくらもある。
一子はそのうちの目をつけた宿のひとつに潜り込んだ。
猿姫(さるひめ)に財布を取られたままなので、一銭も持っていないのだ。
宿に金を払うこともできない。
だが金を払わず、宿の物置部屋に忍びこんで夜を過ごすのは、一子の常だった。
金があろうがなかろうが、変わらない。
夜になるまで、布団部屋に潜んで、休むつもりだ。
温かい布団の間に挟まって、一子は眠気を催し始めた。
うとうと。
少しぐらい、眠ってもいいかもしれない。
時間になれば、亀山城から、神戸城攻めの軍勢が出る。
嫌でも町はざわつくはずだ。
一子の敏感な神経があれば、その騒ぎで自然に目は覚める。
一子は気を緩め、布団の中に体を溶け込ませた。
物置小屋の戸が開く音で、一子は目を開いた。
何者かの気配が、物置小屋の中に忍び込んでくる。
今朝と同じだ。
今朝は、猿姫が忍び込んできた。
気付かれていなかったのに、その彼女に手を出したために、痛い目に遭った。
一子は意識を覚ましながら、様子を見よう、と思った。
積まれた布団の前に立っているのは、男だ。
一子と同じく、頭巾と忍び装束を身にまとっている。
慶次郎か?
と一瞬、一子は思った。
滝川慶次郎利益(たきがわけいじろうとします)は忍びの男で、一子の連れだ。
今は彼女とは別行動を取っている。
こちらの居場所を知らせていないから、来るはずがない。
それに、目の前の男の背中は、慶次郎のそれよりも小ぶりだった。
背丈も低い。
小柄な男だ。
敵方の忍びかもしれない。
しかし、男のたたずまいに、一子は見覚えがあった。
背中の形もそうだ。
喜びで、一子の頭は急に冴えてきた。
男は、背後の一子に気付いていない。
しばらく立って部屋の外の気配をうかがっていた。
安心したらしく、積まれた布団の前に、座り込んだ。
背はこちらに向けたままだ。
その首に、一子の腕が十分届く。
一子は、音もたてずに布団から上体を露わにする。
目の前の男の首に、両腕を巻きつける。
「ぐっ」
後ろから抱きつかれ、男は喉から声を漏らした。
両手で一子の腕をつかみ、もがいている。
「御館様、私です、一子です」
もがく相手を静めようと後ろから抱きしめながら、一子は相手の耳元にささやいた。
男の動きが止まった。
「…お主か」
「はい。御館様、ご息災で」
「そんなことはいい。一子、腕を解け」
男に言われるまま、一子は相手の背中から離れ、布団の中に戻った。
御館様と呼ばれた男は、頭巾から厳しい目をのぞかせて、背後を振り返る。
彼は一子にとっての、御館、主であった。
南近江を支配する大大名。
六角左京大夫義賢(ろっかくさきょうだゆうよしかた)である。
その名声は、畿内一円に聞こえている。
忍び装束を着て、宿場の物置小屋に忍び込むなど、そぐわない人物であった。
主を前にして、一子は積み重なった布団の隙間から、両目だけをのぞかせて見返している。
六角左京大夫は、そんな一子の醜態に、眉間に皺を寄せて向き合っている。
「お主は、こんなところに潜んで何をしている」
「戦を前にして、休息を取っております」
「お主を見ていると、どうも休息が多すぎるように思うぞ」
「御館様こそ、忍びの格好で何を?近江を空けられて、よろしいのですか」
「どうも胸騒ぎがしてな」
一子の問いかけに、左京大夫は低い声で答えた。
「胸騒ぎですか」
「神戸城、すんなり攻め落とせる気がせん」
神戸城を見てきたばかりの一子は、笑い声をたてる。
「小ぶりな、平城でございます。神戸下総守が動かせる兵の数も、たかが知れておりますわ」
歌うように、一子は言った。
「関家の兵だけでも、十分でございましょう」
「お主は気楽でいいのう」
左京大夫は相手にしない。
「そんな…」
「私も本物の忍びになって、お主のように気楽に暮らしてみたいものよ」
「これで私もいろいろ心配ごとがございます」
憤慨した一子は抗議する。
だが、布団の中に隠れたままでは説得力がなかった。
左京大夫は鼻で笑う。
「よいよい。お主はここで休んでおれ。私は関勢の様子を見てこよう」
立ち上がりかけた。
一子は、慌てて手を伸ばし、主の手首を取った。
「御館様、お待ちを」
左京大夫、一子の方を振り返る。
二人の目が合った。
「時間はありますわ。そんなに慌てなくても、ようございましょう」
一子の声には、享楽的な響きが含まれている。
「ここで、しばらくゆっくりなさっては?」
左京大夫は、わずかに目元を緩めた。
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