『旅の間は、旅で頭がいっぱいだ』
お金があるときは忙しくて旅に出られないし。
忙しくないときにはお金がないし…。
どちらのときにも、旅には出たい。
旅と読書が大好きだ。
旅も読書も、それらに励む間は、他のことを忘れていられるからだ。
旅好きな読書家の男が、職場でぼんやりしている。
勤め先は旅行鞄の製造メーカーである。
ビルの一階に小売店舗が設けてある。
自社製品の旅行鞄と、他社製の各種旅行用品を売る店舗なのだ。
スーツケース、旅客機内で使う安眠空気枕、パスポートケースなど。
そのショップのカウンターの中に立って、男はぼんやりしている。
客は来なかった。
「忙しそうには見えませんね」
重そうなダンボール箱を抱えて。
店舗内に商品の補充をしにやってきた同僚の女が、男を見て言った。
皮肉な口調だった。
特に客が来る様子もないのだから、隙を見て商品補充を行えばいいのだ。
男が。
手が空いているのだから。
しかし男は、ぼんやりと立っているだけだ。
仕方無く、同僚がその補充を行っている。
ダンボールを通路に置いた。
その口を開けて、中の商品を手早く商品棚に補充していく。
「旅の予定が出来れば、私がここで買い物したいぐらいです」
男は同僚の言葉に、静かに返事をした。
同僚は意味を取りかねて、首をひねる。
それでも何か思い当たり、間を置いてうなずいた。
「空港の旅行用品店よりも、かなり価格抑えてますもんね。この店。社員割引使えば、向こうの半額ぐらいですよ。立地は悪いけれど、一般のお客様も、もっと来てくれたらいいのに」
「旅がしたくてもできないから、もし旅の予定が出来れば、と仮定したんです」
男は静かな声で、それでも自分の発言の意図を知ってもらおうと主張した。
「今は忙しくて、とても旅になんか出られません」
同僚は、無言で男を見た。
男はぼんやりと立っている。
「…そんなに旅の妄想でお忙しいなら、いっそ長期休暇の申請でもして、旅に行ってくればいいんじゃないですか?通るかどうかわかりませんけれど」
皮肉に満ちた声である。
しかし男には、それが同僚からの的確な提案に感じられた。
冴え渡った表情で、相手の顔を見返したのだ。
寒い。
北国に冬場来るなら、それなりの装備は必要だった。
しかしそれらの装備を充分に揃えるだけの予算はなかったのだ。
雪に覆われた国の、安宿の部屋にいる。
男は震えている。
部屋の壁際には、オイルヒーターがあった。
しかし電源にタイマーがつけられていて、一時間も動かすと電源が切れてしまった。
それ以降、いくら触っても作動しない。
温かい母国製の冬服は、この北国の寒さ相手には無力だった。
男は、ベッドの上で薄い毛布にくるまっている。
寒い。
鼻水が止まらない。
同僚から提案を受けた後、男は上司のところに長期休暇の申請をしに行ったのだ。
それが結果的に、自己都合退職の申し出をするという流れに運ばれてしまった。
退職した。
旅に出る時間はできた。
しかし今後のことを考えると、旅の予算の上限は厳しく設定される。
退職の間際、職場での身辺整理に手間を取られた。
自社小売店舗で手頃な旅行用品を買うことはままならなかった。
辞めた職場の店に顔を出すことは、彼にもできない。
低予算、軽装備のまま、かねてより関心のあった北国に旅立った。
極寒の部屋で。
ベッドの上で仰向けになっている。
眠ってしまわないように、両足を宙に上げて、小刻みに動かしている。
寝たら死ぬかもしれない。
起きていることだけに必死で、他のことは、考えられない。
旅の間は、旅で頭がいっぱいだ。
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