『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』山田康弘
私、日本史、特に鎌倉から室町、戦国時代について書かれた本をよく読むのですね。
新刊本でも、最近は戦国武将が流行なのでしょうか、一人の人物について書かれた伝記本がわりと豊富に出ています。
いつの間にか、私が気になっていたこの人の本も出版されていた!
そういう発見が日々あるんですね。
ですから書店巡りと図書館巡り(あとネット書店巡りも)は欠かせません。
こんな本を見つけることができました。
『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』。
山田康弘氏の著作です。
日本史に詳しい方なら、名前ぐらいはご存知かもしれません。
足利義稙、「流れ公方」の異名を持ち、諸国を放浪した将軍として知られる人物なのです。
最初の名前は足利義材(あしかがよしき)、さらに足利義尹(あしかがよしただ)の名を名乗っていたこともあります。
最終的な名前が、足利義稙です。
おそらく、日本史関連の書籍には義稙の名で出ていることが多いと思います。
ただ彼の名前を知る人も、義稙がどんな人物だったかについてはよく知らないんじゃないかと思うのですね。
義稙は歴代足利将軍、また戦国時代の武将を通しても、特に浮き沈みの激しい劇的な人生を送った人物です。
彼の父は、8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の弟、足利義視(あしかがよしみ)です。
義稙は、この足利義視の嫡男として、美濃国(みののくに、現在の岐阜県)で育ちました。
京の都を舞台に繰り広げられた応仁・文明の乱の混乱の後、義政と対立する立場にあった義視・義稙親子。
彼らは京を追われ、美濃国での生活を余儀なくされたのです。
二人とも、足利将軍家の一族ではありますが、将軍職を継承する見込みなど到底ない立場でした。
その義稙の人生の転機は、9代将軍、足利義尚(あしかがよしひさ)の死でした。
8代将軍義政と、正室の日野富子(ひのとみこ)との間に生まれた義尚。
この義尚が、近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)の大名六角氏との戦の最中、近江の陣中で病没してしまったのです。
日野富子の妹を母に持つ義稙は、日野富子の後押しもあって、京に迎えられて将軍職を継承することに。
中央政治とは無縁なまま人生を送るかと思われた若者、義稙が、突然征夷大将軍の地位を得ることになったのです。
将軍としての知識、経験不足を補うべく、早々に近江の六角攻めを慣行し、周辺国の大名たちからなる大軍勢を指揮。
この戦に華々しい勝利を収め、義稙は就任早々にして将軍にふさわしい名声を獲得しました。
続いて河内国(かわちのくに、現在の大阪府東部)の大名、畠山氏の家督問題に介入します。
畠山政長(はたけやままさなが)に肩入れし、政長の一族で競争相手である畠山基家(はたけやまもといえ)を攻めるための大軍を指揮しました。
その戦の後には越前国(えちぜんのくに、現在の福井県東部)の朝倉氏攻めをすでに予定しているという過密スケジュール。
義稙はまず仮想敵をつくり、実際に配下の大名たちと団結して敵を攻めることで、大名たちからの尊敬を勝ち得ようとしていたのですね。
ところがこの義稙の方針が、裏目に出ます。
この畠山基家攻めの最中、義稙は突然の窮地に陥るのでした。
幕府の重鎮、細川政元(ほそかわまさもと)が京の都で、後に「明応の政変」と呼ばれるクーデターを慣行。
政元は足利義澄(あしかがよしずみ)を新将軍として擁立し、大名たちを従え、河内国の陣中にいる義稙に襲いかかったのでした。
義稙に味方したのは、畠山政長のみ。
大名たちは形の上では義稙に従いながらも、相次ぐ戦に嫌気が差していたのですね。
大軍に攻められて畠山政長は自害、義稙は将軍でありながら逮捕されるという恥辱を受けることになりました。
監禁され、細川政元の監視下に置かれる「前」将軍、義稙。
しかし監視の目をかいくぐり、脱出に成功しました。
畠山政長の勢力圏であった遠く越中国(えっちゅうのくに、現在の富山県)まで落ち伸びます。
ここから義稙の、政権奪還を目指しての、長い長い流浪生活が始まるのです。
「流れ公方」の称号を知る程度だった私も、本書で義稙の詳細な事跡を知るに及んで。
いつの間にか、義稙びいきになっている自分に気付きました。
凄いんですよ、この人は。
もともと将軍職には縁が無かったはずなのに、稀な幸運でその地位を手に入れるも、短期間で流浪の身に転落。
その後は、人並みはずれた執念で京への帰還を挑み続けるのです。
いったん権力の味を覚えて、義稙の上昇志向と言いますか権力志向に火がついたのでしょうか?
越中国の後、越前国、周防国(すおうのくに、現在の山口県南東部)と庇護者を求めて放浪します。
ようやく周防国の大大名、大内義興(おおうちよしおき)の助力を得て。
念願の京への帰還と将軍職の奪還を果たすのですね。
義稙は将軍として長らく京で巧妙に政治を行います。
ただ晩年には重臣たちとの齟齬から再び京を離れ、阿波国(あわのくに、現在の徳島県)で生涯を終えるのでした。
まさに「流れ公方」の呼び名がふさわしい、各地を流転した義稙の一生でした。
実は私、過去に徳島県を旅行した際に、義稙の墓所にお参りしているんですね。
その頃は、「流れ公方」の呼び名以上には彼のことを知りませんでしたが…。
調べてみないと、なかなかわからないものですね。
一般的にも、一部歴史マニアの方々をのぞいては、義稙の一生は知られていないと思います。
でも本書を読むと、織田信長、豊臣秀吉と言った天下人たちにも負けず劣らず、義稙がドラマに富んだ魅力的な一生を送った人だということがわかります。
複雑な時代背景と政治情勢とが、一般の読者にもわかりやすい文章で書かれていました。
歴史マニアでない方々にもぜひ読んでもらいたい一冊です。
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