『暴走バス、僕の孤独な戦い』
中に入ったときから、変なバスだな、とは思っていた。
旅先で乗った、路線バス。
車体の後部から乗り込むのだが、中に入るとまず、運転席が車体の後部にあるのが見える。
ちょうど、列車の車掌室のようだ。
大きなハンドルと座席、各種ペダル、シフトレバーが、客席後ろのリアウィンドウの手前に設けられている。
若干急ごしらえのつくりには見えるが、それでも運転席だ。
車両後部に、運転席。
かといって車両前部に運転席がないわけではない。
前部は前部で、通常のバス通り、運転席が設けられているのだ。
後部運転席の存在に面食らいながら、私は車内に入り込んだ。
ある駅前のロータリーに併設された、バス停に停車していたそのバス。
その頃にはまだ発車定刻まで間があったらしく、車内に運転手の姿はない。
車外で時間をつぶしているのだろう。
中では、何人かの乗客が座席にまばらに座っているばかりだ。
私も、車内中ほどの適当な席に座って、運転手が来るのを待つ。
ぼんやりとくつろぎながら、車体後部の運転席について考えた。
あれは、何のためにあるのだろう。
列車のように、このバスも進行方向を逆にして走ることがあるのだろうか。
例えばこの地元の街中には袋小路があって。
その袋小路に行き当たった後、そこから戻る際には後部運転席があると再発車が容易。
なんて。
そういう事情もあるのかもしれない。
もしくは案外、バス好きのお子様乗客を遊ばせるための設備だったりして。
この考えは、私の腑に落ちた。
となると、あのハンドルにペダル等、あれらは形ばかりのレプリカだろう。
私も小さな子供の頃、他の子供たちと同じく、各種の大型自動車には目がなかったのだ。
特に路線バスの運転手さんごっこが好きだった。
長らくのご乗車おつかれさまでした、次は東京駅東口、東京駅東口でございます。
童心に帰る。
私は手荷物を座席に置いたまま、立ち上がった。
後部運転席に向かう。
こちらに注意を向ける乗務員も乗客もいないのをいいことに、運転席に腰を下ろした。
それにしても、よく出来ている。
ハンドルもペダル類もシフトレバーも、バスのそれだ。
僕は運転手さんだぞ!
そう心の中で叫び、私はハンドルを握って左右に傾ける。
心なしか、今私のいる車体後部が、ハンドル操作に合わせて小さく振動した気がした。
気のせいだろう。
クラクションを鳴らしてみよう。
ハンドルの握り部分の間にある赤いクラクションを、手の平で押す。
「ぷっぷー」
大きな音が車内外に響いた。
私はぎょっとして震えた。
視線を感じて振り返ると、他の乗客たちもこちらを振り返っている。
まじまじと私の顔を見ている。
やってしまった。
本物に忠実につくられている運転席だ。
この分ではまさか、試せばエンジンもかかるのではないだろうか?
私は、イグニションキーの挿入場所を探す。
ハンドルの脇に、あった。
キーも、しっかりと入っている。
しかし…。
私は後部運転席から立ち上がり、元の座席に戻った。
キーがあるのなら、もしかしたら後部運転席、機能するのかもしれない。
だが下手にエンジンをかけたりして、後で運転手から怒られるのは嫌だ。
座席に座り、うとうとしていた。
旅先での、穏やかな眠り。
心地がいい。
しかし坐骨の下から響く振動で、その眠りは妨げられた。
私は目覚めた。
バスが、小刻みに震えている。
エンジンがかかっているのだ。
いよいよ発車か、と思った。
腕時計を確認すると、私が乗り込んだ時から20分ほど経過している。
車内は、乗客で満たされていた。
バスはロータリーから発車した。
真っ直ぐ走り、ロータリー内側の芝生に乗り上げた。
バスの車体が大きく傾き、乗客から悲鳴があがる。
そのままバスは芝生の上を走行し、再び車道に出た。
二車線道路の真ん中、白線のちょうど上をたどるように走った。
次第に速度を上げていく。
対向車線から向かってきた自動車が、慌ててバスを避け、歩道に乗り上げる。
歩道の歩行者が慌てて横に逃げる。
無軌道な運転のまま、バスはさらに速度を増した。
乗客たちの間に、緊張感が高まっているのを私は感じた。
なんという乱暴な運転だ。
このままでは、私たちはバス丸ごと事故に遭遇だ。
運転手にひとこと苦言を言わなければならない、と私は思った。
ぐらぐらと激しく揺れる車体。
私は座席から立ち上がり、座席脇に立つ支柱につかまりながら、通路を前方に進む。
運転席に近づいた。
途中の座席では、激しく揺れる車体に、乗客たちが身を固めて耐えている。
彼らの一様に頑なな態度に、私は憐憫の情を持った。
物言わぬ人たちなのだ。
私のように気ままに愚痴を言える性格ではないのだろう。
常日頃から、苦痛に耐えて真面目に生きているに違いない。
彼らの代わりに、私が愚痴を言ってやる。
運転席に、私はようやくたどり着いた。
しかし。
座席の上には、誰の姿もない。
無人であった。
「えっ」
私は思わず声をあげて、のけぞった。
その瞬間、バスが舗装の悪い車道に差し掛かり、大きく揺れた。
私は、通路上に放り出され、倒れた。
なんということだ。
このバスは、無人で走っている。
予想もしなかった事態だった。
「ちょっと、このバスいったいどうやって走り出したんですか?」
私は通路にしゃがみこんだまま、近くの席の乗客に大声で尋ねた。
返事は無い。
乗客たちは、座席に納まり、視線を前の座席の背に注いだまま身を固めている。
口元を固く結んでいる。
私は焦った。
「おい、何とか言え」
私の怒鳴り声にも、誰も答えない。
私は呆れた。
この非常事態なのに、乗客たちは黙って耐えているのだ。
「あんたら、なんとも思わないのか」
無反応。
私には構わず、それぞれが必死に車体の揺れとだけ戦っている。
馬鹿な、と私は思った。
運転手無しに走るバス。
それなのに乗客たちは自分の座席にしがみつくことだけに執着している。
「馬鹿たれ」
私は通路に膝をついたまま、誰とはなしに罵った。
無反応である。
「馬鹿たれ、お前らみんな死んでまうぞ」
私は無視され続けて、若干感情的になった。
無反応である。
もう、この乗客たちを相手にしていてはいけない。
私は通路上を這って、再び運転席に取り付く。
無人で暴走するバス。
なら、誰かが運転すればいい。
僕が、運転手さんになるのだ。
転がり込むように、座席に腰を落とした。
ハンドルを握った。
ハンドルをゆっくり歩道側に切りながら、私はブレーキを浅く踏む。
歩道に沿って停車するつもりだ。
しかしバスはその速度を変えず、ハンドルの操作にもまったく応じない。
依然、二車線道路の真ん中を暴走している。
運転ができない。
「なんじゃこりゃあ」
私は怒鳴った。
衝動に任せ、クラクションを激しく叩く。
しかし何の音もしない。
全く機能しない運転席。
無理やりキーを抜いてしまってはどうだろうか。
私は、イグニションキーの挿入口を探す。
挿入口はあったが、キーはそこには入っていなかった。
「えっ」
絶句するほかない。
運転手もキーもなく走っているバス。
遠隔操作か何かだろうか。
しかしこのとき、私は思い出した。
後部運転席の挿入口には、キーが挿さっていた。
クラクションも、押せば鳴った。
後部運転席だ。
走り続けるバスの勢いで前に流されながら、私はかろうじて通路に転がり出た。
立っていられない。
今は事故もなく走っている。
しかし、そのうち対向車、もしくは路肩の電柱にでも追突すればおしまいだ。
通路を這う。
後部運転席へ。
あそこなら、僕は運転手さんになれる。
物言わぬ乗客たちが座り、受難に耐える空間を通り抜ける。
後部運転席へ。
たどり着いた。
暴走するバスの進行方向に背を向けて座ると、胃の中がかき回され、目も回る。
苦しい。
しかし、負けてはいられない。
私はハンドルを握った。
ブレーキペダルに足先を乗せる。
思いを込めて、じわじわと体重をかけた。
足の裏に、反応を感じる。
私がブレーキを踏み込むのに合わせ、バスは次第に速度を緩めた。
リアウィンドウ側にはサイドミラーなどないので、私は前方を振り返る。
前方を確認しながら、ハンドルを切った。
バスは私のハンドル操作に従い、その進路を変えた。
「よし…」
歩道側ぎりぎりまで寄るのだ。
速度を落としながら、歩道側へ。
時間をかけて。
私は、バスを停車させることに成功した。
バス停でもなんでもない、車道沿いの場所。
だがともかくも停まることができたのだ。
無数の視線を感じて、背後を振り返った。
それぞれの座席にしがみついていた乗客たちが、こちらを振り返っている。
その顔に安堵の色が浮かんでいる。
やがて、彼らの間から拍手が起こった。
私に向けて、だ。
拍手は広がって、バス内の乗客全員が後部運転席の私を称える。
予想しなかった、満場の拍手。
私はいい気持ちになった。
運転席には、マイクが備わっている。
私はマイクを手に取った。
電源を入れて、口元へ。
「運転手不在のため、お客様にはご迷惑をおかけいたしました。これより当バスは通常運転に戻ります。次は東京駅東口、東京駅東口に参ります。お降りの際は、お手元の降車ボタンをお押しください」
東京駅東口までは、僕が運転手さんだ。
みんなの命は、僕が預かった。
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