『瞬殺猿姫(36) 神戸城での最後のお茶、いただく猿姫たち』

髭面の蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)は、表情を曇らせた。

「今まで慣れでお主のことをうつけとは呼んでいたが…本当にうつけだったとは」

織田三郎信長(おささぶろうのぶなが)を見据えがら、阿波守はうめいている。

神戸城の二の丸。

西から攻めてきた関氏の軍勢に押され、城内は混乱に陥っていた。

先ほどまでは、阿波守の提案で、三人は城を見捨てて逃げる流れだった。

しかし三郎は、その流れに異を唱えたのだ。

 「どういう状況か、お主にも明らかだろう」

阿波守は、諭すような口調で言った。

彼を見返して、三郎は口元を強く結んでいる。

「…貴殿のおっしゃる通り」

ややあって、阿波守に向かい、うなずいた。

「このまま、関氏の兵にこの城は落とされるでしょうな」

落ち着いた声だった。

猿姫(さるひめ)は、固唾を飲んで三郎の言葉を聞いた。

「それだけわかっていながら、この城に留まると言うのか」

三郎に詰め寄る阿波守。

だが、三郎は平然とうなずく。

「左様でござる」

「このうつけ」

阿波守は怒鳴りつけた。

「お主ごときが死に体の下総守に加勢したところで、何の足しになる」

怒鳴りつけられて、苦笑する三郎。

この城の城主は、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)である。

彼からは三郎以下一同、手厚くもてなされている。

それどころか、下総守は猿姫に気がある素振りまで見せていた。

猿姫としては、あまり口にしたくない事実ではあったが…。

城を捨てて脱出するつもりの阿波守に、三郎は語った。

「貴殿のおっしゃる通り、たとえ拙者と猿姫殿とが加勢したとしても、この城は落ちるでしょう」

猿姫に視線を向けながら言う。

猿姫は、自分が加勢するとも何とも言っていないのだが。

「ですが、このまま下総守殿に何の挨拶もなく城を辞去するのは、後味が悪うござる」

三郎は、率直に言った。

「阿波守殿。拙者至らぬ身なれど、こういう火急の時こそ、礼を疎かにしてはいけないと思うのでござる」

彼の口ぶりには、自信がある。

阿波守は、呆れた顔で三郎を見ていた。

「うつけ、お主…いいか、この場での振舞い如何で、己の生き死にが分かれるのだぞ?」

なおも阿波守は諭す。

「わかっております」

うなずき返しながらも、三郎は頑強に言った。

「ですが、例え生き延びたところで…。それが下総守殿に挨拶も無く城を出た末のことであれば、拙者は後々悔みます」

そう言いながら、三郎は猿姫の目を見て、うなずくのだった。

彼の目の中にある自信を確かめて、猿姫の背中に、戦慄が走る。

三郎の心が、読めたのだ。

猿姫に対しての、信頼がそこに見て取れた。

三郎は、猿姫が己に同意してくれると信じて、疑わないらしい。

猿姫の心には、まだ迷いがあるというのに。

猿姫は、三郎に応じきれない自分の弱さを恥じた。

かろうじて、その弱さを表情から隠した。

彼女の心を知ってか知らずか、三郎はうなずく。

「よしんば下総守殿の肩を持ったところで、死ぬと決まったわけではありますまい」

彼はまた、猿姫が味方である以上、自分が死ぬとも思っていないようだ。

大きな信頼だった。

「このうつけ」

阿波守は呆れ果てた声を洩らした。

猿姫は、何も言葉にできなかった。

だが、黙っているわけにもいかない。

一行の主は、三郎である。

かろうじて、猿姫はそう控えめに言い添えた。

「それはまあ、そうだが…」

猿姫にまで言われて、阿波守も反対はできない。

流れが、変わった。

混乱の中にある二の丸を通り、三人は本丸御殿に向かった。

 

本丸御殿の中は、混乱していた。

常駐する兵たちも、下女を始めとする使用人たちも、今や関勢の本意を知ったようだ。

我先に、城を脱しようと焦っている。

無理もないことだった。

つい先ほどまで、猿姫たち自身、城を脱出する流れだったのだ。

頑固な三郎のおかげで、その方針は崩れることになったが。

「酔狂の極みだ」

阿波守が、つぶやいた。

自分たちの振る舞いを称してのことだと、猿姫も三郎もわかっている。

「もう少しお付き合いくだされ」

阿波守を慰めるような調子で、三郎は言った。

「何、案外うまくいくかもしれません」

御殿内の通路に立ちすくんでいる阿波守と猿姫に、三郎は微笑んでみせる。

あながち、根拠のないものだと猿姫に断じることはできなかった。

御殿の外の様子では、まだ関勢は本丸にも二の丸にも及んでいないようだ。

いまだ、三の丸で足止めを食っているのだろう。

だとすれば、三郎の目論見がうまくいくかもしれなかった。

「世の常として、何事も上手くは運ばない。悪い結果を予測しておくものだ」

それでもなお、阿波守は微笑む三郎に苦言を呈する。

現実的な、彼らしい言葉だった。

「貴様がついているなら、大丈夫だろう」

横から、猿姫は口を挟んだ。

皮肉ではない。

今は彼女も、阿波守の判断に、それなりの信頼を置けると思っているのだ。

阿波守は、彼女を振り返った。

当の彼も言い返すべきかどうか、迷っているようだ。

猿姫は三郎と同じように、微笑んで返した。

一瞬、阿波守の表情に狼狽の色が浮かんだ。

 

「下総守殿」

本丸御殿内にある、茶室である。

三郎たち三人は踏み込んだ。

城主、神戸下総守を連れて脱出する。

三郎の意図はそういうものだった。

彼は、下総守が茶室にいると考えたのだ。

彼の話した通り、下総守は茶室の奥に一人、座っているところだった。

「失礼いたします」

下総守の態度に呆れている猿姫と阿波守とを脇に置いて。

三郎は一礼し、茶室内に踏み込んだ。

「おや、これは織田殿。よう参られた」

下総守は、落ち着いた声で三郎を迎える。

それから、三郎の背後で控えている猿姫と阿波守にも視線を向けた。

「猿姫殿に蜂須賀殿も。どうぞこちらへ」

気軽な声をかけてくる。

猿姫は、たじろいだ。

いったい、下総守はこの城の内外の混乱を、把握しているのだろうか?

彼の言葉に従うべきか悩み、隣に立つ阿波守の方を見る。

阿波守は表情も変えず、中に踏み込んだ。

下総守の前に腰を下ろした三郎に従い、彼の背後に座り込む。

猿姫も慌てて、彼らに続き座敷にお尻を落ち着けた。

自らの前に揃って座った三人を見渡し、下総守は満足げにうなずく。

「客人を迎えるのは、いつでも嬉しいことでござる」

風炉で茶釜に沸いたお湯を、茶杓で茶碗に移す。

茶碗の中で、茶筅を用いて抹茶を溶いた。

「どうぞ」

お茶のできた茶碗を、下総守は三郎の方に差し出した。

こんな折に何をやっているのだ、と猿姫は思う。

今にも、関勢が本丸御殿に攻め込んでくるかもしれないのだ。

それなのに、下総守の茶の所作は落ち着いて、非常に優雅なものであった。

これが平時であれば猿姫も、その仕草に見惚れてしまっていたかもしれない。

だが今は、生きるか死ぬかのときだ。

下総守の空気を読まぬ振る舞いを疑いさえする。

しかし、猿姫の前に座る三郎も、下総守同様正気ではないようだった。

「頂戴いたします」

彼は下総守に落ち着いた声を返し、茶碗を受け取る。

口元に運び、一度、二度。

作法に従って、抹茶を口に運んだ。

舌先で、抹茶を転がしている。

「しみじみ、染み渡るお茶でござる」

お茶を褒めた。

嬉しそうに、うなずく下総守。

次いで三郎は、手にいただいた茶碗を、背後に控える猿姫のもとに回した。

猿姫は、うろたえた。

彼女はお茶の作法など知らない。

だが三郎は上半身をひねって振り返り、茶碗を捧げ持ったまま、猿姫を見ている。

困った彼女の顔色を見て、彼は微笑んでみせた。

仕方がない。

猿姫は、三郎から茶碗を受け取る。

両手の中で、抹茶をたたえた茶碗が、熱く感じられる。

三郎の真似をしよう、と彼女は思った。

口元に、二度三度と茶碗のへりを運ぶ。

焦って形を真似しているだけなので、抹茶そのものはうまく口に流れてこない。

それでも、わずかな雫が唇と舌先とを濡らした。

じんわりと、甘い。

「美味しいお茶でござる…」

茶碗を下げ、下総守の顔を見ながら、猿姫はうめいた。

彼女を見て、下総守はうなずく。

見よう見まねだが、何とかなったようだ。

安心して、猿姫は抹茶の残った茶碗を阿波守へ。

阿波守は受け取った。

三郎と猿姫が口をつけた茶碗を、口元へと運ぶ。

彼にもお茶の心得があるのか、猿姫に比べるとその所作は慣れたものだった。

舌先を抹茶で湿した阿波守は、茶碗を下ろし、下総守の目を見てうなずいて見せる。

下総守も、うなずき返した。

「いいお茶でござる」

皮肉のひとつを吐くこともなく、阿波守は茶を褒めた。

「慌しいときに、これでひと息つけました」

阿波守らしくない、素直な言葉だった。

猿姫は感心して見ている。

そんな彼女を横に、阿波守は茶碗を三郎に返した。

三郎は阿波守から受け取り、さらに下総守へ。

下総守はうなずいて三郎から茶碗を受け取る。

それを、風炉の茶釜の前に置いた。

一瞬の、間があった。

下総守は、空になった茶碗に視線を落としながら、しばし考え込んでいる。

三郎たち三人は、下総守の動きを待った。

「末期に客人をお迎えすることができて、幸せであった」

下総守は、つぶやいた。

三人に視線をやる。

感情のない目であった。

「お三方には感謝を申し上げる」

とうとうと述べた。

「私は、私のこの茶室で果てることが出来るなら、本望だ」

ああ、と猿姫は息を吐いた。

この城主とて、現状が見えていないわけではなかったのだ。

神戸城は関勢の攻勢の前に、落ちつつある。

ただ下総守にとって、お茶の持つ意味が重すぎたのだろう。

猿姫には、理解しがたいことであるけれども。

茶室で果てるだなんて、馬鹿なことを言うな!

そう猿姫は言いたかった。

しかし、彼女はお茶というものの持つ重さを知らない。

彼女のような頼りない身分の者には、お茶はうかがい知れない世界なのだ。

この場は、お茶に通じた三郎に任せるべきなのかもしれない。

そう思って、目の前に座る三郎の背中を見守った。

「仰るとおり」

と、三郎は下総守にうなずいて見せる。

「このようなご立派なお茶室をお持ちになられて、うらやましい限りでござる」

三郎の言葉に、偽りはない。

お茶に何の価値も感じない猿姫には、理解のできないことだったが。

しかし由緒正しい大名の子弟である三郎には、お茶の価値がわかるのだ。

目を細めて耳を傾ける下総守に、三郎は続けた。

「されど…できれば、ここにもう少し多くの客人を呼び寄せたいところでござるな」

下総守の表情が動いた。

「何と…」

「もし貴殿が今ここで果ててしまえば。あまたの貴人も天上のやんごとなきお方も、もはや貴殿のよく出来た茶室を知ることはかないませぬな」

三郎は、歌うように述べた。

「織田殿、貴殿は…」

「下総守殿、ここはとりあえず、話を先送りに致しませぬか?」

目を丸くして、口を開けている下総守に対して、三郎は前のめりになる。

「しばらく、私共とご一緒しましょう。関殿に、この城は一度、くれてやるのです」

下総守に対し噛んで含めるように言う、その三郎の口ぶりは落ち着いている。

それでも、そのあまりに不躾な内容に、下総守のみならず猿姫も充分に衝撃を受けた。

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