『手間のかかる長旅(095) 山間の寺に向かう二人』
念のため、工場最寄りのバス停で時刻表を確認したが、帰りのバスは遅くまである。
もう夕暮れ時だが、例の寺に行ってしまおう。
時子(ときこ)とアリスは、そう語り合った。
例の寺。
それは以前、アリスがテレビ番組の仕事でロケをした寺である。
今二人がいるこの工場地帯から、さらに奥まったところにある山間の土地に、その寺はあるらしい。
アリスはその寺で、精進料理を振舞われた。
その後彼女は、寺の僧侶に対して「宗論」を仕掛けるよう、テレビ局側から強いられたのだという。
宗論と言うのは大まかに言えば、異なった宗教もしくは宗派の人間同士がお互いに「お前の信じる宗教は間違っている」として論争を行うことだ。
時子は詳しく確かめたことはないが、アリスは欧米文化圏出身の人なので、彼女の宗教も欧米で主流の一神教のはずである。
その一神教を奉じるアリスがこの地方都市の寺に来て、僧侶に宗論を仕掛けたのだった。
テレビ局の、ディレクターの指示によるものだったと言う。
仕事として、そのような難題を強いられたアリスの苦しみ。
察するに余りある。
件の寺に向かうバスの車内で、時子は隣に座るアリスの胸中を思っている。
工場での面接が終わった後、消耗した時子のことを気遣っているアリス。
苦しい仕事の現場であった例の寺に向かう彼女の方は、大丈夫なのだろうか。
「アリス、大丈夫?」
時子は、隣に座るアリスに聞いた。
「えっ、何がだ?」
時子を見返して、アリスは首をかしげた。
「お寺、大丈夫?」
「お寺?お寺は、大丈夫だよ」
首をかしげたまま、アリスは応じた。
時子は、もどかしい。
アリスのことを、心配しているのだ。
「アリス、これから行く、そのお寺ね」
「うんうん」
アリスはうなずく。
「あなた、何か、つらいことがあったんじゃないの?」
時子は控えめな口調で言った。
アリスは、また首をかしげた。
「つらいこと…は特にないにゃ」
「本当に?」
「本当に」
アリスは平然とうなずいている。
アリスにそう言われては、時子は返す言葉がない。
山間部のバス停で、二人はバスを降りた。
森の中である。
バス停というのも名ばかりのもので、実態は道路沿いにバス停標識が立っているばかりだ。
「山の中だね…」
時子は、思わず頼りない声を出した。
心細いのだ。
食品工場の面接で心身共に消耗した後、日暮れ時の山間部にたたずんでいる。
アリスが一緒にいても、これは不安だった。
「心配しなくていいにゃ」
身を固める時子を抱きかかえるように、アリスは励ました。
「歩いて10分も行けば、そのお寺に着くにゃ」
本当なのかな、と時子は不安な気持ちでアリスの顔を見上げている。
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