『瞬殺猿姫(38) 猿姫たちは抜け穴の先、三の丸へ』

一行の主である、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。

彼は、しきりにうなずいていた。

「下総守殿が仰せられる通り。国の強さとは、民の強さ。我ら武家は、あくまで民を陰ながら主導する者であるべきでござる」

先の、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)の発言を、全面的に支持するものであった。

三郎からの追認を得て、当の下総守もうなずき返している。

 

彼らの方を振り返って見て、猿姫(さるひめ)はため息をついた。

この領主たちの、何という楽観主義であることか。

猿姫自身、尾張国の、貧しい土豪の家に育った身だ。

下々の社会には確かに、他人と助け合って生きていくたくましさがある。

しかしそのたくましさの基本にあるのは、自分が生き延びることだ。

場合によれば、自分と同じく貧しい他人を踏みつけてでも、己だけは生き残りたい。

個々の民衆の顔を注意深く見ていれば、そんな利己的な空気を感じることは容易だ。

ただ猿姫も、そんな彼らの心性を批判できない。

なぜなら、彼女自身がそうした下流の社会の利己的な空気に、忠実に生きてきた。

幼い頃から、少しでもいい暮らしをしたくて、猿姫は他国の武家に仕える道を選らんだ。

主がどんな人物であれ、己が他の者よりもましな暮らしをできるならば、仕官する。

その一心で、猿姫も彼女と同じ階級の出の他の人々も、日々を暮らしている。

いつなんどき、どの領主に寝返るとも知れない人々である。

そんなあくまで利己的な民衆のたくましさ。

 

領主である三郎と下総守とが、手放しで民を肯定する様は、猿姫から見ても心配になるものであった。

「三郎殿…」

猿姫はおそるおそる、言葉を挟んだ。

「なんでござるか」

神戸城が関家の軍勢に落とされつつある、この現状。

しかし三郎は、なおも元気である。

目を輝かせて、猿姫を見つめ返してくる。

かえって、猿姫は心配だ。

「下総守殿を、むやみに元気づけるのは、控えた方がいいと思う…」

猿姫は下総守に聞こえないように、小声で言った。

「なんと…」

三郎は、猿姫の顔を凝視した。

大きな仕草である。

彼も、状況が状況だけに、興奮状態にあるのだろう。

「そのような後ろ向きなことをおっしゃるとは、猿姫殿らしくもない」

三郎は笑いながら言った。

三郎のこういうところが怖い、と猿姫は思う。

その場の流れに、流されすぎるのだ。

尾張国の人々が噂するほどには、彼はうつけな人物ではないのに…。

時々、流れの空気に乗って、考えなしなことを言う。

「今後どうなるかわからない状況だ。あまり、軽率な発言をしないように」

出すぎたことを、口にしているのかもしれない。

そう自覚しながらも、猿姫は言ってしまった。

「はっ…」

猿姫から咎められて、少し表情を固くしながら、三郎は頭を下げた。

思った以上に、言葉は響いたらしい。

彼の表情を見て、猿姫は胸が痛んだ。

「猿女、早く進め」

殿の阿波守から声が飛ぶ。

思わず、猿姫は彼をにらみ返した。

「うるさいぞ」

先にいた城の者たちは、皆抜け穴の先に進んだらしい。

猿姫は動いた。

四人で、抜け穴に向かって進む。

 

大の大人が屈んでかろうじて通れるほどの、天井の低い通路だった。

真っ暗で、何も見えない。

先頭に立つ猿姫は手探りで通路を進みながら、後ろの者たちに声をかける。

四人で時間をかけて進んだ。

足元に石段が現れ、そこを登り切ると、埃くさい祠の内部に出た。

祠の戸は閉まっている。

隙間から、わずかな月の光が中に差し込んでいる。

猿姫は祠の観音開きの扉に張り付いて、隙間から外をうかがった。

外も、わずかな月明かりばかりが頼りの暗さ。

この祠の周りも、竹薮なのだ。

三の丸の東側である。

祠の外に、人の気配は感じられなかった。

大手門までたどり着けば、外に出られる。

先に抜け穴を抜けた皆は、大手門に向かったのだろう。

「外が安全か確かめる。皆ここで待っているんだ」

猿姫は振り返り、狭い祠の中で息を殺している他の三人にささやいた。

「猿姫殿」

三郎の不安そうな声。

「心配ない」

短く言い残して、猿姫は祠の外に出た。

 

三の丸の東側にも関家の軍勢が及んでいるおそれはある。

できるだけ、敵方の目につきたくないのだ。

猿姫は腰を落とした姿勢で進んだ。

背中に背負っていた棒を外し、両手で抱えて胸の前に引き寄せている。

竹薮の外れに来た。

外に、見覚えのある風景がある。

この城にやってきたとき、大手門から入った直後に通った場所だった

大手門は近い。

一帯に、まだ関兵の姿はない。

静かなものだ。

猿姫はうなずいて、きびすを返す。

再び、竹薮の中へ。

足を踏み出し、祠に戻りかけた。

「待ちなさい」

すぐ後ろから、声がかかった。

猿姫は棒を振り抜きながら、鋭く体を反転させる。

一瞬前に誰もいなかった場所から、突然声をかけられたのだ。

相手は、わかっている。

棒の切っ先が、相手の胸元の一寸先、空を切った。

かわされた。

猿姫が振り抜いた棒はそのまま、近くに生えている竹の腹を打って、止まった。

竹が高い音を立てて、手応えを猿姫の手先に伝える。

「話がしたいだけなのに」

目の前で、竹の隙間から差す月明かりの中に、忍び装束の女の影が留まっている。

「どの面を下げて私の前に現れた」

猿姫は棒を引き戻しながら、相手の顔をにらみつけた。

忍びの女、一子。

本丸御殿で、猿姫に奪われた財布を取り戻すために、刺客をよこしてきた女。

一子が送り込んだ忍びに薬を盛られ、猿姫は不覚を取った。

あやうく、殺されるところだったのだ。

冗談では済まない。

「何かいろいろと誤解があるようだけれど、あえて申し開きはしません」

一子は、落ち着いた声で言う。

彼女は頭巾をかぶっておらず、素顔を晒していた。

「誤解も何も、刺客を送り込んだのは事実だろう」

猿姫の表情が険しくなる。

「申し開きはしません」

猿姫を相手にせず、一子は繰り返した。

棒を握る猿姫の両手に、力が込められた。

「なら、死ぬ前に何でも言いたいことを言え。次に貴様の仲間に会うことがあれば、伝えておいてやる」

内にこもるような低い声で、猿姫は言った。

並の人間が聞けば怖気が立つような響きが、その声にある。

しかし目の前の一子は変わらず、涼しげなたたずまいのままだ。

「あのね、取引しましょう」

猿姫からの殺気を感じてもいないように、気軽に言った。

猿姫は、相手の顔を見据えた。

「財布は返さない」

「そうじゃないの、今は別件で来たの」

一子はそう答えながら、わずかに表情を崩した。

猿姫は猿姫で、相手を殺したい気持ちを身にあふれさせながら、焦りもあった。

三郎たち三人が、祠の中で自分を待っている。

この局面で、一子が何を言いに来たのか。

あまり、考えたくないことだった。

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