『瞬殺猿姫(40) 一子といる竹薮、消耗する猿姫』

竹薮の中で猿姫(さるひめ)は、忍びの女である一子(かずこ)と対峙している。

一子は猿姫の心を迷わせる言葉をかけてきた。

織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)たちと同道することが、いかに猿姫のためにならないか。

語りかけて、彼女に忍びになるようにうながしてきたのだ。

猿姫の心は、ぐらついている。

旅の先行きが見えない折でもあった。

そして今は滞在していた神戸城が落ちる寸前で、脱出の最中なのだ。

背後に、三郎たち三人の同行者を残している。

早く脱出路を確保して逃げなければ、という焦りもあった。

「悪い話じゃないと思うんだけれどなあ」

焦る猿姫を前にして、一子は落ち着き払った声で言った。

月明かりの下に長身をさらし、猫のような伸びをする。

得物の棒を握る猿姫の手の平が、じんわりと汗をかいた。

どうするべきか、いい判断が浮かばない。

目の前をふさぐ一子。

背後に控える三郎たち。

今にも落ちそうな神戸城。

自分にとって最適な道を、今選ばなければならない。

猿姫は、唾液を飲み下した。

「貴様の言うことにも一理ある」

口を開いて出てきた言葉が、それだった。

「へえ?」

見返す一子。

猿姫は、口の中で舌を回した。

どう言葉を続けるか、考えているのだ。

「私には忍びが向いているかもしれない」

「あ、一理あるってそっちの話?」

猿姫の言葉を聞いて、一子は嘲笑した。

彼女が何を嘲っているのか、今の猿姫にはわからない。

今は話すことで精一杯だ。

「そうだ。自分でも、忍び働きはできるかもしれないと思うし」

「ふうん」

一子は小首をかしげて、猿姫の言葉を聞いた。

彼女の目は笑っていない。

たとえ猿姫が言葉の先で煙に巻こうとしても、それを許さない視線だった。

猿姫は、緊張する。

「なら、私と一緒に来るのね?」

間髪入れずの、試すような口調である。

猿姫は唇の端を噛んだ。

目の前の忍びの女に、試されている。

鼻から息を吸った。

「貴様についていってもいいが、条件がある」

一息に言い放った。

「条件?」

一子は眉間に皺を寄せて見返した。

「そうだ」

「聞くだけ聞きましょうか」

高慢な言い様だった。

以前までの一子とは、態度が違う。

きっと、猿姫が窮状にあることを把握しての豹変なのだ。

悔しい気持ちを飲み込んで、猿姫は言葉を続けた。

「三郎殿も連れて行ってくれ」

「何それ」

猿姫が訴えるなり、一子は鼻を鳴らした。

「それが条件だ」

「私の話、聞いていなかったの?国を追われた大名の倅なんて、役に立たないって言ったでしょ」

「でも、三郎殿は鉄砲が使えるんだ。彼にだって忍びが勤まるかもしれないだろう」

訴える猿姫を、一子は冷たい目で見据える。

「あなたに、忍びの何がわかるの?」

猿姫は言葉に詰まった。

一子の視線が、肌に刺さる。

焦り、猿姫は言葉を継いだ。

「それが駄目なら、私は貴様にはついていかない」

破れかぶれだった。

今、目の前の一子の機嫌を損ねるような返答が、どんな結果を招くか。

悪い想像はあっても、猿姫には旅を共にする三郎を見捨てる覚悟はできていない。

「このままでは貴方もあの連中と共倒れになるだけなのに。そういう決断で、いいのね?」

猿姫の目を覗き込みながら、一子はなぶるような調子で語りかける。

うかつな返答をためらわせる問いかけだった。

だが、猿姫には選択肢がない。

三郎たちが待っている。

「何度も言わせるんじゃない」

強気を装って、勢いで言い放った。

言葉だけでも強く出れば、少し元気づくことができた。

「これ以上、貴様と話し合っても無駄だ。さっさと失せろ」

棒を構え直して、相手の喉元にいつでも切っ先を突き出す気配を送った。

猿姫の態度を見て、一子はため息をついた。

哀れむ視線を猿姫に送っている。

「がっかりだわ」

「がっかりでも何でもいい。話は終わりだ」

言うが早いか、猿姫は上半身を伸ばし、相手の喉にめがけて棒を突き出した。

我慢の限界だったのだ。

ただ、相手との間に、距離はある。

上半身が伸びるのと同時に、猿姫は地面を蹴って前進していた。

棒の先は、一子の喉を貫くのに充分な伸びしろを保って迫った。

一瞬のうちに迫った一撃。

一子は上体をひねってかわした。

柔らかく、猿姫の動きに劣らない速さである。

棒をかわされて相手のそばに踏み込んだ猿姫は、その勢いで相手に体当たりを食わせた。

相手に近すぎて、また竹藪の中では竹が邪魔になり、それ以上棒を振ることができなかったからだ。

代わりに棒を持った腕を下に落として、肩先から背中にかけての部分を相手の体にぶつける。

手ごたえはあった。

「ぶつかり合いは苦手だわ」

舌打ち混じりに言う一子の声がどこかで聞こえる。

一歩下がりながら頭を上げた猿姫の目の前に、一子の姿はなかった。

気配が、遠くにある。

「貴様、どこに行った」

「ぶつけられて、肩が外れた。お望みどおり、失せることにするわ」

どこかから、通りのいい声が届いた。

それっきりだった。

竹薮の中は、静かになった。

風で揺れる竹と、猿姫自身の荒い息の音だけが聞こえている。

猿姫は、棒を地面に取り落とした。

全身から力が抜けて、棒に続いて地面に落ち、へたりこんだ。

一子との問答で、ここまで消耗するとは予想外だった。

 

直前の言葉のやりとりを思い出し、胸がふさぐ。

だが状況が状況だ。

すぐにでも、三郎たちの待つ祠に戻らなければならない。

それでも猿姫は、すぐさま立ち上がることができないでいた。

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