『瞬殺猿姫(41) 猿姫、行き先を思案する』

猿姫(さるひめ)は、心の疲れを押して祠に戻った。

「猿姫殿っ」

観音扉の戸を開けるなり、歓声を耳にする。

織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)の声である。

「お帰りが遅かったので、拙者心配しておりました」

祠内部の薄暗い中に、猿姫を迎える三郎の人懐っこい顔がある。

猿姫は、その見慣れた顔を目にして、少し安心した。

先ほどまで、忍びの女である一子(かずこ)と対峙して、極度の緊張状態を強いられていたのだ。

絶対的な仲間の存在は、心強い。

「外は安全だ。行こう」

三郎にうなずき返しながら、一子はそれとなく他の二人にも目を配った。

正装をした、見た目のいい若い武士がいる。

神戸城の城主、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)である。

彼は今猿姫たちがいる神戸城の主だが、神戸城は関家の軍勢に攻められて落城寸前である。

この状況にあって、神戸下総守は飄々とした顔つきでいる。

落城にあたり覚悟を決めた故の落ち着きぶりなのだろう、と猿姫は彼の表情を肯定的に受け止めるようにする。

そしてもう一人の男、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)。

猿姫、三郎、下総守よりもひと回り年かさの男である。

彼は美濃国戦国大名、斎藤氏の配下の武将だった。

木曽川の渡し場で、猿姫が斬り合いの末に倒して拉致してきた、人質だ。

この阿波守、祠に戻ってきた猿姫の顔を、油断なく観察している。

三郎、下総守とはその視線の鋭さが違う。

猿姫は、その阿波守からの視線を極力避けようと努めた。

「おい」

阿波守が、祠の中から横柄に声をかけてくる。

猿姫はその呼びかけを無視して、それぞれ祠から出る三郎と下総守の手を取って外に導いた。

「おい」

祠の中から、阿波守がまだ声をかけている。

猿姫は無視した。

若い男二人を竹薮の先に導く。

「おい、猿の女」

無視され続け、阿波守はいよいよ声を高めた。

「猿姫」

「何だ髭、さっきからおいおいうるさい」

猿姫はいらだちながら、阿波守の髭面に目をやる。

「私は今忙しいんだ」

「忙しい、じゃないだろう」

三郎と下総守をうながして先に進む猿姫の背後で、阿波守は祠から出てきた。

「お主、どうも様子がおかしいぞ」

猿姫は阿波守の方を振り返った。

「そんなことはない。何もなかった。外が無事かどうかは確認したんだ。行くぞ」

先の一子とのやり取りについては、後々、三郎には報告するつもりでいる。

だが、阿波守にわざわざ教えてやるつもりはなかった。

たとえ彼に対しての心証はましになっているとはいえ、彼は人質に違いないのだ。

つらかった一子とのやり取りを、生意気な人質の男になど語る義理はない。

「怪しいな」

となおも言いながら、阿波守は後から続く。

再び三郎と下総守の先に立って竹薮の中を歩きながら、猿姫は背中に阿波守の視線を感じている。

 

四人は、ようやく神戸城から脱出した。

神戸城の東方で南北に走る伊勢街道に出ている。

この街道を北に向かえば四日市の宿場、そして南に向かえば途中で猿姫たちが上陸した白子の宿場に着く。

さらに南へ向かえば、南伊勢に行き着く。

街道の脇でひと休みしながら、四人は今後のことを話し合った。

「三郎殿、どうする」

猿姫は、三郎の判断を仰ぐ。

神戸城は今頃、関家の軍勢に落とされてしまっただろう。

もともと猿姫たちは、神戸家に口を利いてもらい、そこから陸路を西に向かって堺まで行く手はずだった。

しかし、神戸城の西から、関家の軍勢が攻めてきたのである。

関家の本拠は亀山城で、そこには猿姫たちが神戸城の次に向かうはずの城下町があった。

神戸城の城主である下総守と共に神戸城の東に脱出してきた猿姫たち。

今後改めて西の亀山城に向かうのは、難しい。

何より、神戸城を経由することができない。

そこは城を落とした神戸勢が占拠しているからだ。

猿姫に見つめられて、三郎はたじろいだ。

「そ、そうですな」

思案の顔。

困っている。

もともと猿姫と話して、神戸城の神戸家を訪ね、その後の旅の安全を確保することで決まっていたのだ。

急に予定の変更を迫られることになって、彼の当惑は猿姫にも見てとれた。

神戸城から亀山城にかけての道をふさがれては、西に向かう道は限られてくる。

「どうすれば一番よいのでござろう」

三郎の目が、猿姫に助けを求める。

助け舟とまで行かずとも、何か考えの材料を提供しなければ。

猿姫はそう思った。

「神戸城から西には関勢が待ち構えている。さらに関勢の後ろには、六角家が控えているらしい」

忍びの女、一子からの情報だった。

北の近江国を本拠とする大大名、六角家が関家の後ろ盾になっているのだ。

「となると、堺に向かうには、遠回りをしないといけないようだな」

猿姫は、平静を保って言った。

できるだけ三郎の判断に任せたいので、余計な情報を与えたくなかった。

「遠回りでござるか」

と、三郎は思案する。

阿波守が傍らに立って、片手であご髭をいじりながら三郎を見ている。

「おい、うつけ」

「なんでござる」

応じる三郎。

「面倒だから、お主らいっそ、尾張に帰ってはどうか」

阿波守は提案した。

尾張国は、三郎と猿姫の故郷である。

しかし今は、三郎の弟であり彼と敵対する織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)が支配する土地である。

もし帰ったら、三郎も猿姫も弾正忠に捕らえられ、処刑されてしまうだろう。

以前に二人は、弾正忠配下の武士たちを自衛のために殺害している。

「何がいっそ、だ」

猿姫は阿波守をにらみつけた。

「適当なことを言うなよ」

「そう馬鹿にしたものでもない」

と、阿波守。

「織田家に恭順しろと言うのではない。逆だ。秘密裏に尾張に戻り、弾正忠を暗殺せよ」

阿波守は、声をひそめて言った。

猿姫は、呆れた。

目の前の髭面の男は、他人事だと思って適当を言っているのだ。

そんな簡単に暗殺がかなうのなら、とっくに猿姫たちもやっている。

だいたい、三郎は弾正忠の暗殺に失敗したので、猿姫と共に故郷を脱出してきたのだ。

「貴様、人質の境遇から逃れたい一心で、適当なことを言っているのだろう?」

猿姫は、憐れみを込めた目で阿波守を見つめた。

阿波守は、狼狽の気色を見せる。

「馬鹿な。そう見くびられては困る。俺は、真剣にお主らの今後を考えて言っているのだ」

「どうだか」

鼻を鳴らす猿姫。

猿姫の反応を見て、阿波守は自尊心を傷つけられたような顔をしている。

少し言い過ぎたかな、と猿姫は思った。

 

そんな三人の脇で。

慣れない徒歩での脱出行の後、息も荒く休んでいた神戸下総守である。

ようやく元気を取り戻した彼は、猿姫たちの方に向き直った。

「私に提案があるのだが」

三人は、下総守の方に向き直った。

三人共、下総守の去就について、無意識だった。

居城を攻め落とされた彼の身柄を、何とかしないといけなかったのだ。

「下総守殿。いったい何でござる」

三郎が応じた。

「貴殿ら、南に行く気はないか」

「南、でござるか」

「うむ」

下総守は鷹揚にうなずいた。

「私は以前から南伊勢の名家、北畠家によしみを通じておった。これから、北畠家のところに行ってしばらくやっかいになろうかという腹でいる」

なるほど、と猿姫は思った。

城を失った下総守。

こういうときに頼りになるのは、背後にいる大大名の存在なのだ。

関家の背後に六角家がいたのと同様、神戸家の背後には北畠家

頼もしいことだ。

「それは結構なことでござる」

下総守の言葉に、三郎はうなずいた。

「つまり、我々は貴殿を北畠家のもとまで送り届ければよろしいのでござるな」

「そうしていただけると有難い」

下総守、三郎の物分りの良さに安心したようだった。

猿姫は、眉をひそめる。

北畠家がいるのは南のどの辺りかわからないが、すぐ近くということはないだろう。

南伊勢とひと口に言っても、広い。

その目的の場所まで下総守を連れて道中を行くのは、気苦労が多そうだ。

「貴殿らへの助力を約束したはずが、こんなことになって恥じ入っている」

下総守は、そう口にした。

神戸城で、三郎と猿姫は彼に対し、堺までの道中への助力を請うたのだ。

北畠家にまで届けてもらえれば、私から北畠中納言様へ口利きをいたそう」

猿姫の顔色を読んでか読まずか、下総守はそんなことを言った。

「北畠中納言様なら、貴殿らが堺へ行く手助けをしてくれるはず」

北畠中納言具教(きたばたけちゅうなごんとものり)。

南伊勢の大大名、北畠家の当主である。

北畠家南北朝時代、「鎮守府大将軍」として奥州の軍勢を率いて南朝方として活躍した武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)を生んだ公家の家柄である。

北畠顕家の弟にあたる北畠顕能(きたばたけあきよし)が南伊勢に土着し、以降、朝廷から伊勢国司職の任命を受けて勢力を誇っている。

北畠具教は、その北畠顕能の末裔にあたる人物だった。

押しも押されもせぬ名門である。

「わかった、わかったけれどそんな一度に教えられたって名前を覚えられない」

北畠家について解説役を買って出た三郎の解説に、猿姫はいっぱいいっぱいになって言った。

「これから北畠家を訪ねることになりそうなので、覚えてくだされ」

三郎は、目を光らせながら答えた。

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