『瞬殺猿姫(42) 食いつめる猿姫たち』
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、平気な顔で立っている。
猿姫は、おそるおそる彼の顔を見上げた。
「三郎殿」
「なんでござる」
三郎は何気なく振り返った。
彼に伝えるのが心苦しい。
猿姫は、唾液を飲み込む。
「実は…」
「なんでござる」
「あの…」
言葉に詰まる。
三郎は、首をかしげた。
「なんぞ支障でも?」
その表情は、猿姫を信頼しきっている。
それで、なおのこと、猿姫は苦しいのだ。
「実は…」
「ええ」
うなずく三郎。
猿姫は、勢いをつけて言葉を吐いた。
「路銀が、もう底を尽きそうだ」
「なんと」
三郎の表情が曇った。
当然であろう。
路銀が、もうない。
三郎はここのところ、手持ちの金銀を全て、猿姫の管理に任せていたのだ。
大名の子息である三郎である。
国を負われた身ではあっても、彼はそれなりの金子を懐にして旅に出ていた。
その金を、猿姫は預かった。
その預かった路銀の額の増減について、猿姫はいちいち三郎に知らせることはしていない。
しかし猿姫も、できる限りのことはやったのだ。
尾張で、織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)が差し向けた刺客を倒してから数日、この間に猿姫と三郎は北伊勢まで逃げてきた。
木曽川のほとりで捕まえた人質、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)も一行にいる。
その後、立ち寄った神戸城の城主、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)も一行に加わった。
都合、四人での旅路である。
しばらく南に進んで来たが、路銀はかさむ。
これから南伊勢の北畠中納言具教(きたばたけちゅうなごんとももり)の居館を訪ねることになっている。
まだまだ、道筋は長い。
「困りましたな」
狼狽した気配で、三郎は泳ぎがちな視線をかろうじて猿姫に向けた。
猿姫は、片手で口元を押さえながら、三郎にうなずき返す。
路銀を預かっていたのは、猿姫だ。
その額の不足は、彼女の落ち度であると言えた。
世間慣れしていない三郎、神戸下総守、そして人質の蜂須賀阿波守と違い、猿姫にはそれなりの責任があったのだ。
安全な旅を続けるために、路銀の残りの額の多寡には気をつけていなければならなかった。
「できるだけ、余計な支出は控えてきたつもりなのだが…」
猿姫は、独り言のように苦しげな言葉をひねり吐いた。
彼女には、言い訳のつもりは、なかった。
ただ、それが正直な気持ちだった。
三郎は彼女の顔を見た。
苦悶にさいなまれる娘の顔。
「猿姫殿は、よく路銀の維持に努められました」
一も二もなく、三郎は猿姫をねぎらった。
三郎、神戸下総守の二人は貴人であるので、彼らの旅の途上では食事に宿泊費など、各種の費用は膨らみがちになる。
それを極力押さえてきたのが、猿姫の才覚であった。
それであってもなお、当初三郎が持ち出した金額が少なかった。
猿姫の責にするのは酷なのである。
「猿姫殿の骨折りは、拙者がよく知っております」
事情を踏まえて、三郎ははっきりした言葉で言った。
猿姫、息をついた。
安堵の息だ。
「三郎殿。ありがとう」
「こちらこそ」
安心した猿姫と、三郎は視線を交わし合った。
そのやりとりに、余人にはうかがい知れない意味合いが込められている。
二人の脇で、神戸下総守と蜂須賀阿波守とが横目で見ていた。
「おい、貴様ら」
阿波守が声を高めた。
「路銀の不足はどうするつもりだ」
現実に引き戻す言葉である。
彼の声に、みつめ合っていた三郎と猿姫は、眉間に皺を寄せながら振り返った。
「なんだ、不躾に」
猿姫は阿波守をにらんだ。
「路銀の不足については、貴殿らのお知恵も拝借したく存じます」
阿波守の視線に応えて、三郎はしっかりと言葉を返した。
「何と、我らの知恵を拝借するとな」
一笑に付す阿波守。
うなずく三郎。
しかし猿姫は、いっそう阿波守をにらむ。
「笑うな」
「笑わずにおられるか」
阿波守は、猿姫の言葉にも嘲笑で返す。
「路銀が、もう無いのだろう?道半ばにして。その額は努力次第で増えるものでもあるまい」
まっとうな意見であった。
三郎と猿姫はそれぞれ無意識に胸を押さえた。
路銀が無い。
どう言い繕っても、それは言い逃れようのない事実であった。
「知った風な口を叩いて…」
毒づく猿姫。
しかしその語尾は、力なく空気中に溶けていく。
阿波守は、猿姫を横目で見返した。
「何を言っても無駄だ。路銀がなければ、旅のできようはずがない」
猿姫は言い返せなかった。
「ここで終わりだ」
宣告する阿波守。
猿姫と三郎は、唇を噛んだ。
旅の終わり。
もう先には進めない。
白子の港に戻って、再び渡し舟を漕いで尾張に戻るでもするほかない。
木曽川の河口から白子まで一人船を漕いできた猿姫は、同じ思いをすることを思うと背筋に寒気が走るのを覚えた。
人並みはずれて体の強い猿姫とは言え、長い距離を渡し舟を漕いで航行するためには、かなりの消耗を強いられる。
出来ることなら、もう二度と同じ道筋は辿りたくなかった。
そして帰り着いたところで、その先の尾張は、三郎と猿姫にとっての宿敵、織田弾正忠信勝が支配する土地である。
猿姫は、うつむいた。
猿姫は、彼女自身、わずかな金子しか携帯していない、
もともと、金には縁が薄い。
脇に立って様子を見ている、神戸下総守の方を見た。
「下総守殿、いい案は、ないか?」
苦し紛れの問いかけである。
猿姫に見据えられて、神戸下総守は、視線を返した。
その視線が、わずかに揺らいだ。
口を開く下総守。
「ここは私が、何とかしよう」
猿姫と三郎とが、一番聞きたかった言葉だった。
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