『瞬殺猿姫(43) 泥鰌を捕る猿姫、三郎の涙』

猿姫は、棒を器用に操った。

「やっ」

水田の中から、棒先で泥ごと跳ね上げられて、泥鰌(どじょう)が宙に飛んだ。

「えいっ」

と勢いをつけて、猿姫は体を躍らせ、腰に結わえたびくで落ちてきた泥鰌を受ける。

宙を舞った後、泥鰌はびくの中に収まる。

泥が飛び跳ねる。

泥鰌を捕る度、びくは重くなっていく。

猿姫は、泥にまみれた顔を手の甲で拭った。

もう一月ばかりになる。

北伊勢の農民に、彼女は雇われている。

路銀が底をついたのだ。

しかし旅の一行の主である織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)始め、金を得る手段に乏しい者ばかりだった。

その結果、神戸城から同行している神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)のつてを頼りに、しばしの仕事を求めて一行は近隣に散った。

猿姫も、例外ではない。

彼女はかつて、遠江国武家奉公を辞した後、しばらく農村で泥鰌を捕って暮らしていた時期がある。

泥鰌を捕るのは慣れたものなのだ。

そんな経験があったので、神戸下総守に紹介されて、近隣の農家に雇われた。

日中は主に泥鰌を捕り、手が空けば畑仕事、また内職の手伝いをする。

夜は雇い主の農家で過ごす。

彼女自身が農家の出身とは言え、幼い頃に武家奉公に出された猿姫には、農家の仕事は初めてのことばかりだった。

泥鰌捕りをのぞいては、手間取ることばかりだ。

それでも農家の人たちに気に入られて、居心地は悪くない。

気になるのは、賃金がいかほどもらえるのか、そればかりだった。

「また泥鰌、たまったな。街に売ってくるわ」

畦道に、家の主が立っている。

壮年の男だ。

しばらく前から猿姫が泥鰌を捕る様を、眺めていたらしい。

猿姫は、主に泥鰌たちの入ったびくを手渡す。

「こんな時間から街に行って、売れるのか」

もう日は落ちかけている。

この農村から街まで今から行けば、日は暮れるだろう。

びくを手にして、主は猿姫を見た。

「猿姫さんは、知らんか」

「何が?」

泥鰌は、夜に売れるんじゃ」

初耳だ。

「そうなのか」

「それはそうじゃろう」

主と二人、家に向かう畦道を歩いている。

泥鰌は夜に食うもんじゃ」

「そんなことはないだろう…」

雇い主の機嫌を損ねないように、猿姫は控えめに反論した。

「私は遠江でも泥鰌捕りをしていた。朝のうちに捕って、昼間には街で売るんだ」

遠江ではそうなんじゃろう。しかし伊勢では、夜に食うのじゃ」

猿姫は首をかしげた。

「どうして?」

畦道を歩く。

「どうしてって、泥鰌を食えば精がつくじゃろう…」

水田地帯を抜け、二人で家に向かう道すがら、主は淡々とした調子で言った。

猿姫の方を見ない。

しばし考えた末、猿姫は思い当たることがあって、顔を赤くした。

「そういうことか…」

主は応えなかった。

泥鰌を食えば、精がつく。

猿姫は、思い返している。

猿姫が泥鰌を多く捕った日、農家での夜の食卓には、その泥鰌が上った。

小さな農家の母屋で、主夫婦と猿姫と、三人で寝泊りしているのだ。

猿姫は慣れない農家の生活で、疲れて早くに寝てしまうのが常だった。

泥鰌で精がつく。

自分が眠った後、主夫婦がどのように過ごしているのか。

猿姫はこれまで、考えたことがなかった。

「新鮮な泥鰌を夕餉に食えば、後がよろしいだで」

歩きながら続けて言う主の言葉を聞きながら、何がよろしいのだろう、と猿姫は血の上った頭で考えている。

「…今夜から私、馬小屋で寝ることにしようか?」

思わず口走った。

「何を、他人行儀なことを言いなさんな。ずっと母屋にいなされ」

主が慌てて言う。

しかし先を歩いている主と家の主婦の顔とを並べて思い浮かべ、猿姫は顔が火照るのを意識せずにはいられなかった。

遠江泥鰌を捕っていた頃には彼女も幼くて、気付かなかったのだ。

遠江でも、猿姫から泥鰌を買ってくれた人たちは、精をつける目的で夜に食べていたのかもしれない。

猿姫は思わず自分の頬に両手を当てていた。

熱い。

口数の減った猿姫を振り返り、農家の主は苦笑いしている。

「猿姫さんにも、わりと娘らしいところがあるんじゃな」

「私をなんだと思っているんだ」

主について家の母屋に入りながら、やはり今夜からは馬小屋で寝よう、と猿姫は心に決めている。

 

三郎は、目に涙を浮かべている。

「辛気くさい武家の餓鬼め、さっさと寝くされ」

怒号と共に、硬い箱枕が飛んできて、三郎の頭にぶち当たった。

三郎はばったりと床に倒れ付す。

力ない。

三郎の隣にいた蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)は、落ちた箱枕を拾い上げて、親方の所に丁寧に返しに行った。

ややあって、倒れたままの三郎の所に戻ってくる。

「うつけ、大事ないか」

「心が折れそうでござる」

倒れ伏したまま、三郎はうめいた。

もう一月になる。

猿姫と別れて、三郎と阿波守は二人、白子の港で荷の運び手として働いている。

神戸下総守のつてによるものだった。

一日、港に入る船から荷を受け取って、蔵に運ぶ。

また白子を出る船に、蔵から運んだ荷を積み込む。

それだけの仕事で、心身共に消耗するのだった。

夜は、蔵の近くに立つ運び手向けの掘っ立て小屋で過ごす。

日中さんざん共に過ごした、仕事に厳しい親方と夜も一緒で、気が休まらない。

「小金を稼ぐことすら、並大抵のことではないのだ」

阿波守は、おおらかに言って諭した。

三郎よりもひとまわり年上の阿波守は、これまで人並みに苦労を重ねてきているようだった。

「この一月で、拙者もつくづく実感し申した」

二人して、土間に莚を敷いただけの粗末な寝床に横になり、語り合う。

「貴様のような大名の子息には、得難い経験だろう」

阿波守は忍び笑いをする。

三郎は、うなずいた。

「これまで、金子というものは、毎日それなりに懐に入ってくるものと思っており申した」

「無理もない。生まれながらの土地持ちは、そうした錯覚を起こす。事実は、厳しいのだ」

「全く。しかし阿波守殿は、慣れた様子であられますな」

荷運びの仕事といい、掘っ立て小屋での生活といい、阿波守は落ち着いてこなしているのだ。

「何、俺のような土豪の末端に生まれた者は、己の得になることなら何でもやってきておるからな」

阿波守は自嘲気味に言った。

「貴様は知らんだろうが、我が蜂須賀の家は俗に川並衆と申してな。代々、美濃国の土岐家または斎藤家の下にあって、木曽川の管理をしてきた家柄だ」

「存じております」

三郎は武家の故実に加え、近隣の諸豪族についても、大名の子息として人並みの知識を備えているつもりなのだ。

蜂須賀家に代表される川並衆についても、聞いたことがあった。

いわく、木曽川流域に分布し、木曽川を介した物流を支配する人々であると。

猿姫と二人、木曽川のほとりで渡し舟を強奪した際も、三郎は木曽川を支配する川並衆を敵にまわすことを内心危惧していた。

「川は富を生む。物も人も行き交う故な」

阿波守の言葉である。

「港と同じですな」

「うむ。だがその富を得るために、俺のような、現場の小者共はてんやわんやだ」

「なるほど」

「川なり土地なり港なり、所有しておいて配下の小者に管理させるのが、一番楽で儲かるのだ」

「なるほど…」

三郎はうなった。

大名とは、所有する者だ。

家臣たちに、管理を任せる。

苦労を知らず、生まれる富だけを味わえる者だ。

尾張国の大名の子息として生まれながら、弟に跡継ぎの座を奪われた三郎は、今やその富が手元から抜け落ちていく苦渋を舐めていた。

「拙者が今も大名でありさえすれば、路銀にも困らず、猿姫殿とも別れずに済みましたものを」

寝床にうずくまって、口走る。

いつしか、三郎はすすり泣いていた。

一月ばかり前に別れた同行者、猿姫の顔を思い浮かべている。

「うつけめ、男がむやみに泣くものではない」

三郎が泣いていることに気付いて小声で叱りつける、阿波守。

だがそう言う彼の声にも、狼狽の響きがあった。

「猿姫殿が心配でござる」

三郎は声を震わせた。

「あの猿女のことは心配いらん、矢でも鉄砲でも奴は倒せん」

慰める阿波守。

「金さえ貯めれば、あの女ともまた旅が続けられるのだ」

「で、ござりますか」

三郎は涙を拭った。

尾張国を発ってから、常に行動を共にしてきた猿姫。

彼女と別れることがこれほどつらいとは、三郎も想像していなかったのだ。

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