手を合わせる。つわものの名残りと港町。神戸市の旅(1)

湊川神社にお参りしたい、と常々思っていたわけなのです。

湊川神社兵庫県神戸市にあります、楠正成(くすのきまさしげ)公をお祀りした神社でありまして。

楠正成公は、南北朝時代に活躍した武将であります。

私は正成公が地盤とした大阪府南部の出身で、郷土が生んだ偉人として正成公に親近感を持っているのですね。

楠正成公、所縁のある土地土地では親しみを込めて「楠公さん」などと呼ばれもします。

楠公さんを祀る湊川神社に今までお参りしたことがなくて、何か歯がゆい気持ちがありました。

このお盆の時期に好機を見て、神戸市に出かけることにしたのです。

大阪市内からJRの列車に乗り、東海道本線を通って参ります。

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JR兵庫駅で降りて来ました。

この駅周辺の土地は神戸市兵庫区にあたるようです。

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駅前は広々。

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周辺の観光案内地図を見つけて駆け寄ります。

見ると、「兵庫大仏」とか「清盛塚」とか、気になる史跡が豊富!

ただ、今回の目標の湊川神社の所在は、どこにも書いてないんですね。

確か、湊川神社の最寄りは兵庫駅だと思ったのですが…。

兵庫駅構内に戻って、駅員の方に尋ねることにしました。

尋ねてみたところ、湊川神社の最寄り駅はJR兵庫駅ではなくひとつ手前のJR神戸駅だと言うことでした。

私の勘違いだったんですね。

ひと駅余計に乗ってしまいました。

仕方が無いので神戸駅まで行こうかな、と思うのですが。

兵庫駅まで列車に乗って来たせいで、運賃を余計に払っているんですね。

すぐまた電車で神戸駅まで行くのはもったいない、と思い直しまして。

まずは兵庫駅界隈の観光をすることにしました。

先ほど見た観光案内地図上の史跡群が、気になり始めていたのです。

私のよく知らない、兵庫の街。

歩けば発見もありそうです。

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阪神高速の高架沿いに歩いたり。

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時宗のお寺、満福寺と柳原天神社が隣り合わせています。

時宗のお寺って今まであまり見たことがなかったので、珍しく思いました。

踊り念仏の祖、一遍上人ゆかりのお寺なんですって。

境内に特に由来の解説などは無かったので、詳細はわかりません。

隣の柳原天神社の方は、かつて菅原道真(すがわらみちざね)公が太宰府に赴く途上この兵庫の港に立ち寄り、当地の梅花を見て歌を読んだことが勧請の由来のようです。

一遍上人菅原道真公、一度にいろいろ考えてしまい立ちくらみしそうになりました。

とりあえず道を進みましょう。

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神戸市内、道々にこうした観光案内地図が設けてくれてあって、嬉しいです。

今回、自分で地図等用意せずに来たので助かります。

この辺り、「兵庫津」に向かう街道の跡みたいですね。

兵庫の街は昔、兵庫津という港で栄えた土地柄のようで。

これから、港町の風情ある界隈が見られるのか?と期待してしまいます。

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少し歩くと、「兵庫大仏」が拝めるそうです。

行ってみましょう。

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大通りから横道に入り込んで、いきなり大仏様の後ろに来てしまいました。

正面にまわりましょう。

大仏様のいるお寺の正面にまわってみると。

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こんな案内が出ていました。

福原京史跡、平相國廟。

このお寺の中に、平清盛(たいらのきよもり)公の墓所があるんだそうです。

平相國というのは、清盛公の別名ですね。

平安時代末期の権力者、清盛公が遷都を強行して出来た都、福原京

兵庫の街を含む、神戸市内の一帯がその福原京の跡地だったのですね。

そう思い当たって、少し興奮してきました。

これは大仏様への参拝と共に、清盛公の墓所にもお参りしたいところです。

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天台宗の寺院である能福寺

正面から拝む、大仏様のお姿です。

手を合わせました。

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伝統日本三大仏、兵庫大佛。

案内板の説明によると、当寺の大仏は同じく大仏を保有する奈良の東大寺と鎌倉の高徳院からの公認を受けている…のだそうです。

なるほどー。

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そして、平相國廟。

平清盛公の墓所ですな。

十三重の仏塔が建っています。

手を合わせました。

 

能福寺から出てきました。

兵庫は福原京の跡地、ということを知らずにやってきましたが、こうなると色々関連の史跡を見たい気持ちです。

散策を続けます。

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能福寺から程近い新川沿いに建つ、イオンモール

どうもあのイオンモール辺りが、かつての兵庫津の跡地らしいです。

兵庫津は平清盛公の時代には、大和田泊(おおわだのとまり)と呼ばれていたようですな。

もともと奈良時代行基(ぎょうき)によって開かれた大和田泊に、清盛公が経ヶ島という人工島を造成するなど、大規模な修築を行って発展させたのですね。

この大和田泊が、清盛公による日宋貿易の基盤になったわけです。

清盛公の一門が源平合戦で滅んだ後も、兵庫津として鎌倉、室町、江戸時代を通して栄えた港だったのですね。

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イオンモールと新川を背に鎮座する清盛くんです。

何百年の長きに渡って栄えた国際貿易港の跡地に、外国文化の影響を受けた大きな商業施設が出来ているのは、自然な流れと言いますか。

今も昔も変わらぬ人々の旺盛な消費欲求を裏付けるようで。

大和田泊、兵庫津健在!の思いを確かにしました。

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もともと瀬戸内海の西側から兵庫津に寄港するには、兵庫津の西南に伸びる和田岬の沿岸を航行する必要があったそうなのですね。

ところが和田岬沿岸は波風がつよく危険な場所だったそうです。

明治時代に入り、まず和田岬の北方に船の迂回、避難のために新川運河が開削されました。

その後、兵庫運河、藻刈島運河、新湊川運河が開削され、和田岬の付け根部分を横切る形で四つの運河から成る総称「兵庫運河」が開通したのですね。

これにより船は海が荒れている際には和田岬沿岸を通ることなく、この兵庫運河を通り兵庫津を経由して瀬戸内海を行き来できるようになりました。

今、私の目の前に流れている新川運河は、兵庫運河の北側の部分に当たります。

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新川運河沿いにこんな史跡もあります。

兵庫城跡ですな。

戦国時代、摂津国(現在の大阪府北西部から兵庫県南東部にかけて存在した国)の土豪織田信長の配下だった荒木村重(あらきむらしげ)が、信長に反旗を翻しました。

この村重の反乱鎮圧に功のあった武将、池田恒興(いけだつねおき)は兵庫の地を与えられ、ここに兵庫城を築いたのですね。

恒興は、荒木村重の城で同じく現在の神戸市内にあった花隈城を解体して、兵庫城の建築に使用したんだそうです。

明治時代に入る直前、この城跡に新政府によって最初の兵庫県庁が建てられました。

この最初の兵庫県庁の移転後、新川の開削など諸々のことで周囲の地形も変わり、兵庫城の名残りは今や全く見られません。

兵庫城があった時代にはまだ新川運河は無かったわけですが、それでもすぐ北を山陽道が通り、兵庫津も至近距離にありました。

物流の拠点に位置する城だったのでしょうね。

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今でも周囲にイオンモール、各種倉庫等が見られます。

もしかしたら、中世から現代に至るまで、こうした風景はそれほど変わっていないのかもしれません。

武士の時代にも、倉庫などが兵庫津の周囲に立ち並んでいたのかも。

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新川運河の南北には、それぞれ水門が設けられています。

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