『瞬殺猿姫(44) 猿姫の偶像、文を読む三郎』

白子港の、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)が寝泊りする掘っ立て小屋に、猿姫(さるひめ)からの文が届いたのは、一行が離散して半年余りも後のことであった。

「織田のうつけに、文が来ておった」

蔵の後始末を終えた親方が、手に文を持って小屋の戸口に現れた。

三郎は、相棒の蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)始め、他の運び手たちと共に夜食を摂っている。

小屋の中、莚を敷いた土間の上で車座になって、干し魚を肴に安い地酒を飲んでいる。

大名の子息の三郎にとって、港での運び手の仕事はつらかったが、近頃は体と頭が慣れてきた。

身一つで務まる仕事にしては、待遇も悪くはない。

白子の港が繁栄しているが故に、蔵と港とをつないで荷を運ぶ仕事は、金になるのだった。

「文」

親方が近づいてくる前に、三郎は高い声をあげて立ち上がっていた。

もともと背が高かったが体つきの細かった三郎、この半年余りの間にたくましく変わっていた。

肩、背中、そして腰から脚にかけての肉付きが力強くなっている。

動きも俊敏なのだ。

その彼がいきなり立ち上がったので、足元にあった酒の盃が勢いでひっくり返りそうになる。

隣に座っていた阿波守が、その盃を慌てて手で止めた。

酒の強くない三郎が飲み残すと、その人の飲み残しにまで後始末をつけるぐらい、阿波守は酒が好きである。

「そうだ。宛名書きを見るに、女の文字だな」

座ったままの仲間の運び手たちが、三郎を取り巻いて囃し声をあげる。

三郎は息を飲んで、親方が手にした文を見た。

体がかすかに震えている。

親方から文をもぎ取って、今すぐにでも読み始めたい。

そんな三郎の顔つきを見て、普段彼に厳しい親方も、焦らす真似はしなかった。

文を目の前に突きつけた。

三郎は、短く深呼吸した。

親方に目礼して、文を受け取った。

文は、粗末な紙質だ。

切り封をした上に、「おださぶろうどの」と宛名書きがある。

その筆致を目にして、三郎の全身に一瞬の震えが走った。

もどかしく、切り封を指先で解き、文を開いた。

両手で広げる。

目の前に、縦書きの文面が広がった。

 

さぶろうどの

いかがおすごしか

さるひめにかわりはない

ろぎんのことあつまった

おへんじくだされたし

さるひめ

 

味も素っ気もない文面であった。

しかし、柔らかい筆致ではある。

三郎の口元がわなないた。

文を握り締めた。

かろうじて、息を吐く。

それから改めて文を広げ、再び文面に目を通した。

文章の頭から末尾まで、何度も読み返した。

飽きることなく目の動きを繰り返して、最後には文の中に己の鼻先を埋めてしまった。

親方と阿波守、その場の運び手たちも呆れて、声をかけることもできず、三郎を見守っている。

やがて、文に顔を隠したまま、三郎は嗚咽を洩らし始めた。

阿波守が、即座に立ち上がった。

「待てうつけ、文が湿る。俺にも読ませよ」

三郎から文を奪い、剥ぎ取った。

閉じた三郎の両目の端から、涙がこぼれている。

湿りかけた文の文面に、阿波守も立ったまま目を通した。

三郎は隣で嗚咽を響かせている。

即座に読み終えて、阿波守は傍らの三郎の醜態に横目をくれた。

「味気ない文だな。だが首尾よくいったようではある。何をまたそうやって泣くのだ、不吉な」

三郎は、ぐすぐすと鼻を鳴らしている。

「不吉ではござらぬ、吉兆でござる」

「だったらなんで泣く」

「美しい書体でござる」

揺れる声でかろうじて答えた。

阿波守は、文面に再び目を向けた。

「どこが」

「猿姫殿のお姿そのままの、たおやかな書体でござる」

そう続けて、泣き顔のまま、阿波守から文をひったくった。

「たおやかな」

阿波守は口のなかで復唱する。

三郎の頭の中で猿姫が今はどういう女に化けて棲み付いているのか、阿波守にはうかがい知ることができない。

その阿波守にも呆れている他の面々にも背を向けて、三郎は小屋の隅に行ってうずくまった。

文を抱いている。

「今夜はこのまま猿姫殿と二人きりにさせてくだされ、今夜だけは」

皆に断っているらしい。

親方は、阿波守の方を見た。

「おい、髭」

「なんでござる」

阿波守は、親方からも髭と呼ばれている。

「相手がいかな女か知らんが、ああもとち狂うた以上は、夫婦にする算段をつけてやった方がいいのじゃないか」

親方なりに、配下のうつけの醜態を見て心配してやっているらしい。

「しかし、武家のしきたりは難しくございますのでな」

阿波守は、苦い顔を返すばかりだ。

三郎がおかしくなっていても、彼は明日からのことを考えなければならない。

三郎を猿姫に再会させれば醜態は直るのか、それともより酷くなるのか。

三郎を中心にして、また以前の通り旅が続けられるのかどうか。

阿波守にも、この先のことが読めなかった。

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