韓国旅行二日目(1)。公州の王陵の谷。宋山里古墳群と武寧王陵
よく眠り、翌朝7時頃に目覚めました。
8時にはもうモーテルをチェックアウトします。
いいお宿でした。
山城洞のモーテル街は公山城の目の前なのですが、公山城の開園時間は午前9時からです。
まだ時間の猶予がありますので、少し離れたところにある観光地から先に見ておこうと思いました。
モーテル街の傍らに掛かる王陵橋を渡って、王陵へ。
ここから数百メートル進んだ先に、「宋山里古墳群」という古代の古墳があるのです。
もともと公州は「熊津(ウンジン)」といい、西暦475年から538年まで、三国時代の百済の都でした。
もともと百済国の都は現在のソウル特別市内の場所にあった「漢城」だったのですが、475年に北の高句麗に攻め込まれ陥落、捕らえられた蓋鹵王(がいろおう)は処刑されます。
ここに百済は一度、滅亡しました。
しかし国外にいて難を逃れた王子の文周王が蓋鹵王の後を継ぎ百済を再興、漢城から南の熊津に都を移したのでした。
これから行く宋山里古墳群には、この熊津が百済の都だった頃につくられた古墳が集まっているわけです。
念のため王陵橋の反対側にも来てみました。
欄干に花壇が設けられていて華やか、気分がなごみます。
土地の方々がお花の世話をされているのでしょうね。
橋の下は済民川。
川べりが公園として整備されております。
上り勾配が先に長々とあって。
朝から日差しがきつくて、少し歩いただけなのにもう心が折れかけているのでした。
通路の上から目線で他人様のお宅を拝見。
韓国の民家って日本の民家に似ているような似ていないようなですね。
日本の住宅を、若干お寺に近づけたような外観ですな。
宋山里古墳群に隣接して、市民運動場、市立図書館、公州国立博物館などの公共施設が集まる界隈です。
宋山里古墳群のある敷地内にここから行けます。
察するに「매표소(メピョソ)」というのはチケット売り場のことみたいです。
おそらく漢字で書くと「売票所」となるのでしょう。
매표소に向かいます。
この先の古墳群入口脇に매표소があり、1500ウォン(約150円)で入場券を買って敷地内に入りました。
宋山里古墳群の中には百済の第25代王、武寧王の陵墓があることで有名です。
古墳群が連なって丘陵を形成しているのですが、その丘陵の一番裾野にあたる部分に古墳を模した形の「模型館」という施設があります。
この中で、宋山里古墳群と武寧王陵にまつわる各種の展示物が見られるのですね。
入ってみましょう。
館内では、各古墳の玄室内部を再現した模造古墳が設けてあって、実際に中に入ることができます。
宋山里5号墳。
腰を落として身を屈め、狭い入口から玄室内部へ入ります。
心なしか息苦しいような…。
玄室内部に絵が描かれた、装飾古墳なのですね。
日本でも九州では装飾古墳が多く発見されています。
館内には古墳作りの過程を再現したジオラマもあります。
上のものは、窯で煉瓦を焼いているところです。
熊津では日本の古墳のように大きな花崗岩を積むのではなく、煉瓦を敷き詰めて玄室をつくるのが主流だったようです。
今度は6号墳にも入ってみましょう。
雰囲気ありますね…。
年を経た玄室内部の造形がよく再現されています。
煉瓦の装飾も、呪術的というのでしょうか、見ていて引き込まれる磁力を感じます。
玄室内部ではわかりにくかったのですが、この6号墳内部は玄室壁面に四聖獣の描画が成されていることも特徴のひとつです。
玄室内部とは別に、四聖獣図を再現した展示もあります。
古墳の玄室内部に四聖獣図を描くのは、高句麗の古墳の特色だそうです。
日本の奈良県飛鳥村にある高松塚古墳の内部にも四聖獣図が描かれていますね。
百済の古墳、日本の古墳にそれぞれ高句麗の技術が伝来していたのかも…と想像できます。
模型館の奥には武寧王陵の玄室も再現されております。
百済が隣接する高句麗、新羅と敵対していた関係上、武寧王は日本との関係を重視していたらしく、日本書紀にもその名前が出てきます。
日本では武寧王が継体天皇に贈ったものとみられる「人物画像鏡」を和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵しており、これは国宝に指定されています。
現在は東京国立博物館で管理されています。
日本と縁が深かった王なのですね。
広い玄室の床には、数々の副葬品が安置されています。
レプリカですが、副葬品の展示も。
各種の鏡ですね。
金冠、耳飾なども。
武寧王陵には武寧王と合わせて王妃も埋葬されていたので、副葬品も武寧王と王妃のものとがそれぞれありました。
また武寧王と王妃の遺体を収めた木棺のレプリカも展示されていました。
この木棺は高野槙を材料に製作されたものだそうです。
高野槙は日本の高野山に特に多く、武寧王陵の木棺の素材も日本から運ばれた可能性があるとか…。
これは墓誌石です。
そもそも武寧王陵が武寧王と王妃の王陵だと判明したのは、この墓誌石によるところが大きいのです。
墓誌石には、埋葬されている人の名前とその事跡などが事細かに記されています。
日本も韓国も、大きな古墳であっても中に眠る被葬者が不明で特定も難しい場合が多いのですが…。
たまたまこの墓誌石が古墳から見つかったことで、武寧王という歴史に名を残す人物の陵墓が判明したわけなのですね。
墓誌石、万歳。
また武寧王陵は盗掘も免れており、数多い副葬品が無事でした。
時代は1971年、僥倖のような武寧王陵の発見。
韓国考古学史上の大事件だったわけです。
模型館を出て、これから実際に古墳群を見て参ります。
模型館の出口の目の前に古墳の山が控えています。
別の一角には発掘中の現場がフェンスで仕切られています。
「観覧口」を設けて現場を覗けるようにしてくれてあるものの、「写真撮影禁止」ということでした。
サービスがいいような、悪いようなわからん対応です。
遠くから撮りました。
目視した発掘中の現場は無人で、素人の私には見ても状況がよくわかりませんでした。
5号墳ですね。
玄室の環境保存のために入口は封印されています。
先ほどレプリカの玄室に入ってきたので、中がどうなっているのか私にはよくわかっています。
内部を想像しました。
同じく武寧王陵にも封印が施されています。
この中にあの模型館で見たのと同じ広大な玄室が広がっているかと思うと…。
興奮してきます。
武寧王陵よりも高い位置に、1号墳から4号墳までが並んでいます。
どなたの墓所か、特定されていないだけで…。
あれらの古墳群に眠っていたのは、百済の歴代王である可能性もあるわけです。
5号墳、6号墳もそうなのです。
武寧王陵に先駆けて、1927年に発見されている1号墳から4号墳。
埋葬されていた人たちの遺体は、おそらくは博物館等の研究施設で保存されているものと思います。
墓誌も無く、副葬品も盗掘され、誰なのかこれからも不明なまま眠る、偉大な人々…。
想像すると、途方もない行き場の無い気持ちに襲われます。
緑豊かな王陵の谷のさなかにも、開発の波。
高層住宅が立ち並びます。
古墳の多い丘陵地帯が宅地造成されて住宅地になっていくのは、日本と事情が似ていますね。
古墳群の裏手に小道があって、ここを進むと国立公州博物館に行けます。
国立公州博物館は、武寧王陵の副葬品の現物を主に展示しているのです。
気にはなるのですが、本日の観光の予定も押していますので、スルーしてしまいます。
レプリカを見て満足してしまう、薄情な私です。
これから公山城を見学するので。
元来た道を、再び歩いて戻ります。
やっぱり暑いです。
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