『瞬殺猿姫(47) 出立の日。猿姫と三郎、感傷的な邂逅。抱擁。暴力』
出立の朝が来た。
「お世話になり申した」
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、宿舎の小屋の中に集まって見送る仲間に頭を下げた。
立ち並ぶ男たちの中に、親方もいる。
当初は手厳しい対応を受けたが、三郎が仕事に慣れてからはうまくやってきた。
気心が知れれば、面倒見のいい親方だ。
「のたれ死ぬぐらいなら、いつでも戻って来い。人手はいつでも足りんのじゃ」
「かたじけのうござる」
「髭、お主もぬかるな」
「は」
髭と呼ばれた蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)も、名残惜しそうに親方と仲間たちを見ている。
「昨日言ったように、下総守様には話をしてある。待ち合わせの場所に使者もいるはずだ」
親方の言葉を受けて、三郎と阿波守はうなずいた。
居城の神戸城を攻め落とされた後、城主の神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとりもり)は居場所を転々として、捕まらない。
彼と連絡のある親方に、話をしてくれるよう三郎は頼んでいたのだ。
親方と仲間たちへの挨拶の後、二人で辞去した。
白子港を抜け、伊勢街道に出る。
事前に仲間の猿姫(さるひめ)の元に、文を託した飛脚を送っている。
その猿姫から、返書も受けとった。
南伊勢に向かう途中の、街道沿いの茶店で集まる約束になった。
街道を歩いていく三郎の足取りは軽い。
新調した旅装束をまとい、編み笠を被り、大小二本の刀を腰の帯に挿して。
背中には手荷物の袋と、南蛮の鉄砲とをこれも袋に隠して背負っている。
袴の脚先は脚絆と草履で固めて、力強く進んでいる。
以前の三郎は、下品な絵柄の羽織に荒縄で数多くの瓢箪と刀とをだらしなく結わえ付けて、脚を露わに道を歩いていた。
今の姿はその頃からは見違えている。
斜め後ろから付いていきながら、これも旅装束に編み笠を被った阿波守が、三郎の姿を見ている。
「悪くない侍ぶりだ」
「で、ありますか」
「見違えた今のお主を見れば、もうあの猿姫もうつけなどとは思うまい」
阿波守なりの褒め言葉に、三郎は控えめな笑みを浮かべた。
頬が薄赤く染まっている。
「だが、あまり急くなよ。まだ先の見通しがつかんのだ、周りを見ながら慎重に行け」
「しかし猿姫殿と行き違いにでもなったらと思うと」
足を止めずに軽く振り返って、三郎は答えた。
「まずは彼女と会わないことには気持ちが落ち着きませぬ」
街道沿いに町屋の建物が続いている。
木戸を抜け、白子の宿場町を出ると、街道の両岸は野原になる。
二人は足早に進んだ。
左手遠方に伊勢の海を見ながら、途中川にかかる橋をいくつか越えて、南へと行く。
伊勢街道と内陸からの道とが繋がる、三叉路があった。
その三叉路の角に、町屋が一軒建っている。
「あれでござるな」
三郎の言葉に阿波守はうなずいた。
町屋に近づいた。
建物の街道側に縁台が設けてある。
目的の茶店なのだった。
「表の床机には誰も座っておらん」
阿波守に言われ、三郎は口をつぐむ。
その表情に、失望の色が浮かんだ。
「猿姫殿、まだ来ておられぬか」
「もう茶店の中にいるのかもしれんぞ」
二人して、茶店に近づいていく。
縁台の脇を通り、建物の引き戸に三郎は手をかけた。
阿波守は、油断なく周囲を見回している。
「御免」
中をのぞく。
店舗の内側の広い土間に、数人掛けの大きな床机が同じ並びにして二列、横に三つずつ並べてある。
先客が四人いた。
それぞれ床机に腰掛けている。
旅装束の武士が一人、左手手前の床机に。
他には、旅装に頭巾をかぶった僧侶が右手奥に。
傍らに錫杖を横たえている。
そして、手前中央の床机に相席しているのは武士と小柄な女の二人連れ。
この武士と女は同じ床机に座り、武士は入口側に腰掛けてこちらを見ている。
女の方は向こう側から座り背中を見せていたが、振り返って入口の三郎たちを振り返っている。
三郎は、息を飲んだ。
彼女だった。
三郎が半年余りの間、身を焦がして会いたがっていた相手。
猿姫その人である。
猿姫も目を大きくして、とっさに立ち上がった。
彼女が床机に立て掛けていた棒が、足元の土間に転がって軽やかな音をたてる。
棒はそのままに猿姫は床机の横に出てきた。
三郎の方を向いた。
「猿姫殿」
三郎はかすれた声で言う。
「三郎殿」
猿姫が応じた。
三郎は、彼女の前に歩み寄っていく。
猿姫と向かい合って立った。
最後に別れてから、半年以上経っている。
彼女は、三郎の脳裏に刻まれた姿から、寸分も変わっていなかった。
同じ瞳、同じ目鼻立ち。
小さく細身の、それでいて強靭な体。
しかし実際のところ猿姫は、農作業とどじょう取りの生業に励み、質素ながらきちんと食事を摂って屋根の下で眠る生活を続けている。
顔は日焼けして浅黒くなり、髪も以前より長く伸びている。
栄養が行き届いて、三郎といた頃よりはその体つきも、少なからず柔らかな丸みを帯びていた。
ただ三郎には、そうした猿姫の見た目の変化に気付く落ち着きは無い。
両腕を伸ばして、目の前の猿姫の体を抱き寄せた。
「わ」
猿姫が小さな短い声をあげた。
三郎の胸板に、彼女は吸い寄せられた。
三郎は彼女の頭を片腕で抱え込む。
「三郎殿…」
衝動的な三郎の行為に、猿姫はとっさに拒むこともできず、困惑しながら体を任せていた。
三郎の背後から、阿波守がにやにやしながら見守っている。
店内の他の三人の客も、奥から顔をのぞかせた店の者も、感傷的な邂逅の現場に居合わせて、呆気に取られている。
ただ見守っている。
猿姫をしか感じていない三郎は、その周囲からの視線に気付かない。
「このときを、待ち焦がれておりました」
一心に猿姫を抱き締めながら、涙声混じりで彼女の頭にささやきかける。
周囲の視線を感じている様子の猿姫はそれでも開き直ったらしく、上気した顔を三郎の胸に埋めた。
無言のまま、両腕を彼の腰に回して応じた。
「お騒がせいたしました」
冷静さを取り戻した三郎は、先客と店の者に謝っている。
彼らの生暖かい反応を受けながら、彼は床机に腰を下ろした。
三郎と阿波守が、猿姫と彼女の連れの武士と四人並んで腰掛ける。
阿波守は店の入口側に座り、後の三人は三郎、猿姫、武士、という順で店側を向いて座った。
猿姫は愛用の棒の一方を土間の上に着けて、床机と自分の首筋にたてかけている。
改めて、三郎は猿姫を見ている。
猿姫も以前と装いを変え、女物の着物を来て足先は脚絆と白足袋に草鞋、という一般の旅人の姿になっている。
髪は以前より伸びていた。
前髪は分けて顔の両側に垂らし、後ろ髪は束ねて頭の後ろで結っている。
編み笠は、床机の上に置いてあった。
愛用の棒にしたところで、いたって普通の女性の旅人も同じようなものを携える。
猿姫のそれはいささか長くて肉厚だが、さほど違和感も無い。
まっとうな女性姿の彼女も好きだ、と三郎は思って見つめている。
「こちらは、佐脇与五郎(さわきよごろう)殿だ」
抱擁の余韻なのか、三郎に見つめられているからなのか。
いまだ顔を赤く染めながら、猿姫は連れの武士を三郎に紹介した。
武士は、壮年の、静かなたたずまいの男性である。
佐脇家は神戸家に仕える武家だと佐脇与五郎は語った。
「皆様と同行いたす」
小声で言う。
彼も旅装なのである。
「主の下総守から委細聞いております。南伊勢までの旅の費用のことも、贅沢はさせられませぬがお世話いたしましょう」
やはり小声で言った。
「ご助力くださるということですか」
「左様です」
「有り難く存じます」
三郎は頭を下げた。
この半年余りもの間、苦労して路銀を溜めてきた。
その路銀、使わずに済むならそれに越したことはない。
南伊勢が旅の終わりではない。
三郎たちはその先、和泉国の堺まで行くつもりなのだ。
空になった湯飲み茶碗のふちを口先に当てて弄んでいた阿波守が、ふと動きを止めた。
「おい、そろそろ行こうか」
出し抜けに言う。
三郎たち三人は阿波守の方を振り返った。
阿波守の声に、空々しい響きがあった。
「阿波守殿。何か…」
問い質す三郎の声も待たず、阿波守は立ち上がった。
「佐脇殿。ここは茶代を払っておいてくださるか」
背後の与五郎に、急かすように言う。
「は…」
与五郎はうなずきつつ、腑に落ちない様子。
が、その顔つきが変わった。
「織田殿。猿姫殿。出ましょう」
床机の上から自分の大小の刀をそれぞれ両手で取り上げながら彼も慌てて立ち上がり、三郎と猿姫をうながす。
三郎はようやく気付いた。
「待ちなされ」
野太い声を浴びた。
いつの間にか、与五郎の向こうの床机に座っていた僧侶が、立ち上がっているのだ。
平常の目つきではない。
彼は両手に長い錫杖を持っている。
その錫杖の頭部を手近な与五郎の顔に向けた。
与五郎は即座に対応できない。
だが猿姫の動きは速かった。
床机から飛び上がり、片手を伸ばして与五郎の襟首を横からつかむ。
そのまま身を沈めた。
「ぐっ」
引き込まれて、与五郎の体は猿姫の足元へ。
その彼の頭上を、僧侶が突き出した錫杖の先がかすめた。
猿姫は与五郎が土間に体を打つ寸前で腕を引き、そのまま静かに接地させる。
床机に立て掛けてあった愛用の棒が、衝撃で倒れようとしている。
その棒を手先ですくい上げながら、土間の上に横たえた与五郎の体の上を飛び越え、猿姫は空中で棒を引き絞る。
僧侶が続けて繰り出した錫杖の突きを、棒の先で小刻みに弾いて反らせた。
「えいっ」
前足を踏み込みながら、肩で支えた棒の後方部分をてこの原理で跳ね上げ反転させて、上から僧侶に叩きつける。
僧侶は錫杖を両手で横に構え、頭上に抱え上げた。
猿姫の一撃を、錫杖の柄で受け止めた。
だが、衝撃に腕の力が耐え切れない。
押し負けた両腕と錫杖は下に落ち、棒の腹が頭巾をかぶった頭部にめり込む。
そのまま、猿姫は全身を沈める勢いで押し切った。
頭上から押し込まれ、僧侶は膝を付く。
手に持った錫杖ごと、上体が叩き付けられる。
うつ伏せになった。
猿姫は棒を引き戻す。
「ぐあああっ」
猿姫が身を引いた瞬間、僧侶は両腕を土間に突いて上体を起こした。
雄たけびをあげる。
肩膝をついて、起き上がろうとする。
猿姫は踏み込んで相手の背中に伸ばした棒先を鋭くあてがう。
「ぐっ…」
「動くなっ。動くと背中が裂けるぞ」
怒鳴りつけておいて、三郎の方を振り返る。
その顔色が変わった。
「阿波守」
猿姫は叫んだ。
店内の反対側、三郎に近い側の床机にいた先客の武士。
その武士と、阿波守とが組み合っている。
刀を抜いて右手に持った武士の腕を阿波守が両腕でつかんで押し留めている。
彼らの後ろで、三郎が体勢を崩して土間に座り込んでいる。
三郎を襲わせまいと、阿波守がかばったのだ。
しかし武士は組み付かれて顔を歪ませながら、空いた左手で自分の懐を探っている。
猿姫は息を飲んだ。
武士は、隠し武器を使おうとしている。
阿波守は相手の動きを止めるのに手一杯だ。
「阿波守っ、相手を放して退けっ」
出来る限りの大声をぶつけた。
びくり、と阿波守の背中が震える。
次いで阿波守は組んだ相手の右手と首筋とを、押すようにして自分は後方に倒れこんだ。
土間に背中を打ち付ける。
自由になった武士は、左手を懐から抜き出した。
ごく刃の短い、小柄が指先に握られている。
左手の小柄と右手の刀を、仰向けの阿波守にそれぞれ上から叩きつけようとする気配を見せた。
猿姫の棒の間合いから遠い。
猿姫は、体の成すままに任せた。
抑えていた僧侶を捨て置く。
棒先を引き戻し、その勢いで振り向きざまに棒を武士めがけて投げつけた。
猿姫の手を離れた棒が、倒れている与五郎と三郎と阿波守の頭上を越えて、轟音を響かせながら武士の胴体めがけて一直線に飛ぶ。
阿波守に刀と小刀が打ち込まれるよりも、棒先が武士の胸の合間を撃つ方が速かった。
衝撃で武士の体が激しく揺れ、後ろに振れた。
一瞬遅れて、武士の喉から、ぐっと声が漏れる。
武器を携えた両腕を振り上げたまま、動きが止まった。
棒は武士の足元に転がる。
「うおおお」
阿波守が声をあげた。
仰向けの状態から身を転じ、土間の上を這って、脚絆を穿いた武士の脚に組み付いた。
全力で相手の揚げ足を取る。
武士は振りかぶった刀ごと背後に倒れた。
やった、と思った瞬間、猿姫は背中に激痛を感じた。
彼女が棒を投げてからここまで、わずか一秒ほど。
振り向いた。
僧侶が彼女のすぐ真後ろに立ち上がっていた。
小柄を握った右手を掲げている。
その小柄の刃先が赤く濡れて、鮮血が滴っている。
猿姫の背中を突き刺したのだった。
頭巾が滑り落ちていて、反りあげた頭頂部を晒している。
至近距離で、僧侶と猿姫の視線が絡み合った。
猿姫は、痛みで気が遠くなる。
「往生なされよ」
僧侶が唱えるように言った。
小柄な猿姫に抱きつくように全身で覆いかぶさりながら、小柄の切っ先を猿姫の首筋へ。
「んっ」
思考が覚束なくなっている。
再び体の成すままに任せた。
屈み込み、相手の胸部と腹部の合間辺りに自分の額を打ち付ける。
相手の懐に取り込まれ、とっさに取れる行動だった。
僧侶の衣服で擦れて、額は痛む。
小柄の切っ先が、猿姫の頬の上を滑って傷つけていく。
痛い。
捨て身の頭突きを受けて、僧侶はよろめいた。
動かなければ。
猿姫は、力を振り絞った。
よろめいた相手のその眉間を、素手で殴りつける。
曲げた人差し指と中指の第二関節を、相手の急所に打ち入れている。
僧侶の顔立ちが醜く歪んだ。
続けて、小柄を持った相手の右手首に手刀を打ち込む。
相手は小柄を取り落とした。
背中が痛む。
濡れている。
尾張で織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)の配下に斬られた古傷を刺され、えぐられたようだった。
相手を黙らせなければ。
でなければ、三郎が襲われる。
痛みにさいなまれながら、猿姫は夢中で相手を打擲した。
得物を持たない手負いの猿姫が、体の動くままに僧侶に蹴りを入れ、肘鉄を食らわせ、相手を沈黙させた。
彼女の背後では、阿波守が武士の男に馬乗りになって、上から殴りつけている。
三郎は仰向けの与五郎を助け起こしながら、猿姫の後姿に見入っている。
打ち負かした僧侶を立って見下ろしている猿姫の背中は、傷を負ってなお真っ直ぐに伸びていた。
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