言い訳の東京旅行二日目(2)。泉岳寺お参り。白金台。周辺に不思議な坂が多い
高輪大木戸跡近くの、泉岳寺の交差点まで来ました。
この交差点から緩い勾配を登っていきます。
門前まで来ました。
朝の7時からもう開門しているということです。
慶長17年(1612年)に徳川家康によって、かつての主であった今川義元(いまがわよしもと)の菩提を弔うために創建されたということです。
もとは江戸城の近くに建てられていたのですが、創建から三十年後に火事で焼失したために現在地に移転再建されたのですね。
後に赤穂藩主浅野家の菩提寺にもなり、現在は「赤穂四十七義士」が祀られていることで著名です。
境内で浅野内匠頭長矩とその奥方の墓所、そして赤穂四十七義士の墓所にお参りしてきました。
義士の墓所にはそれぞれ欠かさず仏花が供えられているのですが、大石内蔵助良雄、堀部安兵衛武庸ら著名な義士の墓前には特に参拝者からのお供え物が多かったです。
酒好きの堀部安兵衛にはお酒が何本も供されていました。
今なお四十七義士が多くの日本人から愛されていることを目の当たりにしました。
私は何も備えずに空手で拝んできました。
泉岳寺には今回の旅の締めくくりとして最終日にお参りするつもりだったのですが、日程の関係で早くも二日目にしてお参りを済ませることになりました。
泉岳寺にはかなり以前から一度お参りしたいと思っていたので、成就できてどこか気持ちが晴れたようです。
山の手を歩いて品川駅方面まで足を伸ばします。
「伊皿子坂」だそうです。
「いさらこざか 明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりともいいさらふ(意味不明)の変化ともいう」。
「いいさらふ(意味不明)の変化ともいう」って。
怖くないですか?
昔の人がこの坂を歩いていたら誰かに何かを言われたんでしょうか。
あまり深入りせず、明国人が住んでいた説を採った方が無難でありましょう。
東京の坂は由来不明のものも含めいろいろ伝承と考察があって面白いんですよね。
高台から今度は坂を下ります。
天神坂です。
「てんじんざか むかし坂の南側に菅原道真の祠(ほこら)があったためにいう。葭原が見えるので葭見(よしみ)坂・吉見坂といったという説もある。」。
こちらは何か昔の情景を想像させて、素敵ですね。
では葭原のあった場所?に下りましょう。
桜田通りに出ました。
ってことはここをずっと北に行けば皇居の桜田門に出るんですね。
この界隈は町名が「白金台」になってまして、田舎者の私は「ここがシロガネーゼの住んでるところかい」と興奮しました。
この白金台とお隣の白金とで、合わせて高級住宅地として有名らしいですね。
白金台を散策したいですね。
何か金運のおこぼれがいただけるかもしれません。
ワンちゃんを散歩させているカジュアルな装いの女性とすれ違って、「この人も何気ない様子だけどシロガネーゼか」と内心興奮しました。
通報されないようにこちらも何気ない様子を装います。
白金台一丁目の一番地。
御利益ありそうですね。
プラチナ製品に恵まれる人生を目指します。
また坂。
しかもなんか渋い坂名。
「ひよしざか 能役者日吉喜兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかにひよせ・ひとせ・ひとみなどと書く説もある。」。
能役者の名前ですかあ。
日吉喜兵衛もシロガネーゼですな。
この界隈の坂の名前に別名が多くてはっきりしないのはなんなんですかね。
地元住民でも人によって呼称が違ったのか?
ミステリが残るからこそ魅力的ではあります。
日吉坂を上らず、Uターン。
気になる場所を通り過ぎてしまってまして。
「清正公前」交差点に面した場所にある寺院、覚林寺です。
清正公って豊臣家の名将、あの加藤清正(かとうきよまさ)のことでは?と思ったんですね。
お参りしてきました。
御本尊とは別に「清正公」を祀っているお寺なんですね。
でもその清正公様が加藤清正なのかどうか、境内の案内版を読んでも書いてなかったのですね。
ただお寺の縁起として、江戸時代に「可観院日延上人(韓国の王族)」によって開かれたという説明がありました。
韓国(当時韓国は無いので、朝鮮王朝のことでしょう)の王族がどういう経緯で白金の地にお寺を開いたのか、物凄く気になりますが、その辺りの説明もありません。
港区の観光ウェブサイト等見ると、やはり清正公は加藤清正のことらしいです。
江戸時代、加藤清正が病を打ち負かす「清正公」として庶民に信仰されていたんですって。
またウィキペディアには日延上人が、加藤清正が慶長文禄の役で捕虜にした朝鮮の王子、臨海君の子だとしてありますが…これはどうなのでしょうね。
日延上人という人物に対して興味が湧いてきます。
彼もシロガネーゼであります。
道沿いの明治学院大学のキャンパス内にヴォーリズ設計の礼拝堂が現存しています。
石垣の上にあってよく見えません。
坂の上の高台にあって、今と違って周辺に高層ビルが無い時代は眺望がよかったでしょうね。
窓から品川の海も見えたんじゃないでしょうか。
明治学院大学の学生さんは毎日どういう気持ちでこの歴史的なチャペルを見ているのか?
気になりました。
見慣れてくるとなんとも思わないかもですね。
「明治学院前」交差点から東の方を見ると、面白い建物がありました。
ちょうど東の品川駅方面に向かうところです。
この先に進みます。
警視庁高輪警察署だそうです。
レトロ建築というか、灯台ですね。
海からよく見える場所です。
灯台を改装した警察署ですか…港区は趣味がいい土地柄です。
高輪警察署の先には高野山東京別院がありました。
こんなところにあったんですね。
高野山は近場で何度かお参りに行っているので、縁を感じます。
せっかくなので東京別院にもお参りしました。
なんだかこの界隈は情報量が多いというか、少し歩けばこちらのセンサーを刺激する場所に出くわすんですね。
住宅と住宅の隙間の路地が、曲がりくねった坂道になっていまして。
洞坂です。
「ほらざか 法螺坂・鯔坂とも書く。このへんの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ほら貝が出たとも、またくぼ地だから洞という等様々な説がある。」。
洞村って何かいいですね。
洞穴の中に村があるみたいで。
ちなみに韓国では日本の「町」にあたる行政区画を「洞」で表わすんですね。
由来は知りませんが、洞穴の中に町があるみたいでいいですよね。
普通のお宅のさなかをぐねる洞坂。
日陰になっていて洞感出てますね。
この先が目的地なんです。
東禅寺というお寺でした。
「最初のイギリス公使宿館跡」なんですね。
江戸時代初期、日向国(現在の宮崎県)は飫肥藩主の伊東祐慶(いとうすけのり)が開基となり、まず江戸城桜田門外に建てられました。
それから30年近く経った後に、現在地に移転しています。
江戸時代通して、伊東家以外にも数多くの大名家の菩提寺となっています。
ところが幕末になってイギリス公使の宿所として指定されました。
公使を狙う尊皇攘夷派の武士から二度に渡り襲撃を受け、寺院は損傷します。
さらに「穢れた」異人を寺に入れたということで、全ての檀家に見限られてしまいました。
外国人を「穢れ」とする感覚は現代から見れば不穏当に思えますが、当時はイギリスが政治的に日本を圧迫して不平等条約を結ばせた頃ですから、公使が恨まれても無理は無いのですよね。
こういう経緯で、いっときは寺も荒廃してしまっていたそうです。
寺を公使の宿所に指定したのは幕府なので、お寺にしてみれば酷いとばっちり以外の何物でもないのですが。
「歴史に翻弄される」という言葉を連想しました。
現在は境内に三重塔もあって、格式ある建築の本堂を備えたお寺でした。
新品価格 |