『瞬殺猿姫(48) 猿姫の痛手。三郎たちの算段』

茶店の奥から、彼女が漏らすうめき声がわずかに聞こえた。

織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、思わず唇を噛む。

床机に腰掛けて、苦々しい顔でいるのだった。

背中を刺されて負傷した猿姫(さるひめ)。

彼女を、三郎は仲間の蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)の手に任せた。

もう一人の連れ、佐脇与五郎(さわきよごろう)は倒した二人の刺客を痛めつけて吟味するのに忙しい。

佐脇は医術の心得があるとして猿姫の治療を申し出たのだが、阿波守が断った。

彼が三郎に耳打ちしたところでは、まだ猿姫を委ねるほど佐脇を信頼していない、という。

三郎もそれには内心で同意した。

佐脇は神戸家の家臣であると猿姫から紹介されたが、いまだ得体の知れない相手だ。

まだ気心の知れた阿波守に猿姫を任せる方がいい。

そうして、店の奥で阿波守が腕を振るっている。

猿姫の押し殺したうめき声がまた聞こえた。

三郎は息を飲む。

猿姫が手当てのためとは言え阿波守に裸の背中を晒して苦しんでいる姿を思うと、三郎は嫌な胸のうずきを覚えた。

「持ち物を探りましたが、こやつら二人とも身元を明かすようなものは持っておりません」

佐脇与五郎が辛抱強い声で三郎に言った。

床机のひとつに僧体の刺客をうつ伏せに寝かせて縄で床机にくくりつけている。

もう一人の武家姿の刺客も、別の床机に同じようにくくりつけてあった。

彼らを、佐脇は代わる代わる問い詰めてはわき腹を小突く、顔を平手で打つなどの暴行を加えている。

刺客の二人は口を割らなかった。

「で、ござるか」

いまだ脳裏に、茶店の奥でうつ伏せに寝て背中の傷を晒す猿姫と、彼女の上に屈みこむ阿波守の姿が残っている。

そんな幻想を振り払い、三郎は早口に相槌を打った。

「では仕方ありますまい。ご店主」

傍らに立って呆然と事の成り行きを見守っていた茶店の店主を、三郎は見やった。

「この二人はここに置いて参ります故、後の始末はお任せいたす」

「えっ、そんな」

店主は困惑をあらわにした。

「後の始末と言われましても」

「連れていくわけにも参りませぬので」

三郎は淡々と答えた。

佐脇も神妙にうなずいている。

「店主。私がこやつら二人を今ここで始末しても構わぬが、それでは困るだろう?」

これ見よがしに腰の刀の柄を指先で弄びながら、佐脇は店主に言った。

店主は唾を飲み込む。

「それはそうでございます。今日だって、まだこれから商いもあるのですよ」

「商魂たくましいことで結構」

「しかし私一人しかおりませぬのに、こんな人たちを置いていかれてどうしたら…」

店主は弱音を吐いた。

なるほど、と三郎は思った。

こんな得体の知れない連中を店に置いたまま外へ行くこともできない。

人を呼ぶこともできず、店主は身動きが取れなくなるだろう。

「それは困りましたな」

つい同情してしまう。

「ですから、あなた方が何とか二人とも連れて行ってくださいませ」

そう訴えられると三郎は困るのだった。

「佐脇殿、どうします」

「どうします、ではないでしょう。そんな余裕はありません」

「ご店主が困っておられます」

「織田殿。我らは他人の心配していられる立場でないのが、おわかりになりませんか」

佐脇は驚き呆れた顔で三郎を見返した。

「されど」

「猿姫殿の傷も心配です。そしてこのような刺客の連中がどこに潜んでいるのかもわからぬうえは、ここでいつまでも足止めを食っていては」

「ええ」

「第二第三の刺客が殺到せんとも限りません。私と貴殿と蜂須賀殿の三人だけで、そんな連中を裁けますか?」

じわじわと三郎にも状況が飲み込めてきた。

「では、急いでこの場を離れなければ」

「そういうことです」

佐脇は、床机に縛り付けた刺客二人に背を向けた。

「こやつらの親玉が誰かは推量するほかありません。尾張織田家か、近江の六角家か。それともどこか他の大名の手先なのか」

「ええ」

「我が主、神戸下総守は、誓って関与していません」

「それは疑ってもおりませぬ」

三郎は内心はともかく、相手の手前、うなずいてみせた。

「ありがとう存じます。では猿姫殿の傷の手当が済み次第、ここを出ましょう」

「やむを得ませんな」

面倒を押し付けられた形になって、店主は絶句している。

そんな相手を見て、三郎には気の毒そうな表情をつくることしかできない。

 

店の奥から猿姫が、阿波守に肩を借りながら出てきた。

思わず三郎は床机から立ち上がった。

猿姫は力なくうつむいている。

その彼女の顔は酷く血色が悪かった。

着物の下に包帯を巻いたらしく、腰の辺りがわずかにふくれている。

「深手だ。血を止めて、持ち合わせた薬を塗って傷口も縫ったが、間に合わせだな。臓腑に刃が届いていなかったのがせめてもの救いだ。しかし傷は深い」

先ほどの猿姫の苦しげなうめき声は、傷口を針で縫われる際のものだったらしい。

今もうつむいて痛みをこらえている猿姫の顔を、三郎は直視することができなかった。

「刺された後に、調子に乗って暴れたのも、よくなかったみたいだ」

猿姫はうつむいたまま、小刻みな息を吐きながら自嘲的に言った。

三郎は彼女に何と言葉を返していいのかわからない。

彼女が暴れて刺客の僧侶を倒していなければ、三郎の命が危なかったかもしれないのだ。

「歩けるのですか」

我ながらなんとうつけた問いだろうか、と直後に気付いた。

猿姫は視線を上げて三郎の顔を見たが、表情が揺らいでいる。

言葉に詰まっている。

「歩くしかないのだ」

猿姫に肩を貸している阿波守が、毅然とした言葉をその場に吐いた。

三郎、猿姫、佐脇与五郎、誰もが暗黙のうちに阿波守の言葉を認めていた。

もはや刺客の男たちを置いていく、置いていかないの心配をしている余裕すら無い。

 

店の縁台にいったん猿姫を座らせ、阿波守は自分は土間に立った。

草履をはいて、三郎のところに近づいてくる。

「うつけ」

「何です」

「耳を」

「は」

身構えた三郎の耳元に髭面を寄せる。

耳にごわごわした髭が当たり、三郎は身を震わせた。

頓着せず、阿波守は彼の耳元にささやいた。

「いいか。これからしばらく、猿姫を徒歩で行かせるのは無理だ。傷が開いてしまう」

三郎の背中を冷たいものが走った。

「で、ござるか」

内心の動揺を、隠そうと努めた。

小声で返す。

「それでだ。考えた」

「ええ」

「近隣の農家で荷車を借りる。そして猿姫を乗せて海辺まで出て、そこでは漁師に船を借りる。海路で南伊勢まで行く」

「なるほど」

三郎はわずかに安堵した。

進み方は何かとあるものだ。

「俺が猿姫とここに残って刺客二人と店主を見張る。お主は佐脇与五郎と二人でそれら乗り物の算段をつけて来い」

「わかり申した」

そこで阿波守は声の調子を変えた。

「だがいいか、三郎。決して佐脇から離れるな。奴の素性もまだ明確でない。不審な動きをさせぬよう、見張るのだぞ」

「は」

「そして、忘れるな。お主らが急いで帰らぬと、猿姫の命も俺の命も危ない」

「は」

緊張感を持って、三郎はうなずいた。

何気なく猿姫の方をうかがった。

店の縁台に力なく腰を落として、猿姫は心細い顔で三郎を見返している。

三郎は、心臓をつかまれた気持ちになった。

離れたところから、佐脇も内緒話する三郎と阿波守のことをそれとなく見ている。

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