『瞬殺猿姫(50) 猿姫を狙う織田弾正忠信勝』

織田家の当主、織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)は、清洲城を本拠に定めている。

隣接する諸国との戦は小康状態にあって、動きがない。

城内の空気は落ち着いている。

彼の兄、三郎信長(さぶろうのぶなが)を支持する織田家家臣は家中からほとんどいなくなった。

「ほとんど、というのが気に食わない」

居室の上座に、弾正忠信勝は背筋を伸ばして座っている。

形ばかり、右肘を脇息に置いている。

衣服の折り目も正しい。

髪油で整えた髪を頭部の後ろに集め、結ってある。

鼻下に整えた髭の他は無駄毛を綺麗に剃りあげてあり、肌艶が良く白い。

白い顔の中につくりの大きな、それでいて品のある目鼻立ちが浮かんでいる。

左手の先に扇子を持ち、じっと床に垂らしている。

「と言って、今は連中にも取れる動きは何らありますまい」

柴田権六郎勝家(しばたごんろくろうかついえ)が受ける。

権六郎は織田家先代の時代から、歳若い弾正忠に仕える家老であった。

彼自身がまだ若くして高い地位にある、実力者である。

「三郎様を連れ戻そうにも、動けば直ぐにもこちらに知れます故」

上座の弾正忠と彼に向かって斜め前の下座に平伏する権六郎。

今この場にいるのは二人だけだ。

小姓も居室の外に控えさせてある。

家臣団の概ねは今や弾正忠になびいているが、その中でも心から信頼できるのは、権六郎を置いて他にない。

弾正忠はことあるごとに権六郎を居室に招いていた。 

 

もともと清洲城は、かつて尾張国守護大名であった斯波(しば)氏の居城である。

代々の斯波氏当主は清洲城内の居館を守護所とし、政務を行った。

守護所であったこの城に住むということは、すなわち「自分が尾張国の支配者である」という意思表示であり、同時に世間にもそのように追認させるだけの実力が伴っている。

斯波氏は台頭する家臣たちに勢力を削がれ、清洲城を追い出されている。

とうに尾張支配者の地位を失っていた。

尾張国内に数ある織田家の中、今や織田弾正忠家が尾張を統一して支配者として君臨している。

尾張統一は、当代の弾正忠信勝の実力によるところが大きかった。

弾正忠家の先代の当主である弾正忠信秀(だんじょうのじょうのぶひで)は、尾張国内での覇権争いの最中に没した。

信秀の嫡子である兄・三郎信長(さぶろうのぶなが)と弟・勘十郎信勝(かんじゅうろうのぶかつ)の兄弟、いずれに家督を継がせるか。

信秀は今際の際に弟の勘十郎信勝を指名し、逝った。

例外はあれど、武家家督は嫡男が継ぐことが通例である。

戦国の常なら家中を二つに割っての家督争いが予想されるところであった。

しかし織田家の場合、勘十郎の家督相続は円滑に行われた。

かねてより奇行が目立ち巷で「うつけ」と称された兄、三郎信長は先代弾正忠の葬礼の場で粗相を行った。

喪主としてつつがなく葬礼を済ませた弟、勘十郎に、人望が集まるのは自然な成り行きだった。

先代を見送ってわずかの後に、勘十郎は代々の「弾正忠」の官命を自称し始めている。

勘十郎への兄からの抗議に同調する家臣は数少なく、自然に黙殺された。

その後、勘十郎は先代の悲願であった尾張統一を、実力で成し遂げている。

勘十郎の家督相続は家臣団にも領民にも名実共に認められた。

孤立した兄、三郎は弾正忠の暗殺を謀るがこれに失敗、尾張を出奔した。

「孤立させて追い出したはいいが、あの愚兄もあれでうつけではない」

弾正忠は、矛盾した所見を述べた。

「中央に上って妙な工作をされては困る」

「京奉行には三郎様の入京を阻止するように申し伝えておりますが」

尾張国内には弾正忠家以外にも織田を名乗る同族の家柄が多くある。

尾張統一の過程で弾正忠はそれらの同族たちを傘下に置いている。

しかしそれらの家々を完全に臣従させたとは言い難く、三郎と連絡を取られて挙兵の口実にされてもおかしくはなかった。

この点を早くから憂慮していた弾正忠は、家督を継いだ早々から、三郎と尾張国内の諸家との連絡を遮断するように常に目を光らせてきている。

その点では抜かりない。

だが現在の三郎は尾張国外にいる以上、その遍歴そのものを妨害することは難しかった。

中央に上られたり、近隣国の大名と結託されると面倒なことになる。

「どこぞの辺境でおかしな地侍に担がれはしないか」

出奔した三郎と那古野の土豪の娘とが手と手を取り合い、弾正忠配下の侍を殺害して伊勢に向かったことは、すでに織田家中に知れている。

権六郎は伊勢に向けて、すでに複数の刺客を放っていた。

「伊勢の情勢は混乱しておりますからな」

権六郎は言い訳をした。

三郎信長捕縛の報告も殺害の報告も、まだ届いてはいない。

「であるか」

弾正忠は追及を避けた。

「いえ、三郎様の足取りはおおむね分かってはおりますが」

弾正忠がわかりのいい態度を取ると、権六郎は慌てて弁明をする。

いつも通りのことであった。

「どこに向かっておるか」

「南であります」

伊勢の南と言えば、大大名、北畠家が君臨する土地。

弾正忠は、眉間に皺を寄せた。

「面倒な輩がいるところであるな」

「ご心配召されますな。先ほど申した通り、伊勢の情勢は混乱しております。この混乱に乗じて…」

権六郎は語尾を濁した。

「愚兄はともかく、同行の娘は生かしておきたい」

弾正忠は小声で言った。

左手の扇子を小さく広げて、口元を隠している。

弾正忠には、相手に希望を述べる際に、そうする癖があった。

そんな癖を知っているのは、彼が気を許している家臣、権六郎だけだ。

「噂では町衆から『猿姫』などと呼ばれる野卑な者だということですが」

「しかしあの愚兄を籠絡したのであろう。只者ではあるまいぞ」

口元を隠し、視線を座した己の膝先に落としている。

その表情から意図が読めない。

「御館様は、三郎様のことを意外と買っておられますな」

権六郎は、弾正忠のうつむいた顔を見据えて言った。

「我らは似た者兄弟である故な」

「御戯れを」

有能な弟とうつけの兄と、その性質に似た点はひとつも無い。

同じ両親から生まれた弾正忠と三郎だが、巷間にはその事実をすら疑う者が多い。

しかし弾正忠自身は、実兄を蔑みながらも何らかの点で評価しているきらいがあった。

「その『猿姫』とやらの縁者は押さえてあるのだな?」

彼は権六郎に視線を戻した。

「娘の父母と兄弟姉妹は皆、那古野城の地下牢に閉じ込めてあります」

「私が直々に吟味しよう」

「御館様」

常ならぬ意欲を弾正忠は露わにしている。

平伏した権六郎は戸惑いを隠せず、弾正忠を見上げていた。

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