『瞬殺猿姫(52) 猿姫の縁者。吟味にあたる織田弾正忠信勝』
織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)は、那古野城の地下牢に来ている。
いくつかに区切られた房のそれぞれに、罪人が押し込められている。
尾張一国を統一して後、弾正忠は領内の治安回復に努めていた。
それで、収監される罪人の数は日増しに増えている。
常に地下牢の房は罪人で満ちて、空きが無い。
ひとつの房の中に、赤の他人の罪人同士を複数入れることを余儀なくされている。
だが中には、家族ぐるみで押し込められている者たちもいた。
「猿姫の縁者」家族である。
「もう半年にもなるとな」
房の中を覗きこみながら、弾正忠は気の毒そうに言った。
家族は、それぞれ莚の上に力なく座り込んでいる。
壁際にもたれかかっている、年輩の男。
着衣は擦り切れて、汚い。
やせ細り、頬がこけている。
精気の無い目で、無表情に弾正忠を見返している。
居住まいを正すことはなかった。
「亭主の名は竹阿弥(ちくあみ)、御先代の頃にお側に仕えておった者です」
弾正忠の隣に立ち、房内を燭台で照らしながら説明しているのは、那古野城の城主である織田孫三郎信光(おだまごさぶろうのぶみつ)である。
孫三郎信光は、弾正忠の父である先代弾正忠信秀(のぶひで)の実弟で、弾正忠にとっては叔父にあたる。
「竹阿弥。しかし、知らぬ顔だが」
「病を得て暇を出されたと聞いております。御館様の御元服前のことでしょう」
「城仕えをしていたにしては、姿勢がよくない。その病のせいか」
「さようでしょうな」
孫三郎は若い甥の質問とも皮肉ともとれる言葉を受け流した。
竹阿弥は心身ともに衰弱しきって、尾張の支配者を迎えても作法を改めることすらできないのだ。
死相さえ浮かんでいる。
責めるのは酷であろう。
弾正忠はしかめ面でうなずきながら、竹阿弥から視線を他の者に移した。
「竹阿弥は正気を失っておりますので、無礼はお許しを」
竹阿弥の隣にいる女房は莚の上に平伏している。
「表を上げよ」
弾正忠は好奇心から声をかけた。
女房はおそるおそる、顔を少しだけ上げた。
弾正忠の顔を見上げる。
痩せて汚れた顔に、目鼻が乗っている。
中年の主婦であった。
やはり疲れきった表情である。
半年も牢での生活を強いられていては無理もない。
「お主が猿姫とやらの母御か」
「左様でございます」
猿姫の母はもつれる舌で言った。
「女房の名は、なか、という名だそうです」
横から孫三郎が補足する。
弾正忠はうなずいた。
「母御の名は、なか。して、なかよ」
「は」
「猿姫は父御と母御、どちらに似ておるか」
「は…」
唐突な質問に、猿姫の母は面食らった。
「どちらと言って似ては…」
「あの娘は死んだ弥右衛門(やえもん)の子です。少なくとも私にはひとつも似ておりません」
女房の言葉を遮って、壁際の竹阿弥がしわがれ声を発した。
酷薄な言い方であった。
弾正忠は孫三郎の方を見た。
「猿姫は、なかの前の亭主の子です。弥右衛門と言って、当家の足軽だった男です」
「討ち死にか」
「戦場で膝に矢を受けて、御役御免になったのですな。その後何年か経って病で逝ったものと女房は申しております」
「であるか」
弾正忠は気も無さそうに相槌を打った。
ただ猿姫の容貌を、両親の顔から連想したかっただけなのだ。
弾正忠は視線を移した。
女房の横で同じく平伏する少年と、その横には幼い少女。
「猿姫の、父親違いの弟と妹です」
「であるな」
弾正忠はうなずいた。
「両名、表を上げよ」
兄と妹に声をかけた。
二人は顔を上げる。
「む」
弾正忠は声を漏らした。
見上げる二人から、敵意のある視線を向けられている。
痩せた兄妹の鋭い目に射られて、弾正忠は同じく厳しい視線を相手に返した。
「両人共、何か言いたそうな目であるな」
少年の方に語りかけた。
少年の口元が歪む。
だが発言をためらっていた。
「童。名を申せ」
「小一郎(こいちろう)です」
弾正忠の目を見据えたまま、はっきりと言った。
「小一郎。私は織田弾正忠である」
「知っています」
「私の素性を知りながら、その方のその目つきは何か。無礼とは思わぬか」
弾正忠は正論を言った。
しかし、小一郎は態度を改めない。
「そうでしょうか」
「何、無礼ではないと申すか」
「殿様が私たちになさった仕打ちをお考えください」
「どういうことであろう」
「私たち一家は言われ無きことで半年もここに閉じ込められております」
「言われ無きことでもあるまい。猿姫はお主らの係累であろう」
「そうです」
「猿姫がこの弾正忠の配下の者たちを殺めたのだ。当人が逃げれば、係累であるお主らが責を負うのは当然であろう」
小一郎は納得しない顔でいる。
「確かに、姉…猿姫が三郎様をそそのかしたうえ、お侍を殺したと言われて私たちはここに閉じ込められました。ですが、もとより話がおかしくはありませんか」
「なぜそのように考える」
弾正忠は口元にわずかに笑みを浮かべて先をうながす。
小一郎の理屈っぽい語り口が、満更不愉快でもないらしい。
「姉がお侍を殺す理由がありません。理由があったのは三郎様の方でしょう」
「そういうことか」
「猿姫が三郎様の代わりにお侍を殺して、何の得があります。むしろ三郎様が姉を脅して無理にお侍たちを殺させたのではありませんか」
「筋は通っておるな」
弾正忠はうなずいた。
「そのはずです。本来三郎様が責を負うべきことを、身分の低い姉に押しつけて縁者の私たちを半年も閉じ込めている。これは殿様の御政道として、無体ではありませんか」
小一郎は言い切った。
母親のなかは、畏れ多くて言葉を失っている。
ただただ額を莚の上に付けて、平伏した。
壁際の竹阿弥は、聞いてか聞かずか、壁にもたれかかったままぼんやりとしている。
小一郎の幼い妹は、弾正忠を無言でにらんでいる。
「であるか。しかし仮にそうとして、小一郎。猿姫が当家の侍たちを殺めたのは事実だ。これは言い逃れできまい」
「農家の小娘ごときに倒されてしまったのはお侍の側の瑕疵でありましょう。お武家のたしなみとしての武芸に怠りがあったのでは」
弾正忠は口をつぐんだ。
織田家は兵の強さでは近隣の大名家に引けを取っている。
家中の武士たちを見ても、武芸に秀でた者は少ない。
痛いところを突かれた形である。
弾正忠の隣で、孫三郎は話の流れに呆れた顔だ。
「御館様。この成り行き、どうするのです」
「猿姫捕縛の手がかりを得ようとしてここに来たのだ。収穫はあった」
小一郎にやり込められたばかりなのに、口元がほころんでいる。
再び小一郎の方に視線を向けた。
「小一郎の言い分はわかった」
「では、私たちを出してもらえるのですか」
「それはお主次第である」
房内の雰囲気がふいに軽くなった。
小一郎の顔に、期待の色が浮かぶ。
「私次第ですか」
「そうだ。小一郎、私はお主が気に入った」
「これは」
少年は、何と言葉を返していいかわからないらしい。
戸惑いの表情でいる。
「…ありがとうございます」
「お主のように弁舌巧みな者が城下におるとは。稀有なことである」
「ありがとうございます」
「おそらくは城仕えをしていた父御の薫陶によるものであろう」
弾正忠が自分に言及しても、竹阿弥は壁によりかかったままで反応しない。
代わってなかと小一郎が平伏をする。
「…ついては小一郎」
弾正忠が声の調子を強めた。
「お主だけを牢から出そう」
「どういうことでございましょう」
小一郎の表情は翳った。
「小一郎。その弁舌で、猿姫を連れ戻して参れ」
「えっ、そんな無体な」
「お主に期待するところがある。猿姫の身柄と交換に、父御も母御も妹も解放する」
「無体です」
小一郎はあえいだ。
流れに乗って殿様相手に出すぎたことを言ってしまった、とようやく気付いた顔だ。
手遅れであった。
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