言い訳の東京旅行四日目(3)。まさに異次元、大森貝塚遺跡庭園
鈴ヶ森刑場跡から西に1キロほど歩いたところに、有名な大森貝塚があるそうなんですね。
明治10年にアメリカ人のエドワード・モースが列車の中から貝塚付近を見て発見したとかしないとか。
日本史の教科書にモースと大森貝塚については載っていますね。
私も日本史好きを自称しておりますので、そんな重要地点を見逃す手はないのです。
興奮してきました。
この通りをずっと行けばいいそうですな。
品川区立大森貝塚遺跡庭園。
着いたようですな。
敷地内に入る早々、正面の傾斜の先に怪しげな建造物を見ました。
縄文人の心象世界を具現化したような建造物に囲まれた、広場ですな。
誰もいない。
朝方ですが、この雰囲気は少し恐ろしいです。
建造物は「地層の回廊」というもので、上に登れるそうです。
異次元の果てで、文明人に会えたような気持ちでした。
モース博士像ですね。
ここ大森貝塚で土器類も発見したモース博士は、縄の模様のついた土器を「Cord-marked(縄文)」土器と命名したのです。
つまりは、縄文土器、そして縄文時代という概念をつくった嚆矢がモース博士だった、というわけです。
モース博士の大森貝塚発見以降、日本における考古学の縄文時代研究が始まるわけです。
ところでモース博士自身は、考古学者ではなく動物学者であったということです。
登れたので、地層の回廊の上に登ってみました。
上から見下ろすこの広場の怪しさ。
しばらくは追及せずにおきましょう。
建造物の裏側にまわって、大森貝塚発見地を見ます。
敷地の東側に接して東海道本線の線路が通っています。
貝塚、これでしょう。
内部に、なんと発掘された貝殻がそのまま保存、展示されているのです。
しかも「そっとさわってみてください。」等と書かれてある。
おそれおおくてさわることはできませんでした。
自分が触ったとたんにぽろっと取れたりしたらどうしよう、と危惧したのでした。
これは日本史を習ったばかりの生徒さんに体感してもらいたい場所ですね。
庭園の敷地の端に、立派な石碑が立っています。
昭和4年の銘が入っていますから、明治10年の大森貝塚発見からかなり年月を下って建てられたものですね。
発起人と賛成人として肩書き付きで当時の各分野の学者、貴族の方の名前が挙げてあります。
私の知らない名前ばかりの中で、「医学博士 小金井良精」の名前を見つけました。
彼は文学者の森鴎外(もりおうがい)の妹婿であり、作家の星新一の母方の祖父にあたります。
後に解剖学者、人類学者になる若い頃の小金井良精に、大森貝塚と縄文文化の発見が大きな影響を与えたであろうことが想像できますね。
ちょうど141周年記念の年に訪れましたよ。
141年って何かの節目なんだかよくわからない数字ですね。
モース博士は、横浜駅から東京駅に向かう汽車の中から崖の中に貝の積み重なりを見つけたといいます。
当時の汽車がどれぐらいの走行速度だったのか知りませんが、モース博士も目ざといですね。
日本に初めて来て、車窓からの風景をよく観察していたのでしょうね。
波を模したモニュメントが敷地の際にいくつか配置してあります。
縄文時代後期にはJR線路に面したこの崖のあたりが海岸線だったそうです。
この大森貝塚から東はずっと太平洋で、そういう海側に突出した場所だから当時の縄文人がここで貝を採ったり縄文土器を使ったりして暮らしていたわけなんですね。
つまり、品川区民の遠いご先祖がこの辺りを生活の場にしていたわけです。
いったん上の縄文の広場に戻りましょう。
始まってました。
霧がね。
噴出する仕掛けだったんですね。
この縄文の広場。
実はこの仕掛けについては庭園内の案内版に説明がありまして、ぶらぶらと敷地内を散策しながら、噴出する時間を待っていたのです。
30分ごとに霧が噴出する仕掛けだそうです。
シューシュー言いながら霧を噴出する仕掛けに、私は興奮しました。
途中で走ってまた地層の回廊の上に登ったり。
霧を上から見たかったんですね。
霧を見つめるボース先生。
そろそろ霧の出も下火になってきました。
ずっと見ていても飽きませんでしたが、お暇どきのようです。
平成の終わりと縄文時代とが繋がったひと時でした。
まさに異次元、大森貝塚遺跡庭園。
皆様もぜひ一度いらしてください。
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