『瞬殺猿姫(53) 牢を出た猿姫の弟、小一郎』

父母と幼い妹を、那古野城内の土牢に残してきている。

小一郎(こいちろう)の足取りは重い。

尾張の支配者、織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)の計らいで、旅装束といくばくかの路銀、大小の刀を与えられている。

それでもなお、心もとない。

 

「お主の姉一向は、伊勢路を南に向かっている」

弾正忠の家老、柴田権六郎勝家(しばたごんろくろうかついえ)の屋敷で、配下の小者に身支度の世話を受けながら、小一郎は権六郎の言葉を聞いた。

「わかっているのはそれだけだ」

「わかっているのがそれだけで、私にどうせよと」

自然に言い返していた。

小一郎は、生家から家族共々引き出されて那古野城の土牢に収監されるまで、生まれ故郷の村から出たことすらない。 

「姉を探すどころか、旅すらできる気もしません」

 「お主が姉を探せなければ、家族が土牢で一生を終えるまでだ」

小一郎は眉間に皺を寄せた。

遠江国の奉公先から半年前に出戻った姉は、弾正忠の配下を殺して国外に逃げた。

今その姉のために、一家が皆殺しの瀬戸際に立たされている。

しかし悪いのは姉ではなく、弾正忠だと小一郎にはわかっている。

巷では名君のように持ち上げられ始めているが、彼も民のことを消耗品ぐらいにしか思っていない。

柴田権六郎の口ぶりを聞けば、それはわかる。

「人質を取られてさえいなければ、軟弱な武家など」

呪いの言葉が口から漏れた。

彼に旅装束を着せている小者が、思わず小一郎の顔を見た。

権六郎も、小一郎を見ている。

「お主は度胸がある子供だ」

素直に言った。

小一郎は相手をにらみつけた。

権六郎は、鷹揚な態度のままでいる。

「猿姫という娘は並の者ではないと聞く。お主にも姉と同じ才覚があれば、あるいはな」

母親が前夫との間に生んだ姉のことを、小一郎はよく知らない。

彼が物心つかないうちに、姉の猿姫は遠江国の武士の家に奉公に出された。

ただ母親の言葉によれば、父親は違っても彼と姉とは気質が似ていると言う。

偏屈者だと。

「無礼は許す。お主のその偏屈ぶりを買おう」

権六郎は、小一郎の顔色をうかがいながら、言葉をかけた。

 

「あの武家め…」

憎々しげに独り言を洩らしながら、小一郎は街道を歩いている。

伊勢に行けと言われても、どうしていいものかわからない。

菅笠を被り、腰に大小の刀を佩き、背中に身の回りのものを詰めた袋を背負っている。

決して多くはない路銀。

あてにしているのは、弾正忠から与った通行手形である。

尾張の支配者として近隣で名を上げている弾正忠の名入りの手形なのだが、実際どれほど役に立つものか。

通用するのは、せいぜい尾張と隣国の国境までではないか。

伊勢に入ってからが苦労するはずだ。

何しろ、姉がどこに向かったのかすら小一郎にはわからない。

「我のような子供相手に無体を申しつけて、あいつめ」

柴田権六郎の取り澄ました顔を思い出し、幼い小一郎は毒づいた。

姉の足跡をたどる他、思いつく道筋はない。

木曽川の船着場から、姉と織田三郎は川舟で海に出たという。

まさか自分も川船で海に出るわけにはいかないが、その船着場に行けば、姉の行き先について人から聞けるかもしれない。

小一郎は木曽川に向かった。

 

小柄な小一郎は、狭い歩幅で細かく歩いていく。

往来には小一郎と似た風体の旅人が行き来している。

小一郎のはるか後方を、二人連れの旅人が歩いていた。

武家の子女らしい、背の高い若い女

笠をかぶり、長い杖をついている。

彼女のすぐ後方からついて歩くのは、これも旅装束の若い武士だ。

女の荷物も受け持っているらしく、背中に大きな行李を背負っていた。

「一子姉」

武士が女に小声で話しかける。

「しっ、声を出すな」

女は振り返って武士の頭を笠の上から手で叩いた。

通りがかった他の旅人が驚いて二人を見ながら通り過ぎる。

「声を出したからと、何も人の頭を叩くことはないやろ」

「あの子供に聞こえたらどうする」

忍びの女、滝川一子(たきがわかずこ)とその同胞、滝川慶次郎(たきがわけいじろう)の二人だった。

「こんな遠くを歩いていて聞こえるわけがない」

「そんなことわかるか。何しろあの子はあの猿姫の身内だ…」

言いかけて、一子は片手で口を覆った。

「いけない」

「どうした」

「余計なことを喋るな、あいつらは油断も隙もないから、聞かれても不思議はない」

「あいつらとは」

「柴田権六郎の手の者や」

「だいぶ後ろの方を歩いとるようやが」

「お前、喋るなて」

一子は慶次郎を叱りつけた。

「なんやさっきから、自分ばっかり喋るくせに」

慶次郎は口を尖らせている。 

 

一子と慶次郎のさらに後方から、二人の武士が歩いている。

「あの前を歩いている男女の二人、小僧を追っているように見えるな…」

武士の一人がつぶやいた。

「まさか」

「どこの連中だろう」

彼らの位置からは、前を歩く滝川の男女二人の背中が遠くに小さく見え、さらにそのはるか前を歩く小一郎の姿は豆粒ほどにしか見えない。

「男と女の組み合わせ。まさかとは思うが」

二人は息を飲んだ。

「三郎様と猿姫か」

「まさか。二人は伊勢にいると聞いたぞ」

「密かに伊勢を抜け出して、尾張に舞い戻っていたのでは」

「ありえないことではないが、あの二人の背格好ではあるまい。男はともかく、女の方は猿姫にしては丈があり過ぎる」

「確かに」

猿姫は小猿のように小柄な女だと聞いている。

二人の男女の先を歩く小一郎に、容貌も似ているに違いない。

「では、どこの連中だろう」

「襲って吐かせよう」

「それが早い」

柴田権六郎配下の二人は、うなずき合った。

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