2019年夏東京八王子旅行一日目(3)。北条氏照墓所。小田原北条家への憧憬。ごく個人的な

八王子城跡交差点まで歩いてきました。

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この交差点を北に行くと東京霊園、八王子霊園といった霊園の最中に入っていきます。

そのためか、石材店、仏花店等が多いです。

北には行かず、西側に行く左手の道を参りましょう。

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こちらですね。

なだらかな傾斜になっています。

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個人のお宅もまばらにありますね。

それにしてものどかな地区で、ここも東京都内だということを忘れてしまいそうです。

私の地元、南大阪の山側にもありそうな風景でした。

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まだお城跡の麓にも至っていないつもりだったのですが、もう八王子城跡の史跡内に入っていたようです。

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お野菜の無人販売所もあります。

南大阪でも時折、見られる風景です。

親近感が湧きました。

まだ旅の初日、野菜を買うことはできませんでした。

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八王子城跡に向かう道から脇道が出ています。

八王子城の城主だった、北条氏照(ほうじょううじてる)の墓所があるそうです。

お参りします。

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早朝でひと気がなく、小雨が降って肌寒くもあり、緑の中に入ると背筋が寒くなったようです。

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階段を登った先の高台の上ですね。

この山中、猪も出没するそうです。

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天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際、八王子城主であった北条氏照は、相模国小田原城にあって籠城戦に加わっていました。

八王子城の方は、城主氏照の留守を、家臣の横地監物、中山勘解由、狩野一庵らが守っています。

この横地監物と中山勘解由とは、先に見た廿里古戦場で永禄12年(1569年)、武田家侵攻軍の別働隊だった小山田信茂(おやまだのぶしげ)を迎え撃った武将たちでもあります。

武田家の小田原攻めから約20年後の、今回は天下人豊臣秀吉による小田原攻め。

八王子城には前田利家(まえだとしいえ)と上杉景勝(うえすぎかげかつ)の軍勢が攻めかかり、落城してしまいます。

中山勘解由は討死。

城内の御殿にいた氏照の正室を始め女性たちも滝に身を投げて亡くなります。

そして小田原城にいた氏照は小田原城の開場後、兄で北条家の先代当主だった北条氏政(ほうじょううじまさ)と共に、豊臣氏の手で自害を強いられます。

 

今私がいる氏照の墓所は、実際には供養塔で、中山勘解由の孫にあたる水戸藩家老の中山信治が、氏照没後100年の供養として建立したもの。

そういう現地案内版の、東京都教育委員会による説明でした。

確かに私も、何年も前に小田原を旅行した際に現地で氏照の墓所にお参りした記憶があります。

氏照供養塔の左には中山勘解由の墓石、そして右側には供養塔建立に当たった中山信治自身の墓石も立っています。

また氏照供養塔の後方は窪地になっており、供養塔から見渡せるその場所に無数の氏照家臣たちの墓石が立っています。

小田原城を守った氏照と、八王子城を守った無数の家臣たち。

父祖とその主を手厚く供養した、中山信治。

彼らの霊を思って、手を合わせました。

 

私は小田原北条家のファンでもあるので、自然と豊臣秀吉が憎たらしく思えてしまいます。

箱根にある北条早雲(ほうじょうそううん)以来の北条家菩提寺である早雲寺も、小田原攻めの際に秀吉が本陣を置き、その後焼き払ったために初代早雲、二代目氏綱らの墓所の正確な場所がわからなくなってしまったとか…。

何を余計なことしてくれてんだ!

そういう気持ちです。

しかしその後には豊臣家も、元は北条家の同盟者であった徳川家の手によって滅亡させられたわけで…。

怒りのやり場に困る思いでおります。

ちなみに、小田原城開城後、先述の通り先代当主の氏政とその弟の氏照は主戦派として責任を問われ、切腹

若き当主北条氏直(ほうじょううじなお)は紀州高野山に送られて謹慎生活を送りましたが、翌年、病死します。

北条家の家督は氏照の兄弟の氏規(うじのり)が継ぐことを許されました。

氏規の嫡男の氏盛(うじもり)の時代に各地の所領を統合し、河内国において狭山藩を立藩します。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも、きちんと東軍に属して豊臣方と戦っています。

以降、小大名ながら狭山藩北条家として幕末まで存続しました。

小田原北条家に私が親しみを覚えるのは彼らの末裔が、やはり南大阪の、地元のお殿様だったからでもあるわけです。

そして身近なお殿様のご先祖が、その昔は広大な関東の地を支配する大大名であり戦国乱世の英傑だったと、いうことなんですね。

私の好きな東京都内の街々にも彼らの痕跡が多く残っていますし、小田原北条家には親しみと憧れを共に抱いています。

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