2019年夏東京八王子旅行一日目(9)。ここも聖地、調布。布多天神社。調布は調布の発祥地
聖地探訪はやはり、胸が躍ります。
私は調子付きました。
京王線で都心方面に向かえば、沿線には聖地がいくつもあるではないか、と気付いたわけです。
広々とした駅前広場に降りて参りました。
人生初の調布!
調布と言えば故・水木しげる先生が在住していたことで著名かと思うのですね。
先生の妖怪漫画の舞台はおそらく調布市内とその郊外の山林…と想像します。
例によって下調べも何もしていませんが、何とかなるでしょう。
調布駅は駅ビルも大きいし、出入りする人の数もかなり多いです。
広場に観光案内所「ぬくもりステーション」が設けてあります。
ここで水木しげる関連の観光マップをいただきました。
生前の水木先生がよく通っていた商店街「天神通り」は調布駅の北にあるということなので、いったん駅北に迂回します。
駅北側すぐのところにある飲み屋街、「調布百店街」でした。
お盆の時期で、綺麗に飾られていていい感じでした。
妖怪の街を散策するにはちょうどいい時期に来れましたね。
調布百店街を抜けた先で、東に歩きます。
天神通りまで。
メガネスーパーの店舗先に鬼太郎の乗ったモニュメントが立っていました。
ここから天神通り商店街に入ります。
布多天神社への参道が、天神通り商店街になっているのですね。
隣接する土地に水木しげるの水木プロダクションがあり、先生も日頃この天神通り通っていたようで。
水木しげるの地元として観光地化されているのですね。
西は鳥取県の境港の鬼太郎ロードと対を成す、東の調布の天神通り。
鬼太郎お肌が美白ですね。
ベンチの上で寝そべるねずみ男。
今はこういう横になれるベンチもあまり見かけなくなりました。
ねこ娘と一反もめん。
ねこ娘は猫じみた顔立ちでした。
商店街を抜けて、参道は落ち着いた界隈に入りました。
この近くには水木プロダクションもあって、私はその所在地らしい建物も見つけたのですけれど、どうも水木プロは所在地を公表していないらしいのです。
それなので私も建物の外観をここに載せるのは控えようと思います。
何にしても「水木御大の暮らした聖地」としての調布の息吹は感じられました。
布多天神社に向かいます。
布多天神社に来ました。
土地の伝承では、現地の長者がこの布多天神社で布を織る技術のお告げを受け、木綿を完成させて朝廷に献上、これが日本初の「調布」であり調布の地名の由来になったと。
そういう話が伝わっているそうです。
「調布」というのは、奈良時代から平安時代にかけて、朝廷に税として納められていた布のことです。
東京都内には他にも田園調布など調布と付く地名が複数ありますが、調布市がその調布の本家本元、発祥の地というわけですね。
関西にも古来の織物に関する伝承が多く、多くは渡来人との関わりから語られます。
古代の武蔵野国の豪族たちも、高句麗など朝鮮半島との交易を盛んにしていたようなので…その辺りの関連を私は推測しました。
布多天神社にお参りします。
茅の輪ごしの七夕短冊でした。
実は茅の輪、ここで私、生まれて初めて見ました。
面白いものですね。
茅の輪も夏の神事なんですよね。
無病息災を祈って、くぐりました。
本殿にもお参りです。
調布の布にあやかって、どうか私のファッションセンスが洗練されますように。
またユニクロに買い物に行きます。
実物は見られなかったのですが、布多天神社は市指定文化財として「太閤の制札」を保有しています。
これは豊臣秀吉が小田原北条攻めの際に、この布多天神社界隈の人心を安堵させる目的で「我らの軍勢は乱暴をしない」という意図を表明した制札でした。
小田原北条びいきで秀吉嫌いの私は複雑な気持ちになりましたが、この制札の文面によって、近世に「布田」と呼ばれた当地がそれ以前の安土桃山時代には「補陀」と表記されていたことがわかるんだそうです。
仏教用語で観音菩薩のいる聖地を「補陀落」というので、補陀の表記もその関連かと思います。
近世に入ってなぜそれを布田と改めたか、というのも気になりますね。
補陀が先なのか、それとも、もともとが布田だったのか。
「調布」の由来の伝承もふまえて、想像の余地があります。
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