『転生したら堕天使だった、私にはお似合い(中編)』

白美(しろみ)は、女性の語りを聞き終えた。

ところどころ事情の理解の難しい点はあったが、要約すれば、女性は自分が許せなくなった。

そういうことだ。

失敗を重ねたり、人を傷つけたりして、自分が嫌になった。

それだけなのだ。

莫大な借金を抱えているとか、不治の病に侵されているとか、そうした深刻なものを白美は想定していた。

ところが他人から見て、女性の生い立ちには、自殺しても無理はないと思える程の大きな要因が見当たらないのだった。

いえ、本人からすれば深刻な問題だろうから、それだけ呼ばわりは……と白美は妥当な言葉を探る。

やはりピンとこないのだった。

堕天使としては、莫大な借金、不治の病を持つ人を救うのも当然難しい。

しかし、とらえどころのない悩みを救うのも、また難しい。

堕天使に転生して、いきなり難関にあたってしまったと白美は思った。

そんなの大したことない悩みですよ、とは言えないし、そのうち慣れます、とも言えない。

当人はこれまでの人生をずっと悩んできたらしいからだ。

 

 

白美相手にひとしきり語って落ち着いた女性は、アイスコーヒーを口に運んでいる。

彼女を見つめながら、白美は頭を悩ませた。

『白美よ、堕天使の原則は何か』

頭の中に、光明が灯った。

例の声の人だ。

助かった、と白美は思った。

「人の悩みを聞くことでしょうか」

『違うだろう。人間を葛藤から救い、欲望のままに振舞わせ、堕落に向かわせるのだ』

「堕落に向かわせるって、地獄に落とすことですよね?私、そんなことしたくないんですが……」

うむ、と悩ましげな唸り声が聞こえた。

『やむを得ぬ。では堕落なり地獄なりについてはいったん忘れよ。人間は個々の欲望がままならぬので葛藤する。その欲望がままなれば、葛藤はいらぬ。救われる』

白美を説得するために、声の人は苦労して言い換えたらしかった。

「でも、この人の欲望って、自殺することですよね……。自殺して、地獄に行きたいみたい。そんなの放っておけません」

現に白美は、女性の自殺を妨害してきたばかりだ。

『まだ道があるかもしれぬ。人は欲望が成就できぬと葛藤する。葛藤に耐えられず自死に向かう。その女にとって自死そのものが求めるものではあるまい。本人が気付かぬ望みがあるはずだ』

「そういうことですか」

着地点を探り出せて、白美も声の人もお互い納得できた感があった。

白美は女性に意識を向け直した。

彼女の視線に気付いて、女性は視線を合わせた。

「あの、ひとつ聞いていいですか」

「何か」

「仮にですよ、何でも願いがかなう、としたら何が欲しいですか」

女性が息を呑む気配があった。

「考えたこともなかった」

思案を巡らせている。

「何だろう……何が欲しいのかはっきりしない」

「たぶん大金持ちになるとか、素敵な男の人と結ばれるとか、そういう話なんですけど……」

自分で言いながら、白美は恥ずかしくなった。

しかし女性は首を振る。

「私、大金持ちになっても、いい相手が見つかっても、自分で全部ぶち壊しにする自信があるの。だから何もいらない」

白美は泣きたくなった。

こんな人に欲望なんてものがあるのだろうか。

「そうなんですか。きっと無欲ってことですね。それも素敵だと思います」

苦し紛れに、白美は半泣きになりながらそう声をかけた。

女性は白美をじっと見ている。

「堕天使さん」

「え、なんですか」

「あなた、私のことを助けようとしてない?」

「別に、そういうわけでは」

親切の押し売りだと受け取られたかもしれない。

慌てて否定した。

「私は堕天使なので、人のやりたいことを探して、後押しするのが仕事なんです」

オブラートに包んだ言い回しで、出来る限り率直に白美は教えた。

「助けるというか、人が好き放題できるように仕向ける役割って言うか……」

できれば嘘はつきたくない性分だ。

「そうなんだ」

女性は静かにうなずいた。

そして白美をじっと見ている。

「あなたを見ていて、不思議と、自分のしたいことがわかってきた」

「え、本当ですか」

「うん。私、あなたみたいになりたい」

「え……」

白美は言葉に詰まった。

「それは、あの、堕天使のことですか?」

「そうじゃなくて、人の後押しってなんか、いいと思った」

「あ、そういうことですか」

「うん。人を助けるのは無理だけど、後押しっていうのが、しっくり来たというか。そういうの私もやりたい、って瞬間的に思った」

女性は続けた。

「自分の悩みなんか他人に伝えても、同情どころか全く理解してもらえないし、客観的には何の深刻さもないかもしれないけど私にとっては大事なのにと思って、一人になってた。でもよく考えたら他の人たちも誰でも、私みたいな人生なのかも。後押しされるだけで前に進めるような人たち、近くにいるかも。だとしたら、私が後押しする役割を引き受けるって、いいんじゃないかって思えた。人に助けを乞うのは嫌でも、話を聞いてもらって、ほんの少しの後押しがして欲しい人、いると思うの」

白美はうなずいた。

「あなたの話を聞いて、自分が後押しする側にまわるって考えたら、ピンと来たの」

女性は、穏やかな笑みを浮かべている。

「よかったです」

白美は涙ぐんだ。

 

女性を家まで送って行った。

今の仕事とは別に、休日にカウンセリングのボランティアを始めてみるつもりだと、彼女は白美に語った。

別れ際に礼を言われ、白美は謙遜しきりで逃げてきた。

最初に自殺しようとしていた女性を、本当に助けられたのかどうかは定かではない。

落ち着いたように見えるのは一時的なもので、目を離したら、また彼女は自殺を図るかもしれない。

そんな懸念が無いではなかった。

『あの女はお前の介入で命を留め、自分の欲望を見つけた。それは確かだろう』

声の人が語った。

『堕天使の生業としては、そこまででいいのだ。次の獲物を狩ることに集中せよ』

「わかりました」

『ひとたび己の欲望を自覚した人間は、易々とは死を選ばんものだ』

白美は、声の人の気遣いが嬉しかった。

 

 

次の獲物を探さなければ、と白美は夜の街をさまよった。

おそるおそる繁華街に立ち寄った。

テレビ番組で何度か見たことのある、大都会の歓楽街だった。

こういうところは怖い、という気持ちがありながら、堕天使レーダーへの強い反応で引き寄せられて抗えない。

全身のうぶ毛がざわめいている。

しかし、変な感じだった。

この夜の歓楽街を行く人たちは、他の街とは雰囲気が違う。

感情も欲望もありのまま、自分を解放しに来ている。

堕天使としては理想的な環境なのかもしれないが、新たな獲物と言える、葛藤する人間が多い環境とは思えなかった。

しかし、白美の堕天使レーダーの反応は確かだ。

感情が漢字の形で流れ込んでくる。

拘束、監禁、殺害。

赤黒い血を塗りたくった野太い字体。

白美はぞっとした。

共生、不殺、互助。

ん、と首をひねった。

字体が打って変わって、青白い字で丁寧に書かれた毛筆になる。

苦悶、義理、躊躇。

黄色の、迷い癖のある字面が流れ込んできた。

なにこれ、誰が何をやってるの。

嫌な物を見たくない気持ちと、好奇心とがないまぜになって、白美を襲った。

感情は、歓楽街の入り組んだ路地の先から流れてくる。

白美は翼を広げて、そちらに飛んでみた。

四方を背の高いビルに囲まれた立地に、隠れるようにして小さめの雑居ビルが建っている。

細い路地を通ってたどりつくことができる場所だ。

周囲のビルよりもコンクリートの地肌が古びて見える。

奇妙な建物だと白美は思った。

このビルの一室から、先ほどと同じく矛盾した感情の群れが続けて流れこんでくる。

何を目にするかわからないが、堕天使の使命は捨てられない。

呼吸を整え、白美はビルの正面玄関前に降り立った。

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『転生したら堕天使だった、私にはお似合い(後編)』

雑居ビルの玄関は、両開きのガラス扉だった。

色の濃い分厚いガラス戸で、建物の内側はうっすらとしか見えない。

白美(しろみ)がおそるおそる中の様子をうかがっていると、脇から人の気配が近づいた。

「あんた、うちに何の用や」

見ると、大柄な男だ。

表面に光沢のある生地のスーツの上下で、つま先の長い革靴を履いている。

黒々とした髪を整髪料で固めていた。

目鼻、口がそれぞれのパーツが大きく、表情が豊かに見える。

疑わしい目で白美を見ている。

これは裏社会の人だ、と気付いて白美は背筋が寒くなった。

「私、堕天使です」

「堕天使ぃ?また妙なもんが来たな。何の用や」

聞き慣れない訛りに、白美は怯んだ。

問答を聞きつけて、大男と同じような服装の男たちが、ぞろぞろと集まってくる。

雑居ビルの周囲、ビル群に囲まれているが、その辺りの物陰に無数の男たちが潜んでいたらしい。

白美は怯えていた。

声の人の、堕天使は人間社会に溶け込める、という説明を信じるしかない。

「ここのビルの中に会いたい人がいるんで、お邪魔したくて……」

「そうかいや。ほたらまあ、部外者お断りやねんけど、そこはまあ」

白美の言葉に、大柄の男は言葉を濁しながら、あっさりガラス戸を開けた。

うまくいったらしい。

ガラス戸を開けて押さえている大男に一礼して、白美は内部に潜り込んだ。

「そうや、お姉さんに頼んどくけど、中で揉め事は勘弁してや」

横をすり抜けざま、大男が声をかけてくる。

「えっ、何ですか?」

「ちょっと前に、あんたよりも先に、天使たら言うもんが来とるんや」

「天使」

聞き覚えがあった。

声の人が言っていた。

天使は堕天使の天敵で、活動を妨害してくるのだと。

白美は先回りされたのだろうか。

「天使と堕天使が揃う言うたら、こらもう最終戦争やろ。うちのビルでは止めて欲しいなあ。もはや自分らの諸々だけで手一杯になっとるよってに……」

言われなくても、白美だって、揉め事はまっぴら御免だ。

 

 

耐用年数を過ぎた蛍光灯が、明滅を繰り返している。

薄暗い通路を、堕天使レーダーが拾う感情の流れを追って白美は進んだ。

通路脇に部屋の入口があり、そのうちのいくつかは、戸口の脇に屈強な男たちが立っている。

番人なのだろう。

この雑居ビルは、歓楽街における非合法組織の基地のようなものなのだと白美は推測した。

通路の付き当たりで、エレベーターホールに入る。

だがエレベーターを使うことは遠慮し、非常階段の案内がある扉を開けた。

階段スペースに入り、鉄製の階段を登って、上階へ。

感情の流れは四階から来ている。

依然として殺伐とした感情と、穏やかな感情のせめぎ合いが続いているようだった。

よほど混乱した状態にある人物に違いない。

四階の通路に出た。

この階は、警備に当たる構成員が多い。

彼らは歩いてくる白美を、胡散臭そうに見ている。

白美は、通路中ほどの部屋の前に立った。

「何か用かよ」

部屋を守る男がとがめた。

問答をすれば、堕天使の特性で、入れてもらえることはわかっている。

どうせなら一歩先んじて、中のことが詳しく知りたい。

「この中の人にいる人に会いたいんです」

「それは、まあ」

白美が見つめると、男は照れたように視線を逸らした。

感触は悪くない。

「どういう状況なんでしょう」

「え、中のことを聞くのかい。そいつは……」

男は困った様子だ。

「堕天使ってもあんた、堅気だし未成年じゃないのかい」

「わかりますか」

「わかるよ。俺の妹がちょうどあんたぐらいの年なんだよ」

男が白美を見る目に、うっすら親しみがこもった。

話が脱線しそうだ。

話を戻そう。

「そうなんですね。ところで、未成年だと中に入れないですか」

「いや、入れないというか、できれば入れたくないんだ。わかるかい、こういうところで密室を設定して、法律にも倫理ももとる事業を俺らは展開してるわけだ。俺らというのは、裏社会の構成員ということだな」

「ええ」

嫌な予感がした。

「ざっくり言うと、若い女の子には見せたくないことをしているわけ」

男はためらいがちに言った。

嫌だ、と白美は思った。

中の人物から流れて来る不安定な感情も、その状況に起因しているのかもしれない。

「さっきは天使の子が来て中に入ったが、俺の断りを聞いて却って喜々として入りやがったな」

白美の沈んだ顔を見て、男は声をかけた。

「天使が」

「堕天使つうか、あんたの方がむしろ天使みたいな雰囲気だな。そしてさっきの子の方が……」

男は首をひねっている。

白美は覚悟を決めた。

礼を言って、白美は室内に入らせてもらった。

扉が開き、中の光景を目にした瞬間、白美は入ってきたことを後悔した。

 

 

五メートル四方の、ことさら暗い部屋だった。

窓が木材か何かで塞がれているようだ。

頭上にある弱い裸電球の明かりだけが、室内を照らしている。

部屋の中央に、歯科医院で使われるような、リクライニングの椅子が据えられていた。

その上に男が寝かされている。

腰と、アームレストに置いた両腕、そして足首の部分が、黒いガムテープで椅子に縛り付けられている。

男の顔部分を見ると、アイマスクで目隠しをされて、さるぐつわを噛まされていた。

その封じられた口の下から顎にかけて、幾筋にも血が流れている。

男の椅子の周囲の壁には、コルクボードに多数の工具類が備え付けられている。

今現在も、椅子の左横に別の男が一人立って、何かの工具を椅子の男の右手に押し当てているところだった。

椅子の男が断続的な呻き声をあげる。

工具を押し当てられた彼の腕からは、とめどなく血があふれている。

そこは拷問の現場だった。

白美の喉から、悲鳴が漏れた。

拷問していた男が、こちらを振り返った。

堕天使レーダーへの感情の流入が止まった。

凄惨な現場で、白美は気付いた。

感情の流れは、この拷問を加えていた男が発していたようだ。

なぜ、この男が。

「あ、堕天使が来たの」

場違いな明るい声が、別の方向から聞こえた。

椅子から右側の奥、部屋の隅の暗がりに、姿勢を崩して座り込んでいる人物がいた。

ふわり、と軽い羽音が聞こえた気がして、その人物の周りから急速に白い光が溢れた。

その姿が暗い部屋の中で浮かび上がる。

天使だった。

柔らかな髪、透き通る滑らかな質感の肌。

上半身と下半身、胴で繋がった輝くような白い生地の衣服。

背中から、白い翼が左右に広がっている。

ふわり、と宙に浮きながら立ち上がった。

白く美しい四肢が伸びた。

天使の顔は、白美が見知った顔だった。

「白美。あんたがねえ。堕天使だったんだ」

友人の赤美(せきみ)だった。

「赤美ちゃん?何しているの?」

白美は驚きを隠せなかった。

白美を見て、赤美は笑い声をあげる。

「天使に転生したのさ。馬鹿みたいだろ。家に帰る途中に横断歩道で信号無視したら、ボンクラドライバーに轢かれちまってさ。気づいたらこう。でもウチの偉い人に言わせると、あたしこれで天使向きなんだってよ」

「あ、そうなんだ」

白美はいつもの調子で相槌を打った。

その彼女を見て、赤美は舌打ちする。

「『あ、そうなんだ』じゃないでしょ。あんた、まだいつもの白美のつもり?自分の立場わかってないんだね」

「えっ……」

「あたしら、最終戦争の現場に引き出されたんだろうが」

「ええっ……」

白美は戸惑った。

『その天使の言う通りだ』

声の人の声が頭に響いた。

その声は、いつになく沈んでいる。

「どういうことですか?」

『我が最大の敵、天界の主がその天使を遣わせたのだ。それ、今お前の目の前に立っている獲物の男、』

拷問されている男の方ではない。

拷問している男のことだろう。

『その男は葛藤の渦中にある。自らの拷問行為に直面して、己の在り方の危機を迎えている』

「それが『最終戦争』ですか?」

『男が欲望に素直になるか、己を抑制して役割に徹するか。その如何で、我ら堕天使と天界との勝敗が決する』

白美は、自分が重大な立場にいることが飲み込めてきた。

「それ、天使の赤美ちゃんと私とで、あの男の人を取り合いしろってことですか」

『物分かりが早いな。そういうことだ』

「そんな重荷には、耐えられません」

拷問を止めるか、拷問を続けるか。

それを、白美と赤美とで、それぞれ男を説得して自分の側に引き寄せるということだ。

とても勝てそうにない。

赤美とは幼い頃から友人だったが、これまでに何かで勝てたという記憶がない。

『白美よ』

声の人は、優しく語りかけてきた。

「はい」

『重荷のことは忘れよ。お前なら、拷問に加担する者を前にして、どうする?』

「どうしましょう……」

『男の言葉を聞くのだ』

声の人の声が止まった。

「白美、あんたのターンが先だよ」

部屋の隅から、赤美が急かした。

「堕天使が来るまで待てって偉い人に言われて、あたし何も出来ずにずっとここで待ってたんだ。はやく始めようよ」

「うん……」

やむを得ず、白美は工具の男の方を見た。

男は、緊張した面持ちで白美を見返してる。

顔中に汗をかいていた。

「とりあえず、拷問をいったん止めてもらっていいですか」

「はい」

白美の言葉に従い、男は工具を椅子の男の腕から遠ざけた。

椅子の男が喉から声を漏らす。

「どうして拷問しているのか、教えてもらっていいですか」

白美の求めに応じ、工具の男は説明を始める。

椅子の男は、この雑居ビルを所有する犯罪組織の、末端構成員だという。

敵対組織に通じた疑いをかけられ、拷問を受けているのだった。

「でもあなたは、拷問はしたくないんですね?」

男はうなずいた。

「そしたら、その人への拷問を、止められませんか?」

「そういうわけにもいかないのです」

男は息を吐く。

「どうしてですか?」

「私も、内通者だからです。私は潜入捜査官です」

「えっ……」

白美は言葉を呑んだ。

重大な話になっている。

「彼は私の協力者だったのですよ。ところが彼が我々警察との繋がりとは別に、別の犯罪組織に通じていることが組織内で明るみになった。ここの連中は私を信用していて、彼を拷問して情報を吐かせるように命じた」

工具の男は続けた。

「今のところ、私が潜入捜査官であることはまだ知られていない。なら、今の状況に乗じて、彼を拷問の末に始末してしまうのが得策なのです」

「そんな、酷い」

白美は泣き声をあげた。

工具の男はうなずいた。

「おっしゃる通りです。彼には、この組織内でずいぶん助けられましたからね。私も彼を助けたい」

「なら、何とかみんなが助かる方法を考えましょう」

白美の言葉を聞いて、部屋の隅で赤美が嘲りの声をあげる。

白美は無視した。

「しかし、このまま潜入捜査を続けるためには、ここでの立場上、彼を拷問した上、始末する他ありません。でも、それが警察官は別として、人として正しい在り方でしょうか。そうは思えません。そんなわけで、ジレンマに陥っているのです」

これではっきりした。

工具の男の欲望とは、椅子の男を救い、潜入捜査を放棄すること。

しかし、それが簡単にはできない状況なのだ。

大人の世界で、まして警察官が、与えられた仕事を疎かにすることは許されない。

白美の両目から、涙があふれた。

彼を欲望に向かわせる理屈が浮かばない。

「なんて言えばいいんだろう。私、何も言えない……」

絶望した白美を見て、工具の男は自嘲するように小さく笑った。

赤美は勝ち誇った笑い声をあげる。

「白美、悪く思わないでよ。これも天使のお役目だからさ」

赤美は工具の男に向き直った。

「お役目というのは大事なのよ。私たちの中身なんて、誰のでも一緒。どういうお役目を授かったか。そしてそのお役目をきちんと全うできるか。それでようやく、それぞれの人生に価値が生まれるんだよ」

男に語りかける。

「そうかもしれませんね」

赤美の声に、男は魅入られたようだった。

「その男を拷問するのは、ここでの顔役としてのあんたのお役目にかなってる。そしてそれが、潜入捜査官としての本来のお役目にも繋がる。比べて、それらを放棄する方だけどね。何になる?あんたの独りよがりな自尊心が救われるだけよね。自尊心とそいつ一人の命を助けるために、他の何もかも捨てて、それって損得釣り合うの?よく考えてね」

男は小さくうなった。

葛藤が再燃したようだ。

白美には、見守ることしかできない。

赤美は視線を白美に移した。

「短くまとめたでしょ。私のターンもこれで終わり。あとは本人に任せる他ないね」

「私、こんなの嫌」

「嫌ったって仕方ないじゃん。どっちに転んでも何かを失う。それが人生ってもんでしょ」

天使になった赤美は、達観している。

澄まして顔で言った。

 

 

白美と赤美は、二人同時に拷問部屋を後にした。

部屋の中に、工具男と椅子男を残して。

雑居ビルから二人で出ながら、泣きじゃくる白美を、赤美が肩を抱くようにして支えている。

「あんまり自分を責めるんじゃないよ。もう終わったんだしさ」

勝者の余裕だった。

白美は何も言えなかった。

赤美が翼をはばたいて東の空に去った後も、白美は何をしていいかわからなかった。

歓楽街のビルの合間にある小さな公園で、ベンチに座って物憂げに過ごした。

遠くから消防車のサイレンが聞こえてくる。

いくつものサイレンが重なって、こちらに近づいてくる。

何だろう、と思った。

消防車が何台も連なって、歓楽街の路地に入っていく。

火事があったらしい。

堕天使レーダーが、何かを知らせていた。

安堵。

工具男の感情の名残だ。

『先の獲物の男、あの雑居ビルで、火事騒ぎを起こしたようだぞ』

何気なく、声の人が知らせる。

「そんな、あの場所には路地が狭くて消防車は入れないんじゃ」

『人死にが出るような火災ではなさそうだ。ボヤというやつであろう』

白美はひとまず安堵した。

つまり、火事騒ぎを起こすことで、工具男は椅子男を逃がす隙をつくったのではないだろうか。

『そういうことだ。職務を曲げて、己の欲望に従って相手を助けたわけだ。お前の働きかけが男の決心を後押ししたのだ』

工具男が椅子男を助ける、その後押しになれたのなら嬉しい。

『そしてこれは最終戦争に我々が打ち勝ったことを意味する。ご苦労だった』

「光栄です」

終戦争はともかく、人の命を救えたことが白美は嬉しかった。

 

 

意識が薄らいだ。

周囲で自分に呼びかける声がする。

目覚めたら、通学電車の車内でロングシートの上に寝かされている。

自分の周りに乗客と車掌が集まって心配そうにのぞき込んでいた。

車両は、途中の駅で停車したままになっている。

自分が立ち眩みを起こしたせいだ。

白美は車掌たちに謝罪した。

車掌が言うには、よくあることだと言う。

立ち眩みついでに堕天使に転生するのも、よくあることなのだろうか。

体調が回復したので再開した電車で地元駅まで帰った。

駅前のベンチに座って、赤美の携帯電話に架電した。

本人が出た。

「何か所か骨折して入院することになったけど、無事だよ。今病室」

声を潜めて喋っている。

とりあえずは彼女が生きていたことに白美は安堵した。

「腹立つのはさ、別れ際に偉い人に言われたのよ。次はあの堕天使の娘を天使に誘うってよ。そんなの私にわざわざ言うことか?って思った」

自分が天界に狙われているということだろうか。

彼らにも実力を認められたらしい。

今後、天界からお声がかかるかもしれない。

でも、天使より、堕天使の方が私にはお似合いだ。

白美はそう決めつけた。

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『転生したら堕天使だった、私にはお似合い(前編)』

毎朝乗る通学電車の中。

白美(しろみ)はロングシートの端に座っている。

座席は全て乗客で埋まり、通路と入り口付近に立つ人も多かった。

白美の自宅から最寄りの駅はこの路線の始発駅にあたるので、彼女は毎朝座席に着くことができた。

始発駅近辺の新興住宅地に、苦労してマイホームを購入した両親、白美は感謝してもし足りない気持ちでいる。

在学している高校の最寄り駅まで、四駅。

早寝早起きで十分な睡眠を摂っている白美も、今日一日の活動に備えて、目を閉じて心を鎮め電車の揺れに身を任せている。

途中の停車駅で、乗客たちが乗り込んでくる気配があった。

間近に気配を感じ、白美はうっすらと目を開いた。

自分の前に、高齢の女性が立っていた。

ロングシートの支柱を右手でつかみ、左手には杖を持って床に突いている。

あっ、と白美は思った。

反射的に腰を浮かせていた。

「あの、こちらに」

高齢の女性を、自分が座っていたスペースに誘導した。

「いいんだから、達者なんだから、ほっといて頂戴」

女性は、くぐもった声で言って、左手を振って白美の申し出を拒絶する。

その拍子に杖が白美の脚を打った。

少し痛かった。

白美は痛みをこらえて、失礼しました、と素直に従った。

しかし一度立ってしまった以上、また同じ席に座りにくい。

高齢女性は白美を避けて、乗降口の前に移動している。

白美は、視線を移動させて、近くに立っていた別の中年の女性を見た。

目が合ったので、それとなく会釈する。

彼女がこちらに来たので、席を譲って白美は隣の車両に移った。

その間、先の高齢女性がこちらを見ているのに白美は気付いていた。

親切の押しつけのような真似をしてしまい、申し訳ない気持ちで、白美は女性の視線から隠れたかった。

 

午前中の授業が終わり、校舎と別棟にある食堂に白美は来ている。

いつも通り、友人の赤美(せきみ)と一緒だ。

赤美は高校の所在地と同じ町に自宅があるので、歩いて通学している人だった。

「ねえ、それスパムのほうれん草巻きでしょ、美味しそうね、おくれよ」

赤美は、白美のお弁当のおかずを何かと欲しがった。

本人いわく、自宅から学校まで結構な距離を歩くので、肉体が栄養分を欲している、とのことだ。

彼女の理屈にも一理ある、と白美は認めていた。

「いいよ、どうぞ」

赤美は白美のスパムのほうれん草巻きを一塊、箸でつまんで取った。

「うまいじゃん。あんたこれ、自分でつくったの?」

赤美は咀嚼しながら喋って、スパム片を口からこぼした。

「うん、私、朝、暇だからね」

「おやじもおふくろも働いてんだっけ。いくら仕事忙しいったって、子供に自分で弁当つくらせる親とか、あり得る?特におふくろさあ。うちのババアだってこの通り、貧相なりの弁当はつくってくれてんだよ」

赤美は高い声で、まくしたてた。

「あんたもさあ、何でもおとなしく言うこと聞いてないで、一度おふくろに抗議ぐらいしたらどうなの?」

彼女は自分に同情してくれているのだと白美は思う。

「自分でつくるって、いつもじゃないの、今朝はお母さん忙しかったから」

白美は嘘をついた。

とっさに母をかばったつもりだった。

でも、後からうしろめたさを感じた。

すぐに思い当たった。

母にやましいことがある、と無意識に考えていなければ、赤美に対して取り繕うことはない。

自分は無意識に、母の落ち度を認めたのだ。

だいたい、お弁当をつくるのが両親のうち父ではなく母であるべきだという決めつけからして、時代遅れな偏見に過ぎる。

自分は偏見まみれの汚れた心で、母を断罪してしまった。

自分の心の醜さを恥じて、白美は赤美から顔を背けて涙をこぼした。

 

 

今日は朝からこんな醜態をさらし続けたのだから、堕天使に転生しても当然だ、と白美は納得するところがあった。

自分なりに、疲れが溜まっていたのかもしれない。

帰宅途中の夕方の電車内で、座席に座れず通路に立っていた白美は、立ち眩みを起こしてしまった。

意識が遠のいて、目覚めたら、見慣れない場所にいた。

周囲は炎と溶岩に包まれている。

遠目には、煙と溶岩を吹く火山が、世界の果てまで連なっている。

赤く焼けた空の端々に煙が立ち昇り色濃く渦巻いていた。

地獄の風景である。

白美が座っている場所は、ごつごつとした岩の上だった。

白美は居住まいを正した。

お尻と足が岩肌に当たって痛い。

と、自分の体を見て驚いた。

胸から肩、腕、腰、足先まで、すべすべした光沢のある黒色の、皮膚なのかタイツなのかうぶ毛なのか曖昧なものに覆われている。

裸のような裸でないような、曖昧な姿だ。

顔を触ってみても、同じようなすべすべの手触りだった。

そこから額まで手を伸ばすと、額の上辺りから、二本の小さな角が生えているのがわかった。

腰とお尻の間辺りがむずむずすると思ったら、黒い尻尾が生えていた。

先が二股の槍先のような形状になっている。

背中もむずむずする。

背中からは、蝙蝠のそれを大きくしたような、膜を持つ一対の黒い翼が生えていた。

黒一色である。

とうとう自分にふさわしい姿になってしまった、と白美は思った。

堕天使なのだ。

気付けば、自分と同じような姿の無数の者たちが、地獄のそこかしこを飛び回っているのが見えた。

『お前は、堕天使の一柱として転生した自覚はあろうな』

大きな、威厳のある声が頭の中に響いた。

誰なのかわからないが、その姿は周囲のどこにも見えない。

はい、と白美は頭の中で返事する。

『我々堕天使は、元は天界の主軸を成す高貴な生まれだった。それ故、本来はお前のような者が堕天使となるにふさわしい』

声だけのその人は、堕天使を高貴な生まれだという。

先ほど、今の姿を自分にふさわしいと思い込んだ自分は、傲慢だったと思い直した。

胸が締め付けられるような気持ちになる。

頭の中で、豪快な笑い声が響いた。

『そのような心持ちの娘が堕天使としてどう生きるか、これは見ものだ』

「どう生きていけるんでしょう……」

『人々を堕落させるのが堕天使の生業である。取り繕わず、欲望に生きるのが人本来の姿。お前はこれから人間界に登って、人々が思いのままに生きられるよう、堕落させて来い』

「わかりました」

堕天使の偉い人から、自分にも生きる目標が与えられた。

精一杯頑張ろう、と白美は意気込んだ。

 

 

翼をはためかせて、地獄の真っ赤に焼けた空を昇っていくと、厚い空気の層を突き破ったような感覚があった。

人間界に現れていた。

白美の地元ではない、彼女が来たことのない大都会の街角だ。

翼をたたみ、アスファルトの歩道に立った。

この恥ずかしい堕天使ルックを人に見られたらどうしよう、と思うと脚がすくむ。

しかしそうするうちにも通行人は行き来し、白美の方を見たり見なかったりしながら通り過ぎていく。

『我は堕天使に、人間界に溶け込める特性を与えている』

例の威厳のある声が、頭の中に響いた。

『外見を見とがめられることはない。人間の頃のように、見知らぬ人間に話しかけても無碍にされることもない。気兼ねせずに篭絡に励むのだ』

「わかりました」

『ところで、天使だけには気を付けよ。連中は我らの天敵であり、妨害を加えてくるからな』

気になることを言われたので聞き耳を立てたが、声は途絶えてしまった。

白美は気を取り直して、人間に働きかけてみることにした。

 

 

要は、悪いことをしようかしまいか葛藤している人の、背中を押してあげればいいのだろう。

白美はそう結論付けた。

考えるだけで、どきどきする。

そそのかして、悪事の手助け。

自分にそんなことができるのだろうか。

 

 

街角を行く人たちをそれとなく観察していると、全身のうぶ毛がかすかにざわめいた。

白美の堕天使レーダーが、獲物に反応している。

白美は意識の焦点を合わせた。

後悔、懺悔、慟哭、哀惜。

そんな漢字で形作られた感情が、白美の脳裏に流れ込んでくる。

白美は身を強張らせた。

苦痛、懇願、解放、自由。

なんだこれは。

苦しみに身をよじるような人間の生の感情に触れ、緊張で白美の胸は動悸を打った。

浄土、彼岸、河原、虚無。

どこにいるのだろう。

早く助けなければ。

感情が流れてくる、その源流を全身の肌感覚で辿った。

白美は背後を振り返った。

ひっきりなしに自動車が行き交う四車線の幹線道路が傍らを通っている。

その道路の向こう側の端に、ぼんやりと立っている人影を白美は認めた。

アスファルトから立ち昇る熱気の中で、その細い人影は消え入りそうだ。

その人影が車道に向かって、ゆらり、と倒れ込むように歩を進めた。

「やめて」

白美は叫んだ。

脚が歩道を蹴った。

両翼と尻尾が、排気ガス混じりの空気をかき分けて、はためいた。

白美は飛んだ。

走る運送会社の大型トラックとタンクローリーの合間を高速でかいくぐり、四車線の車道間を一筋の稲妻になって渡った。

空中に身を投げたその女性の体を抱き止めて、一緒に歩道側に倒れ込んでいた。

付近の通行人たちが、驚いて後ずさった。

女性が車道に身を投げたことにも、誰も気付いていなかったらしい。

「大丈夫?」

座り込んだ白美の膝の上に女性は頭を乗せて、力なく横たわっている。

開いた目からは、涙がこぼれていた。

彼女から白美への感情の流入は、止まっている。

ひとまず彼女を落ち着かせよう、と白美は思った。

ひとしきり泣かせた後、女性を立たせて、近辺に見つけた喫茶店に連れて行った。

高校生の白美は今まで喫茶店に入ったこともないが、体が自然に動いていた。

 

 

テーブル席で向いあって、改めて女性を観察した。

白美よりもひとまわり年上だが、中年というほどではない。

大人の女性だ。

顔色が青白く、やつれていた。

長い髪は艶を失っている。

困っているのは明らかだった。

本気で死のうとしたからには、大人の事情があるに違いない。

大人の事情は理解できないが、自分にできることなら、助けになろうと白美は思った。

「天使じゃなくて、堕天使で申し訳ないですけれど、私で助けになれるなら」

白美は控えめに申し出た。

「お話を聞くことはできます」

「堕天使って、悪魔のことですよね?」

女性が早口に口を挟んだ。

思ったよりも力強い声だ。

「ええと、そうです」

「悪魔だったら、死なせてくれればよかったのに。そのまま地獄に行くつもりだから」

女性は言った。

そのあとで、口元に歪んだ笑みを浮かべている。

白美は息を呑んだ。

「よかったら、事情を聞かせてもらえませんか」

白美の申し出に、女性はしばし無言だった。

悩んでいる。

白美は待った。

女性は間を置いて、訥々と語り始めた。

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『転生したら森の中、反省』

研二(けんじ)は、こっちが青だろが、と抗議のつもりでドライバーの顔を見た。

だが相手が悪かった。

フロントガラス越しに見えた。

人相の悪い中年の男。

眉間と口元を歪めて、邪魔だ、と威嚇している。

ひき逃げ上等の価値観なのだ。

研二は、目を見開いた。

ラクションを鳴らしながら、軽ワゴンが迫る。

足がアスファルトの地面に根を張って、動けない。

一瞬、脳裏に両親の顔が浮かんだ。

猛スピードの車体に、研二の体は大きく跳ね飛ばされた。

 

 

うっすら目を開けると、曇り空が見えた。

高い木々が空を囲っている。

体の下が柔らかい。

研二は、森の中に大の字になって寝ていた。

ゆっくりと上体を起こした。

体に痛みは全く無い。

五体に目をやったが、骨折どころか擦り傷すらなさそうだった。

妙なのは、自分の衣服が変わっている。

自分のものではない、色褪せた、繊維の荒いシャツとベスト、ズボン。

身じろぎすると肌に抵抗するようにごわごわと強張った。

これは現代の衣服ではない。

麻で編まれている。

毛糸の靴下の上から、動物の革でできた靴を履いている。

どうしてこんな格好なのだ、と研二は自問した。

思い当たるのは、異世界転生しかない。

さっき、信号無視の車にひき逃げされたのだ。

おそらく元の世界では死んでしまい、魂だけが異世界に生まれ変わった。

「あのドライバー、むっかつく」

口に出しながら、研二は立ち上がった。

やはり体には重傷も軽傷もなく、気持ちいいぐらい身軽だった。

落ち葉の堆積した平坦な場所で、頭上に空が開けている。

しかし周囲は、どの方角も密な樹木と低木に囲まれていた。

どこに行っていいのかわからない。

なんだか面倒な場所に異世界転生してしまった、と研二は思った。

そのときふいに、研二は嫌な感覚を覚えた。

周囲の森から、複数の気配を感じる。

研二が立ち上がったのを見て、身構えた。

そんな気配だった。

四方でそんな気配が沸き上がった。

気絶している間から囲まれていたのか、と研二は思った。

弓の弦を引き搾る耳障りな音。

これも四方から聞こえた。

研二は、身を隠すもののない平地に突っ立っている。

彼の体を撫でるように、周囲で旋風が立ち昇った。

転生した体から、過去の記憶が意識の中に流れ込んできた。

 

望まぬというに、面倒な場所に転生したものよ。

 

研二は自嘲した。

矢が飛んできた。

二本、三本、四本。

肌一寸の場所で矢をかわしながら、研二は飛んできた矢の数を数えている。

森の中では、矢を放つなり射ち手たちが次の矢を弓にたがえ、再び弦を引き絞る。

 

彼奴らの矢が尽きるのを待つに及ばぬ。

 

研二は重心を落とし、腰から下に力を込めた。

両脚に風の力が蓄えられていく。

矢の第二陣が始まった瞬間を狙った。

顔を上げて頭上の空を見ながら、真上に体を発射した。

研二の体は大きく弾んで、森の樹木の上限を飛び越えた。

空の上まで体が登り切ったとき、太陽を背にして、研二は足下の下界を見下ろした。

四方に、見渡す限りの森が広がっている。

ただ一方の果てに、森が開けて、建物が並んでいる場所が見える。

集落のようだ。

王と話をつける時が来たのだ、と研二は一人うなずいた。

 

我がこの世界に転生したのも、そのために相違あるまい。

 

重力に従って下降を始める体を、研二は集落のある方角に向けた。

森の中ほどに、研二は落ちていった。

 

 

はるか背後の樹下では、追手たちが走って彼を追っている。

しかし、高い頭上の枝から枝へ、身軽に飛び伝って進む研二に追いつくことはできなかった。

時折、走りながら矢を放つ猛者もいないではなかったが、狙いが定まらずでは矢は研二の体に届きもしなかった。

研二は、一本の樹木の上で、枝の根本で足を支えたまま体を止めた。

目の前で木々が絶え、森が開けている。

集落は木の柵で囲まれ、その入り口には木戸が立てられていた。

木戸の左右に槍を構えた門番が二人。

二人は研二と同じ衣服を着ている。

集落を囲む木の柵にも、一定の感覚で櫓が設けられている。

それらの櫓は森の樹木よりも高く、上には槍と弓矢を備えた櫓番が柵外の監視にあたっている。

門番と櫓番に気付かれずに、集落内に入り込むのは難しい。

研二は、目をつぶって、息を整えた。

足の下で、枝が研二の体重に音を上げて、しなり始めている。

背後から、徐々に追手たちの気配も迫っていた。

 

 

両手を頭上に掲げて現れた研二を、門番たちは緊張した面持ちで迎えた。

だが彼らも、研二がおとなしくしている以上、集落内に迎え入れないわけにはいかない。

号令がかけられ、内側から木戸が開けられた。

門番の一人に中へ送り込まれ、研二は集落内の警備兵に引き渡された。

「お父上に取り計らいましょう」

警備兵の一人が耳打ちした。

父の助けを借りるなど、これまでであれば一笑に付し、拒絶していたところだ。

だが転生してきた研二は、そうはしなかった。

「頼む」

警備兵に頭を下げていた。

 

 

後ろ手に縄をかけられた研二は、集落の中ほどにある御殿の広間に引き出された。

先の王である、父、アンニン公の隠居所であった。

燈明が焚かれた室内の奥に、アンニン公の座所がある。

年老いた公は、褥の上で姿勢を崩し、咎めるように研二を見ていた。

研二は木の床の上に両膝を付いて、父の顔を認め、それから一礼した。

「なぜ帰ってきたのだ、ケンニン王子よ」

「アンニン公」

研二は公の言葉を受けた。

かつてケンニン王子は、アンニン公の後継者だった。

しかし父王と折り合いの悪かった王子は、王位を自ら放棄し、森の中に逃げ込んだ。

やむを得ず新しい王とされたのは、ケンニン王子の従弟にあたる、モクネンである。

アンニン公とモクネン王に反抗するケンニン王子は、度々集落を襲撃しては、物資を奪って森の民と共に放蕩生活を送った。

業を煮やしたモクネン王は追手を放ち、森にいるケンニン王子の抹殺を図った。

研二がケンニン王子の体に転生したのはその折だ。

「このまま帰ってこなければ、命は拾えたものを」

アンニン公の声は、暗く沈んでいた。

「命を捨てる気はありません」

研二は小さな声で、しっかりと言った。

「では、なぜ」

「ただ一言、父上に許しを乞いに戻って参りました」

研二はアンニン公の顔を見据えた。

先王は見返している。

その双眸が、わずかに震えたように見えた。

「許そう」

確かにそう聞こえた。

嬉しくなって、父に笑いかけた時、ふっと研二の意識が薄らいだ。

 

 

また横になっている。

目を開くと、妙な光景だった。

白い天上の下に何本かの細いパイプが通っていて、引っ張り上げられた研二の右腕が、バンドで繋がっている。

右腕はギプスに覆われていた。

ベッドの上に横たわっているのだ。

病院か。

そう意識して何気なく身じろぎした瞬間、体の各所に激痛が走った。

「いてえっ」

傍らで、慌てふためく気配。

仕切りのカーテンを開けて、覗き込んだのは母親だ。

「研ちゃん、目が覚めたの。あんた、二週間も」

泣いている。

自分はしばらく昏睡状態になっていたのだ、と研二は自覚した。

二週間ぐらいでは、まだ体が痛い。

あれだけのひき逃げだった。

泣く母親の顔を見ながら、研二は異世界で出会ったアンニン公のことを思い出していた。

「親父、いるかね」

「いるよ、そこにいるよ」

病室の、ベッドの傍らに父母揃っていたらしい。

「お父さん、私先生呼んでくるから、研二のことを」

そう叫んで、母は出ていった。

病室がざわめく雰囲気。

しきりのカーテンで見えないが、何人かの相部屋らしい。

母が去った後、しばらくして、父がそこに立った。

研二を見ながら、目を合わせない。

「親父」

研二は呼びかけた。

アンニン公と似た表情をした父は、口元を結んだままでいる。

「ごめんよ」

研二は謝罪した。

信号無視の軽ワゴン車にはね飛ばされる直前、進路を巡って父と口論になったあげく、家の金を持ち出して家出してきたところだった。

持ち出した金は、いずれ返すつもりだった。

「盗んだ金な、あれ、俺ちゃんと持ったままだったかな?」

舌がうまく回らない。

「馬鹿たれ」

父が、短く言った。

「金なんかより、命の方が大事じゃろうが」

語尾が震えている。

異世界から、帰ってこれてよかった、と研二は思った。

安堵の息をついた。

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『外国人客』

ランチタイムのヘルプで入る、時短シフト。

そういう契約でファミリー・レストランに勤めている。 

控え室で着替えを済ませて、慌しい厨房内の人たちに挨拶をして、ホールへ向かう。

「ミコちゃん、早く」

ホール入口の付近で、同僚の田北寧子が焦りがちに手招きしていた。

「えっ何?」

ホールに人が足りていないのだろうか。

事前に決められたシフトで、今日はミコと寧子を含めて四人、ホール担当が出勤しているはずだった。

「早く出て来てくれて助かった」

寧子はミコの右腕を両手で取って、引き寄せた。

「何よ」

「あのねー、あっちのお客さん」

ミコに張り付くようにして、出入り口向こうのホールに寧子は視線を送った。

「どの?」

「あの」

自分の顔のすぐ横に右手を寄せて、一点を指差した。

円形のテーブル席が点在するホールの一角に、二人組が座るテーブルがあった。

若い男女。

国はどことは知れないが、明らかに外国人だと見てとれる容姿。

ミコは嫌な予感がした。

外国人男女二人は、疲れている。

女性はうつむきがちで、時折、体面する連れの男性の顔を見る。

男性の方はメニュー表を手にして、険しい視線をこちらに送っていた。

彼とミコとで目が合った。

「ね、ミコちゃん、ワールド・トラベラーでしょ」

横合いから寧子が言った。

「えっ」

何それ、とミコは思った。

「外国人、慣れてるんでしょ」

ミコは実際、海外旅行を生きがいにしている。

海外旅行の合間のオフ期間に、今のように飲食業であったりビル清掃業であったり、複数の仕事をして生活費と海外渡航費とを稼いでいる。

「だから、注文聞いてきてよ、あのお客さんたち、もう席に案内してから結構経つの」

「何で注文取ってないの?」

「近く通る度に男の人がエクスキューズミーって言うんだけど、私英語わからないの。少々お待ちください、って言って他のお客さんの対応で忙しくしてた」

ミコは息を飲んだ。

それでは、あの外国人客たちは呼びかけているにも関わらず、放置されている。

「何やってるのよ、もう」

「だって実際他のお客さん相手で忙しいんだもの。お願いね」

そう言ってそれ以上の追及をかわし、寧子は厨房前のカウンターへ。

出来上がった料理を受け取りに行く。

何やってるの本当に。

ミコは心の中で叫んだ。

寧子以外の二人のウェイトレスも、ホールで他の客の対応にかかりきっている。

皆、嫌がっているのだ。

観光地でもない、外国人住民が多いわけでもない小さな街のこの店に、外国人客は滅多に来ない。

皆が慣れていなかった。

出勤して早々ついてない、とミコは思った。

彼女だって、海外旅行し慣れているとは言っても、英語が話せるわけではないのだ。

そこに、恐らく機嫌を損ねている外国人客。

こんな難しい客を押し付けられて、ついていない。

自分のせいではないのに。

でもこれ以上、彼らを放っておくわけにもいかない。

もう自分の仕事になってしまったのだ。

注文用端末を手に、件の外国人客のもとに早足に向かった。

「お待たせして、大変失礼いたしました」

テーブル近くに歩み寄るまで、自分を見据える男女の冷たい視線が痛かった。

二人の視線を避けるように、ミコは頭を下げた。

男性客が、英語で、彼女のことをなじった。

その調子から、何を言われたか、だいたいわかる。

(あなたは私と一度目が合ったのに、なぜすぐ来なかったのか。自分たちの陰口を叩いていたのではないか)。

そう言われたのだ。

自分にはどうしようもなかったのだが、客の身になれば無理もない。

弁明することができなかった。

「申し訳ありません」

謝罪する。

「彼は何度も呼んだのに、無視をされました」

女性が穏やかな声の日本語で、言い添えた。

目はじっとミコを見ている。

ミコは、背筋が寒くなった。

穏やかな声だけに、怒りを抑えているのが伝わってくる。

「こちらの手違いで、ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありません」

日本語を話す女性に向けて、頭を下げた。

「私に謝罪はいらない。彼がかわいそうなのです。ずっと呼んでいました」

女性は静かに言葉を返す。

ミコは慌てて、男性の方に視線を転じた。

目が合った。

怒りよりも、疲れだった。

男性はため息をついた。

(あなたのせいではないのかもしれない)。

ひとりごとのように。

(この国の人は、むやみに詫びる。口先だけで。謝罪は易い。この国に来てから、誰も彼も)。

ミコの胸に疼痛が走った。

自分のせいではない。

自分は何も悪くない。

でも皆の代わりに私が謝ってあげよう。

ちょうど、そう思いながら頭を下げていた。

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『祝祭の後日』

ミコは思案した。

他人様の目のある場所では恥ずかしい。

草木も眠る丑三つ時はいかがであろう。

使い古しのシーツに目穴を開けて頭から被り、一体の異様な者になった。

そんなミコが家を出た。

丑三つ時だ。

道沿いに街灯もほとんどない、貧しい町である。

暗黒の夜である。

この遅くにも窓から明かりの漏れる家はあったが、稀である。

月光ばかりが、暗闇の中に白いシーツを被ったミコの姿を浮き上がらせている。

丑三つ時であってみれば、草木も眠る。

当然人も動物も眠っている。

でなければミコも今のような暴挙には出ていない。

「ははは…」

白いシーツの裾を足元まで垂らし、サンダル履きのつま先を蹴り上げて闊歩する。

歩く度にはためいては折り重なるシーツの隙間の目穴から、外を覗いている。

確保できる視界は曖昧だ。

加えて世はかすかな月明かりだけの暗闇だ。

命知らずのミコでなければ、精霊の姿で夜道を歩くことなどできない。

楽しくて、頭に血が昇る。

「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ」

彼女は歌いあげた。

建物のまばらな野に、甲高い声が響き渡る。

答える者はいない。

田畑に沿うような民家と民家の間の道筋を、かろうじて歩いた。

そうして彼女は今、遠い都会の町並みに思いを馳せている。

都会では若者たちが車両を横転させて祝祭の余興とした。

記憶に新しい珍事であった。

 

他人様の目のあるところでそのような暴挙に出て、いかにも世俗の祭りである。

 

と、ミコは思った。

人の目に触れることで、ただならぬ気配は失われる。

神懸った若者たちの暴挙は、しかし生々しい人の行いと受け取られたことだろう。

その得体の知れない本質は生きた感情で覆い隠され、他人の目に映った。

翻って、白い姿で移動する今の自分を、誰も目にはしていない。

得体の知れないミコの動機を知るのは、本人だけだ。

お前など異様な存在ではない、と断じる他人が存在しない。

そうである間、自身が沈黙している間、ミコは異様な精霊なのだ。

「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ」

甲高い声で歌い上げた。

一軒の家の門前に躍り出た。

見知った家だ。

暗闇の中でも、彼女が道筋を迷わず来れたのは、意味合いある家である。

同級生の男の子が住んでいた。

視界の利かない闇に、表札の「橘」という刻印をミコははっきりと見ている。

「もしもし」

門に向かい、おしとやかな小声をかけた。

けれども彼女は精霊なので、小声が高い響きを伴っている。

生身の人が耳にすれば、戦慄する類の声色だった。

玄関前の鉄扉が閉まっている。

ミコの声は届くまい。

聞く者の無いのは幸いだった。

住人は眠っている。

「もしもし」

ミコの喉から、まったく同じ呼びかけが出た。

異様な声色。

「もしもし」

住人は眠っている。

精霊はその姿を誰にも見られず、声も聞かれない。

ただ、その跡を残す。

「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ」

声色が変じた。

精霊にお菓子を供えることは、彼らを野山に追う護符の意味合いであった。

 

精霊の夜から、一週間ばかりも過ぎた。

放課後に、ミコは呼び出された。

校舎の屋上は見晴らしがいいばかりか、いつも便利な場所だ。

給水塔の陰から、同級生の橘が出てきた。

戦慄した風情でいる。

ミコを見る目に、怯えがあった。

「来てくれてありがとう」

迎える声の、語尾がかすれた。

ミコは曖昧に首をかしげて応じる。

もはやミコは精霊ではない。

精霊の夜の記憶は、精霊が持ち去った。

その彼女の顔つきを、橘はうかがっている。

「君だったの?」

橘は問うた。

「さあ?」

ミコにはわからなかった。

「得体の知れない抜け殻があった」

精霊の脱ぎ捨てた、白いシーツを橘は言い表している。

「怖くて震えた」

目穴が細長く、ひしゃげて開いていた。

使い古された、ただの白いシーツだ。

それを橘は、畏れ多く語っている。

精霊の抜け殻として扱っている。

ミコはそ知らぬ顔でいる。

「家の前の地面に、奇妙な文様と…心をえぐる文言が刻まれてあって」

続けて橘は独白する。

もう声が震えている。

ミコはそ知らぬ顔で聞いた。

「お菓子をあげない僕が悪かったよ」

絞り出すように言った。

橘には、思い当たるところがあるのだ。

ミコは曖昧に微笑んで、その謝罪を受け流した。

彼女は精霊の意図を感知しない。

お菓子をくれない者は、いたずらされる。

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『可もなく不可もなく』

気付くと、いつも同じ中華料理店に入っている。

「あどうも、まいどです」

既視感に襲われながら、僕は窓際のテーブル席に案内された。

前も「また同じ店に入ってしまった」と思いながら座り心地の悪い椅子に腰掛けたのだ。

座席の皮の部分がすっかりへこんでしまって、尻が硬い木の部分にあたる。

落ち着かない。

店内も薄暗い。

なんでこんな店に来てしまったのだろう。

テーブルの上のメニュー表を見ながら考えてしまい、何を食べるか考えがつかない。

店のガラス戸が開く音がする。

「あどうも、吉田さんいらっしゃい」

客の入店であった。

「あ、俺はまたこんなしょうもない店に来ちまった。なんでなんだろう」

「店に入るなりそんな言い草ないじゃないですか」

店主が泣き声をあげている。

今入ってきた吉田さんという客は、口さがない人物だ。

僕とまったく同じことを考えているのだろう。

吉田さんもお馴染みだものな、と僕は思う。

向こうはどうかしらないが、僕の方では彼のことを覚えている。

この店で、何度か見かけているからだ。

常連の吉田さんである。

その吉田さんはカウンタ席に座りながら、首をひねっている。

「おかしいな、俺は今日ばかりは中華料理食う気分じゃなかったし、たとえ食うにしてももっとマシな中華料理屋が界隈にいくらもあるんだけどな」

「そんなことを正直に言わなくてもいいじゃないですか、傷つきますよ」

店主が泣き声をあげている。

吉田さんは店主に取り合う様子もなく、メニュー表に視線を移す。

「いろいろ書いてあるけど、何を見ても食いたいと思わないんだ」

「そんなことないでしょ、青椒肉絲定食どうですか、旨いですよ」

「そう言われて前も注文したけど食ってもピンとこなかったんだよなあ」

「酷いな、じゃあ無難に唐揚げ定食でも」

「それは先々週にもその前の週にも食ったよ、本当に無難な可もなく不可もなくの唐揚げ」

「そんな言い方ないでしょう、褒めてくださいよ」

「本当にもう何食おうかなあ」

店主をいじめて遊んでいるのではないのだ、吉田さんは。

この店で何を食べても可もなく不可もなくで、自然とこうなってしまうのだ。

そう僕も思いながら、メニュー表を見ている。

中華料理として思いつくような料理はひととおり何でもあるのだが、どの料理名を見ても不思議と心が躍らない。

僕は中華料理が好きなのに。

おそらく何十回とこの店で食事をしていて、もうどの料理を見ても思い出せてしまうのだ。

可もなく不可もなくの味を。

店のガラス戸が開く音。

「いらっしゃいませ」

店主の声にわずかに緊張の気配がある。

僕は入ってきた客を見た。

見かけない顔だ。

スーツケースを店内に転がしてくる。

Tシャツに短パン姿の背の高い男性。

金髪に染めた髪に、大きなサングラス。

あ、外国人の観光客だ、と僕は直感的に思った。

彼は店内を見回して、少し戸惑った様子で店主の方に顔を向けている。

「お好きな席にどうぞ」

店主は曖昧に店内を示しながら浮ついた声で言った。

外国人客はうなずいて、そのまま僕の近くのテーブル席へ。

スーツケースを通路側に置いて、自分は壁際の椅子に腰を下ろした。

サングラスを外してテーブルに置いた。

丸い大きな目をしている。

日本語、通じるのだろうか。

彼はメニュー表を見て、首をひねった。

料理名は漢字なので、おそらく彼にもわかるだろう。

なぜと言って、漢字文化圏国出身者の雰囲気があるからだ。

「あのー」

それとなく様子をうかがっている僕と吉田さんとを差し置いて、外国人客は店主の方に視線を向けた。

「はい、どうぞ」

受ける店主。

「おすすめ、何ですか」

独特のイントネーションで、男性は尋ねた。

「えっ」

店主は声を詰まらせた。

見るからに狼狽している。

なるほど、と僕は思った。

中華料理の味には厳しそうな、目の肥えた外国人客なのだ。

そんな人物におすすめ料理を勧めるなどすれば、自分の首を絞めることになりかねない。

この店主に料理人としての矜持を認めていない僕は、そのように店主の心理を慮った。

「おすすめですか、弱ったな」

店主は心の隙を曝け出している。

外国人客は店主に視線を据えている。

「自慢の青椒肉絲を勧めたら」

吉田さんが声をひそめて、店主に助け舟を出した。

「えっ駄目ですよ青椒肉絲なんか、太刀打ちできませんよ」

「何だったら太刀打ちできるって言うんだよ、本当に」

吉田さんは笑い声をあげている。

しかし外国人客はやりとりが理解できないのか、身じろぎもしない。

店主のおすすめを待っているのだ。

店主の表情に焦りが見える。

「じゃあ、麻婆豆腐定食はどうでしょう」

絞り出すようにして料理名を口にした。

声をかけられた方は、少し首をかしげている。

それからようやく、小さくうなずいた。

店主はほっとしたようだ。

料理を出す前に気を抜いてしまってどうする、などと僕は余計な心配をする。

僕と吉田さんも、銘々自分の料理を注文した。

どれを食べても娯楽要素の薄い料理ばかりなので、何を注文したか特筆する気もない。

外国人観光客は、出された麻婆豆腐定食を、粛々と食べた。

店主も僕も吉田さんも、それとなく彼の食事の様子をうかがっていた。

異国情緒のある所作ながら、格調高い食事ぶりである。

しかし食べながら、彼がときどき首をかしげているのを、カウンタ内の店主はしきりに気にしていた。

食事を済ませて、外国人客は勘定を払って店を後にした。

彼が出て行った後は目に見えるほどに店内の空気も緩んだのだ。

ただ、何かそのことを口に出すのがはばかられた。

店主も吉田さんも、もちろん僕も、件の外国人客のことにはいっさい触れなかった。

 

こんな座り心地の悪い椅子は、いい加減買い換えてもいいのではないか。

そう思いながら、僕はメニュー表を見ている。

何を食べたらいいのだろう。

店のガラス戸が開く音。

「あどうも劉さん、いらっしゃい」

店主が迎えている。

僕はそれとなく入ってきた客を見た。

背広姿の背の高い男性である。

短い黒髪で、大きな丸い目をしている。

「こんにちは、なぜかまた来てしまった」

男性は応じている。

「なぜかってことはないでしょう、うちの料理が美味しいから来たんでしょう」

慌てて答える店主の声。

「でも美味しいのですかねえ…」

独特なイントネーションで言いながら首をかしげ、その外国人男性は僕の近くのテーブル席に着いた。

既視感があるな、と僕は思った。

あの常連客は時々この店にやってくる。

そして彼が初めて入店したその現場に、僕は居合わせた気がする。

だが思い出せない。

カウンタ席に座っている吉田さんも、腑に落ちない顔をして男性客の方をこまめにうかがっている。

彼も僕と同じことを考えているに違いない。

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