『鉄橋を渡らせまいとする若い女性』
ふいのことだった。
「そこを渡るのはいけません」
後ろで小さな声がする。
小さいが、自分が言われているらしい。
義雄(よしお)は踏みおろしかけた右足を、空中で止めた。
田園地帯から、隣接する住宅地内に入るため、小川にかかる鉄橋に足を踏み入れるところだったのだ。
振り返ると、背後の畑を囲んだ溝の際に、座り込んでいる人物がいた。
若い女性だ。
頭の後ろから、結んだポニーテールの髪が肩先に垂れている。
トレーナーとジーンズ姿で、長靴を履いている。
農家の主婦だろうか?
腰を下ろして、お尻が土に触れるのにも構わず、三角座りしているのだ。
うつむき加減にしながら、義雄の方を上目遣いに見ている。
さっき通ったときには、そんな女性はいなかったのだが。
おかしい、と思いながらも義雄は足を引き戻した。
「今、何か?」
「そこを渡るのはいけません」
口元でぼそぼそと言う。
「そこ、って橋のことですか。でも、この橋渡らないと俺、帰れないんですよ」
「いけません」
小声ながら、そこに強さを秘めている。
義雄はひるんだ。
「いや、でもですね。この橋渡らないと、遠回りしたら街まで一時間以上かかっちゃうんで」
「あなたのためです」
女性は、表情を変えずに言う。
「橋を渡らないのが、どう俺のためになるんですか」
義雄はむきになって問うた。
女性は答えない。
相手にしていられない、と義雄は思った。
「今日は長いこと畑の間ばかり歩いてきて、疲れてるんです。渡りますから」
「いけません」
女性の言葉が強くなった。
だが、話し合いをしたところで仕方がない。
「俺、行きます」
義雄は彼女に背を向けた。
鉄橋に足を踏み入れる。
「駄目」
後ろから、小さな叫び声が聞こえる。
何も叫ぶことはないだろうに、と義雄は呆れた。
振り向かないことにする。
「駄目、戻ってきて」
一歩、また一歩。
鉄橋の上を進んだ。
細い鉄橋だ。
一般の乗用車は通れず、トラクターなど、農業用の小型車両がかろうじて通れる幅である。
住宅地から畑側に、この橋を使って農家の人たちが渡ってくるのだろう。
鉄橋は小川の上、10メートルばかりの高さに掛かっていた。
いつ頃つくられたものなのかわからないが、その橋を成す鉄材の大部分が錆びて赤茶けている。
もう古いのだろう。
ことによれば、橋の向こうの住宅地が造成される以前に掛けられた橋なのかもしれない。
骨格になる二本の鉄材の合間に、薄い鉄板を渡したばかりの簡素な鉄板なのだ。
義雄がその上を歩くと派手にきしんだ。
「お願い、戻ってきて」
背後から義雄を呼ぶ女性の小さな声は、いまや悲痛な響きを帯びている。
見も知らない若い女性が、ああまで言ってくれるのは悪い気はしないけれど、自分にも都合がある。
義雄は心を鬼にした。
鉄橋の上を足早に進む。
足の裏に、妙な感触があった。
ぐらり、と体のバランスを崩した。
普通に歩いていたのだ。
だが突然、踏みしめた足元の鉄板が、抜けた。
成人男性一人の体重を支えきれないほど鉄板が錆びきっていたに違いない、というのは義雄が後から思ったことだ。
底の抜けた鉄橋から義雄は落ちた。
落ちながらもがいて、両手の指先を鉄橋の鉄板の先端に引っ掛ける。
錆びて表面のけばだった鉄板に、指が留まった。
がくん、と指先に全体重がかかる。
痛い。
だが鉄橋下への落下は防いだ。
底の浅い小川に、10メートルの高さから落ちてはただでは済まない。
義雄はもがいた。
指先が痛む。
今義雄の体重がかかっている錆びた鉄板の先端が、ゆっくり下方に向かってしなり始めていた。
「助けて」
苦しい喉の中から、義雄は叫び声を絞り出した。
先ほどの、畑のそばに座っていた女性を頼った。
「助けて」
橋の向こうから、こちらに歩いてくる気配がある。
足音はしない。
だが、気配は確かにある。
やがて、指先だけで橋にしがみついている義雄の頭上に、人が立った。
見上げた義雄の目からは、先ほどの女性の長靴の脚とトレーナーの胸、それからこちらを見下ろす顔の上半分が見えた。
「助けて」
義雄は頭上に立つ女性に、助けを求めた。
指先は汗ばんで、滑り始めている。
女性が、自分の上に屈みこんだ。
人ひとりが上にいるのに、鉄板は彼女の重みでたわむ様子もない。
不思議だった。
女性は腕を伸ばして、義雄の両手首をつかんだ。
自分の身を後方に倒し、その勢いで義雄を引き上げる。
義雄の体は軽々と引き上がった。
鉄橋の上に引き戻された義雄の体を、女性は抱きとめた。
柔らかい感触があった。
「だから駄目だと言ったのに」
こちらの耳元でささやいた。
義雄は返事ができない。
義雄の体を抱えて立ち上がり、女性は鉄橋の上を戻った。
義雄を抱いたまま、ゆっくりとした足取りだ。
やがて、田園地帯側の陸地に二人はたどりついた。
女性は、義雄を土の上に横たえる。
消耗しきった義雄は、そこで意識を失った。
周囲が騒がしい。
義雄は目覚めた。
彼は、ビニールシートの上に寝かされていた。
体の上に、自分のものではないジャンパーがかけてある。
目をこらすと、いくつもの人の姿が見えてきた。
田園と住宅地を結ぶ鉄橋の両側に、人が集まっているのだ。
住宅地側には、パトカーと警官の姿もある。
こちら、田園地帯側にいるのは、今まで畑で農作業をしていたらしい農家の人たちばかりだった。
皆、橋の方を見ながら小声で言葉を交わしている。
周囲を見回していた義雄のそばに、男性が一人立って橋の方を見ていた。
彼は、義雄が上半身を起こす気配を察した。
「兄ちゃん気付いたか」
彼が義雄をビニールシートの上に寝かせて、上着をかけてくれたらしい。
頭に野球帽をかぶり、Tシャツにジャージを履いて首にタオルを巻いた高齢の男性だ。
彼も農家の人なのだろう。
「あんた、橋のたもとで気絶してたんだよ」
「すみません、お手数をかけました」
義雄は立ち上がって、頭を下げた。
「それはいいんだけどね。あんた気絶してる間に、鉄橋の真ん中で底が抜けちまってな。もういい加減、ガタがきてたんだな。あの橋。危なくて俺ら、帰れんのだわ」
男性は苦笑しながら、義雄の顔を見るともなく見ている。
もしかしたら、義雄が気絶したいきさつを気にしているのかもしれない。
義雄自身も、自分が体験したことを誰かに話してしまいたかった。
「実はですね…」
義雄は、男性相手に、件の若い女性に警告されてから鉄橋を踏み抜いた後に助けられるまでの経緯を語った。
「ははあ…」
男性は、口元を手でこすった。
短くうなる。
「あのお姉さんな」
若干の親しみを込めた声だった。
「ご存知なんですか」
「いやあ、はは」
男性は言葉をにごす。
「よくは知らないよ。でもさ。こういう小さな畑みたいな場所にも、いるんだよな」
「えっ」
「トラクターに巻き込まれそうになったところを、俺も助けてもらったことがある」
義雄は相手の顔を見た。
「ここらで土いじりしてる連中はみんな、何かしら借りがあるんじゃないかなあ。だから、ああいう人は、やたらと怖がったりしたら駄目だと思うんだよ」
何かを示唆するような男性の口ぶりに、義雄は呆然となった。
自分を抱いて鉄橋を戻る女性の体の温もりを、まだ義雄は覚えている。
「なんだかわからんけど、悪い類の幽霊とかじゃないんだわ。だからあんたも怖がることはないよ」
「いや、俺も助けてもらったので、お礼言いたいです」
義雄は頭をかいた。
遠回りして畑の中を歩いて帰る途中、義雄は川沿いに祭られている地蔵の祠を見つけた。
地蔵の顔に、件の女性の面影を見たのは義雄の願望が強すぎたかもしれない。
だが義雄はようやく相手を見つけたような思いがした。
義雄は助けてもらった礼を言い、お地蔵様を懇ろに拝んだ。
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