『遅刻しそうなガラス片の上』
歩道の上に、ガラスの破片が大量に散らばっている。
誰が散らかしたんだ、と真理(まり)はいらだった。
学校に遅刻しそうになっている。
朝から家で母と喧嘩して、出てくるのが遅れたのだ。
走って学校へ向かう途中なのに、路上がガラス片だらけである。
危ない。
革靴の靴裏をガラスが貫通しないとは限らない。
尖ったガラスを踏んでしまうと靴裏が危ない、と思うので慎重に歩を進めざるを得ない。
どこまで続くのかと見渡すと、歩道上のガラス片の散らばりはずいぶん向こうまで広がっている。
歩道だけでない、ガードレール向こうの車道上もガラス片だらけだ。
「ああもう、なんなのよこれ」
我慢の限界が来て、真理は声に出して怒鳴っていた。
誰がこんなことをやったのだ。
周囲を見回す。
怪しい人物はいない。
まばらな通行人たちは、皆が真理と同じように慎重になって、抜き足差し足で歩いている。
しばらく見回して、すぐに原因はわかった。
道路脇に立つ大きなビルの二階と三階で、道路に面した側の窓が軒並み無くなっている。
何があったのかわからないが、何かでそのビルの窓が道路上に落下して、こうなったらしい。
ガラスが落ちたとき、下に人がいなかったらしいのが不幸中の幸いだ。
ガラスの抜けた窓の内側から、ビルの関係者たちが申し訳なさそうな顔をちらちらとのぞかせている。
道路上の状況にどう対処したらいいか、考えあぐねているらしい。
それを見て真理は、思わず舌打ちした。
慌てて走ってこんなところで転んだり、靴裏を貫通されたりしたら大惨事だ。
真理は腕時計を見た。
門限まで、残り10分。
今のペースでは、とてもではないが遅刻は免れそうにない。
仕方ないから、靴裏をすり減らせるリスクをかぶって走るか、と真理は覚悟を固めかけた。
「いたいいたい」
近くで悲鳴がした。
真理のそばで、足をすべらせた中年の女性が、ガラス片の上に尻餅をついている。
顔を見ると、真理の母親と同年代の女性だ。
母親と喧嘩してきたばかりなだけに、微妙な気持ちになる。
だが、放ってはおけない。
「大丈夫ですか」
真理は彼女の方に近寄った。
座り込んで、女性は泣いている。
上から見下ろす真理の方に、両手を見せた。
血まみれだ。
尻餅をついた際に、とっさに手をついたのだろう。
ガラス片で傷つけてしまったのだ。
女性は自分の血まみれの手を見てショックを受けて、立ち上がれないでいるらしい。
真理は女性の前にしゃがみ込んで、彼女の両手を取った。
手の平を日光で照らして見る。
幸い、両手共に傷は深くない。
真理は自分のハンカチを取りだして、手先で二つに裂いた。
それぞれを女性の手に強く巻きつけ、止血する。
「歩けますか」
「痛くて立てないの。お尻と脚の裏側にもガラスが刺さってるみたい」
女性は弱々しい声をあげた。
言われてみると、スカートを履いた女性の脚の下側に、血が染みている箇所がいくつかある。
ガラス片の上に尻餅をついたのなら、当然お尻にも怪我をしているのだ。
そちらの出血では心配するほどではなかったが、それにしても痛々しい。
仕方がないから彼女をおぶってガラス片の無いところまで連れて行こう、と真理は思った。
女性の体の前に自分の背中を潜り込ませて、女性を背負った。
足を踏ん張って、前のめりになりながら立ち上がる。
人の重みで若干前につんのめったが、バランスを持ち直して立ち上がることができた。
「お嬢さん、力持ちなのね」
女性は腕を真理の首に回しながら感嘆の声をあげる。
真理は見かけによらず、足腰が強いのだ。
ガラス片の上を、人ひとりおぶっていることでよりいっそう慎重になって歩いた。
女性を安全なところに連れて行ったら、救急車を呼んで私は学校まで走ろう、と真理は思う。
ガラス片が尽きたあと、女性を歩道の端に降ろして、携帯電話で救急車を呼んだ。
女性はしきりに真理に感謝している。
悪い気持ちはしなかった。
だが、いつまでも一緒にはいられない。
女性に別れを告げて、道の角を曲がった後、真理は学校に向かって道を走った。
走りながら、腕時計を見た。
すでに門限時刻を過ぎている。
自分を遅刻させたい何者かが世の中にはいるのかもしれない、と思う。
涙が出た。
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