『瞬殺猿姫(27) 猿姫を守った三郎。一子は泣く』
神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)は、客間を吟味している。
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は結局、城主である神戸下総守に事の次第を報告した。
下総守は側近たちを連れてやって来た。
彼らが室内を調べている間、三郎は部屋の隅に退いて座り、おとなしくしている。
蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)も、三郎に従って部屋の隅にいる。
頬が、畳の形に腫れている。
先に猿姫(さるひめ)に棒の一撃を喰らい、痛い目に遭っているのだ。
当の猿姫は、下総守が来ていることも知らない。
三郎の傍らに横たわり、愛用の棒を抱いて、安らかに眠っていた。
「易々と忍びに入り込まれるとは、なんとしたことだ」
下総守は荒れた客間の状況を見て、動じた様子もない。
だが、その表情には疲れをにじませていた。
「貴殿らには迷惑をかけた。すまぬ」
三郎と阿波守の方に目をやり、頭を下げる。
何と言葉を返していいかわからず、三郎は頭を下げ返した。
忍びに忍び込まれたのは、城主である下総守の落ち度かもしれない。
だが三郎たちを襲撃した忍びは、猿姫が別の忍びである一子(かずこ)から奪った財布を取り返しに来ている。
一子の仲間なのだ。
猿姫が原因で、忍びたちを城内に引き寄せたとも言える。
そのため、三郎としては猿姫と一子の関わりを、下総守に知らせるわけにはいかない。
猿姫が忍びに眠り薬を盛られた事実だけを伝えるに留めた。
自分にもうしろめたいところがある。
下総守から謝罪を受けても、三郎は煮え切らない態度を取るほかないのだった。
「それにしても、猿姫殿が薬を盛られるとは」
側近たちに膳を片付けさせている間、下総守は横たわった猿姫を見ていた。
「相手の忍びは、よほどの手練れと見えるな」
先の会見の際にも、彼女に意味ありげな視線を向けていた下総守である。
三郎は落ち着かない。
猿姫の無防備な寝顔が、城主の視線に晒されている。
できることなら、下総守の目前に出しゃばって、視線を遮りたいところだった。
三郎の視線と、彼に気付いた下総守の視線が一瞬出会った。
下総守は息を飲んだ。
「おお、うかつだった。猿姫殿に寝具がいるな」
下総守は慌てて目を逸らして取り繕う。
「貴殿らの昼餉も改めて用意させよう。今度は、見知らぬ者が入り込まぬよう台所に見張りをつける…」
そう言いながら、側近たちを伴って出て行った。
三郎は、安堵の息をついた。
横から阿波守が見ている。
「ときに、うつけよ」
「何でござる」
三郎は阿波守の方を見た。
「さっきからお主が手に握っているその箸。どうして連中に返さなかった」
座っている三郎が膝の上に置いた手を、阿波守は指差した。
中に、塗り箸を二本、握っている。
忍びの男が出て行った後、三郎はずっとこの箸を握っているのだ。
「膳を片付けに来たときに返せばよかったのではないか」
三郎は控えめな笑顔を返した。
「お守りでござる」
「お守り?」
「この箸で、忍びを退け申した」
「まさか」
指先で髭をひねりながら、阿波守は苦笑している。
「人間よりも山猿に近い、棒女を眠らせたほどの忍びだ。そんな箸に怖気づいたわけではあるまい」
「拙者はそう信じまする」
三郎は澄ました顔で言った。
誰の助けも借りず、忍びを退けたことは事実なのだ。
であれば忍びの男に突きつけた、この箸に何らかの力が宿っていた。
三郎はそう思いたかった。
「折を見て、下総守殿にこの箸をくださるよう、申し入れるつもりでござる」
「そういう箸も安くはないものだ、見返りを要求されるかもしらんぞ」
「その場合は、あの鉄砲を代わりに差し上げます」
三郎は離れた場所に置いたままの、鉄砲を指差した。
「このうつけ、うつけかお主は」
阿波守は声を荒げた。
「うつけでござるが、何か」
「いくら何でもそれは釣り合わん。貴重な南蛮の武具を手放してまで箸が欲しいか」
「欲しゅうござる」
「箸などその辺りの市に出向けばいくらでも売っている」
「この箸が欲しいのでござる」
嬉々として、三郎は言い張る。
「鉄砲がいかに強いとは言え、先のような急場では使えませぬ。しかし、拙者と猿姫殿とを救ったこのお箸なら…」
手元の箸に視線を落として、愛おしそうに眺めた。
「箸でも鰯の頭でも、好きなように信じるがいい」
三郎の具合を見て、阿波守は呆れた声をあげた。
一方。
忍びの男、滝川慶次郎利益(たきがわけいじろうとします)は、森の中を歩いている。
武士の装いを脱ぎ捨て、再び全身を頭巾と忍び装束で覆っていた。
両目の周囲だけを露出させている。
隙間なく木々が立ちふさがる中を、滞りなく進んでいく。
彼は傍らに、同じく頭巾と忍び装束の女、一子を伴っていた。
二人で進みながら、時々慶次郎は心配そうに一子の方を確かめる。
その度に、一子は連れの視線を避け、顔を背けるのだった。
しばらくは歩きながら、そうした無言のやりとりを繰り返した。
慶次郎は足を止めた。
「おい、何で止まる」
一子の口元から、非難がましい、くぐもった低い声。
ようやく慶次郎を見た彼女の視線は、冷たいものだった。
慶次郎は震えた。
「一子姉、そろそろ機嫌直してくれんかね」
おそるおそる言った。
城内の警戒が厳しくなる寸前に、神戸城を二人で脱出した。
その後、客間での顛末を彼女に報告したのだ。
一子から頼まれた財布の奪還。
もう少しというところで慶次郎はやり損ねた。
それを話してからずっと、彼女は冷たい。
「直らん」
再び一子はそっぽを向いた。
「お前には期待しとったのに」
顔を背けたまま、ぼそぼそと言う。
慶次郎は彼女のそんな言葉を聞くのが辛かった。
言い訳したくなった。
「しかし一子姉、猿姫さんにも薬は利くことがわかったやろ。また次の頃合を見て…」
「うつけかお前は」
一子は慶次郎の方も見ず、両手で顔を覆った。
「次の頃合なんか、二度と来んわよ」
「なんで」
「猿姫だって財布のせいで痛い目に遭ったら、そんな財布やっかいになるやろが」
「どういうことやろ」
「さっさと中身を使って、後は捨ててまうに決まってる」
「そんな…」
一子の悲痛な声を聞いて、慶次郎は言葉を失った。
「お別れや。お前がしくじったせいで、お気に入りの財布とも金子ともお別れや」
泣き声であった。
うかうか財布を取られたり、取り返すのも人任せにしておいて、辛辣過ぎるのではないか。
そう言いたいところをこらえて、慶次郎はなんとか一子の機嫌を取ろうとしている。
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