『星の彼方、貴方と私のラーメン』
「あれっ」
ミコは顔を上げた。
周囲を見回した。
おかしい。
今、確かに感じたのだ。
しかし自分を取り巻く環境を再確認して、ため息をついた。
ありえないのである。
「あれっ」
ミコは、再び顔を上げた。
まただ。
おかしい、が、確かに感じた。
無駄とはわかっていたが、周囲を見回してみる。
何の便りもない。
再びため息をついた。
ミコは、顔を上げた。
やはり、そうだ。
さっきから。
鼻の奥に、確かに届いている。
ミコは、その香りに惑わされ続けているのだ。
昔懐かしい、ラーメンの匂いがする。
しかし周囲を見回しても、無駄だった。
ラーメンなど、誰もつくっていない。
ミコのいる場所は、ラーメンが存在できる環境ではない。
ミコは、気密服を着込んでいる。
密閉された衣服で、外気から遮断されているのだ。
頭部にかぶったヘルメットの内部には、わずかな化学繊維の匂いだけがある。
そのヘルメットの中に時折、風に乗って流れてくるようなラーメンの匂い。
それは、幻嗅に違いなかった。
ミコは、いまだに自分が過去に未練を持っていることを知り、自嘲した。
また、ラーメンの匂い。
しかし、いつまでも首をかしげてはいられない。
ミコは再び斧を手にして、目の前に陣取る巨大なキノコの根元に、その刃先を打ち込んだ。
ずぶり、と重い手応え。
根元をうがったことで、キノコの傘がぐらつく。
巨大キノコをひとつ取ってきて欲しい、と夫に言われている。
斧でキノコの軸を断ち切った後、ミコはその傘のへりを両手でつかんだ。
勢いをつけて、キノコを自分の肩の上に放り投げる。
受け止めて、担いだ。
ずしり、と重みが肩にのしかかる。
さらに柄の部分に片腕をまわし、ミコはキノコを肩に担いで、歩き始めた。
巨大なキノコの重量は、100キロを下らない。
しかし、彼女が着ている気密服には着用者の筋力を強化する機能が備わっている。
巨大キノコを肩に担いだり、現地の巨大生物と殴り合うぐらい、朝飯前だった。
ミコは巨大キノコを肩にかついだまま、密林の中を歩いた。
全長100メートルある、幹の太いシダ植物が群生している。
その合間を、ミコは落ち着いた足取りで進んでいく。
植物の陰に隠れながら、無数の両生類たちが丸い目でミコの後ろ姿をうかがっている。
ミコはそれらの視線を一顧だにせず歩き続け、平地に横たわる母船に帰還した。
今までにも増して、強いラーメンの香り。
ミコは、動揺した。
母船のハッチを開き、船内に戻る。
気密室に入る前に、玄関口で巨大キノコをダストシュートに投げ入れた。
キノコは、船内の精査室に送られるはずだ。
気密室に入り滅菌処理を行った後、彼女は船内の研究区間へ。
白衣を着た、いつも通りの夫が彼女を出迎える。
ミコと同い年の彼。
地球を脱出した頃、他に同世代の若者はおらず、パートナーを選ぶ余地はなかった。
「おかえり、ミコ」
「ただいま、旦那」
目を泳がせながら、ミコはかろうじて答えた。
「どうしたの」
夫は目ざとい。
気密服とヘルメットを着て表情の隠れた、ミコのバイザー越しの目元をだけ見て気付いたようだ。
「何かあった?」
「うん…」
ミコは曖昧な返事をした。
ラーメンの匂いがする、などと告白すれば夫に笑われるかもしれない。
気密服を脱いで、脱衣カゴに入れる。
気密服の下は、タンクトップにカーゴパンツを身につけているミコ。
そんな彼女を見守りながら、いまだ夫はこちらを気にして立っている。
ミコは、戸惑った。
「実はね…」
ミコは、告白することにした。
「どうしたの?」
夫は好奇心に満ちた目で、ミコの口元を見守る。
何か、面白い発言を期待しているのかもしれない。
もう一年ばかりも母船内にこもり、この星のことを調査研究している彼だ。
いい加減に退屈し始めているのかもしれない。
「ね、笑わないでよ?」
ミコは、前置きした。
夫は首をかしげる。
「うん?」
「あのねぇ」
気密服を脱いだ今も、ラーメンの匂いは、いまだに彼女の鼻先にくすぐっている。
「さっきからずっとね」
「うん」
「私の鼻の中で、ラーメンの匂いがしてるの」
思い切って言った。
勇気がいった。
「それは、船に戻ってきてから?」
彼女の発言を笑いもせず、夫は即座に追及する。
真面目な人柄だ。
いつでも冷静、いつでも真面目。
そんな彼の存在は、二人きりのサバイバルを生き抜く上で、とても心強い。
ただ、ミコは時折、そんな彼にも娯楽を求めたくなるのだった。
ミコは、胸に湧いた複雑な思いを抑えて、かぶりを振った。
「ううん。君に頼まれたキノコを取ってたときから」
「そうなんだ…」
と、夫は動揺した様子。
おや、とミコは思った。
「何?」
尋ねてみた。
夫は、彼女の問いには答えない。
ただ手を伸ばして、ミコの腕を取った。
予想外だった。
「な、何よ急に」
ミコは動揺した。
夫らしくない振る舞い。
普段、彼が彼女の体に触れることなど稀有なのだ。
「一緒にキッチンに来て」
夫はささやいた。
秘密めいた響き。
ミコは息を飲み、うなずいた。
夫に腕を取られたまま、キッチンに向かう。
母船内の、キッチン。
食料の調達は、母船の機能として、最低限の元素レベルからの生成で合理的に行われる。
この星にあるいくつかの動植物を採取して持ち帰れば、それなりの合成食料を母船がつくってくれるのだ。
だがそれらの合成食料は、いずれも可もなく不可もなくの味わい。
率直に言って、味気ないものだった。
ミコは、この星に来てからの食生活に、飽き飽きしていたのだ。
しかしキッチンにやってきたとき、彼女の鼻腔をくすぐるラーメンの匂いはさらに強まった。
いよいよ欲求不満が募ったのかもしれない、とミコは思う。
だが設備の簡素なキッチンのコンロ部分を見て、ミコは目を見開いた。
コンロ台に、鍋がかけてある。
湯気が出ている。
ミコの嗅覚が、強く反応した。
その鍋から、ラーメンの匂いがしているのだ。
夫の顔を見る。
夫は、おもむろに、うなずいた。
「この星は、ラーメン向きの惑星のようだ」
夫は、喜びを押し殺した声で伝えた。
「君が以前に持ち帰ったシダ植物と両生類とを分解した。その元素から、豚骨魚介系スープに酷似した香りと味わいとが、抽出できることがわかったんだよ」
夫の抑制的な声に、隠し切れない喜びがにじんでいる。
「本当?」
「ミコが今、その匂いを嗅ぎ分けている通りにね」
夫はうなずいた。
「そして、君が持ち帰ったばかりのあの巨大キノコ。粘性の強いあのキノコの傘部分を分解して、手持ちのいくつかの材料と混ぜ合わせれば、コシの強い細麺がつくれるはずだ」
「まあ」
ミコは、口元を手で押さえた。
夢にまで見た、豚骨魚介系スープと細麺のラーメン。
夫は、彼女のラーメンの趣味をわかっていたのだ。
「でも、どうして…?」
ミコは、潤んだ目で夫を見た。
「君を喜ばせたかった。でも、今まではその機会がなかったんだよ」
夫の声に、優しさが宿っている。
ミコは涙ぐみながら、うなずいた。
夫への愛情を再確認するのとは別に、今は完成を間近にしているラーメンへの期待が高まる。
豚骨魚介系スープの、コシの強い細麺ラーメン。
最後にそんなラーメンをミコが味わったのは、彼女がまだ若い娘だった頃だ。
高校生女子だった。
部活帰りにお小遣いで、たまの贅沢。
彼女が成人する前に地球の住環境は悪化して脱出せざるを得なくなり、そんなラーメンを味わうことも不可能になってしまった。
この瞬間までは。
「じゃあ後は、麺をつくるだけ?」
ミコは、夫の目を覗き込んだ、
「そう。もうじき粉が生成される。二人で、その粉をこねよう」
「二人で?」
「そう、僕と君とで」
夫のささやき声が、耳に心地よく響く。
ミコは、傍にいる彼の手を握り直した。
外にいて、遠くからラーメンの匂いを嗅ぎ分けたのは、自分の本能の高まりの故だったかもしれない。
夫の接吻を首筋に受けながら、ミコはそう思った。
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