『トランプ狂騒の夜、海のこちらで』
トランプトランプ、うるせえ!
と、テレビの電源を消しながら、俺は毒づいている。
さっきテレビをつけたら、誰も彼も「トランプトランプ!」とうるさかったのだ。
チャンネルを変えても、トランプトランプ。
どこでも、欧米人の太った中年男が画面に現れ、テレビ画面に向けて手を振っていた。
画面内に収まり、彼を取り巻いているのは、彼と同じように欧米人の男女ばかりだった。
皆、彼の親戚らしい。
同じような顔の人たちばかりだ。
なんでも件の中年男性がトランプ大会に優勝して、全米一位の実力者になったらしい。
それで、世界中が大騒ぎしているのだ。
俺は、鼻で笑う。
馬鹿馬鹿しい、おたくら、ガキか?
トランプで全米一位?
くだらないことで、何を浮かれているのだ。
他に盛り上がるネタはないのか?
腹立たしい。
俺は、夜の街に繰り出した。
いや、街と言うと語弊がある。
自宅のある、明かりの消えた住宅地を出ると、そこは農村だ。
農村の端から、次第次第に宅地開発され、宅地になった界隈に俺の自宅はある。
比べてそこに隣接する農村は、水田と畑の合間に、時々農業者の住宅が立つ界隈だ。
道の端には電灯もほとんどなく、暗い。
俺は携帯電話を取り出して、その明かりを頼りにあぜ道を歩く。
農村を抜ければ、その先には森があって、その森を抜けた先には、国道がある。
その国道沿いには飲食店にコンビニエンスストア、量販店などが並んでいる。
その辺りに行くつもりだった。
俺が親父に聞いた話では、その現在国道が走っている辺りは、昔は森どころか原生林だったそうだ。
戦争が終わった後、その原生林を切り開いて平地にし、国道を通したのだという。
人跡未踏の原生林だったから、自然破壊だとは言っても、地元の人間は誰も反対しなかったそうだ。
実際、今はその国道沿いに各種の店舗ができて、むしろ街の中心地よりもよっぽど便利がいい。
戦後の宅地開発さまさまである。
俺は、夜の孤独をまぎらわせるために、その店舗のどれかに紛れ込もうと思うのだ。
だいたいの店は、夜通し営業しているからだ。
農村の合間の暗いあぜ道を行く。
真っ暗だ。
近くに、農業者の住宅がいくつかある。
でも彼らは生活サイクルの関係で早寝早起きだ。
もう家の明かりを全て消して寝入っているのだ。
真っ暗だ。
俺にスマートフォンがなければ、立ち往生していたところだ。
照明アプリで足元を照らしながら、俺は探り探りで道を進む。
「おい、あんた、稲作はスリランカ発祥らしいぞ」
脇から突然に声をかけられて、俺は飛び上がった。
しわがれた声。
暗闇の中から。
俺は恐怖に全身を痙攣させながら、手先の反射でスマホの照明を声の方に向ける。
照明の先に、皺の刻まれた老人の顔が浮かび上がっていた。
「ぐげげげ」
恐怖で挽きつった俺の喉から、酷い声が漏れた。
非常時の人間の反応は、異常性を帯びるものなのだ。
自分の喉から酷い声が出たので、俺はむしろ自分自身に怯えた。
スマホの画面から出る照明に照らされて、件の老人も困った顔を見せている。
「待て、そう怯えるな。俺はただの、その近くの家から来た爺さんだ」
血の通った声である。
俺は、息を飲んだ。
明かりで照らす私の目前に、老人は歩み寄ってくる。
Tシャツにジャージ姿の、老人である。
風体に何ら不自然なところも、不気味なところもない。
顔を見るに皺だらけで年は経ているものの、体つきはごつごつとして、力強い顔立ちだった。
肌も、日に焼けているらしい。
農家のお爺さんなのだろう。
俺は、いったん安心した。
「何ですか、いきなり」
「驚かせてすまん」
お爺さんは、頭を下げる。
悪い人ではなさそうだ。
「どうも寝付けんもんでな」
「はあ」
俺は、生返事をする。
農村に隣接した住宅地に住んではいるが、農村の人たちと出くわすのは、これが初めてだ。
何となく、相手の出方を見てしまう。
俺は、相手の顔を照らす。
お爺さんは、たじろいだ。
「いや、家のもんは皆早寝してしまって。俺だけアメリカのニュースを見てたもんで、胸騒ぎがして眠れんでな…」
言い訳するように、彼は言った。
俺は、ようやくうなずく。
幽霊の類では、なさそうだ。
生きた人間だ。
「眠れんもんやから、散歩でもしようかと思って…」
でも散歩ったって、真っ暗じゃないですか。
「真っ暗には目は慣れとるんだ、夜になると家の中も暗くするからな」
そうなんですか。
早寝早起きなんですね。
「今夜は眠れんから、明日の仕事ぶりはもう駄目と決まったわ。でも、どうしても眠れなくてな…」
苦しげに弁解するお爺さん。
農家の生活というのは、やはり厳しい。
国道沿いのコンビニエンスストアに時間を潰しに行く、と俺はお爺さんに告げた。
驚いたことに、お爺さんも俺についてくるという。
気を紛らわせたいのだそうだ。
農家の人にもお爺さんにも俺は不慣れだが、ついてきたいと言うのをむげにするのは、気の毒だ。
幽霊でもないことだし、道連れがいるのは心強い。
二人で、あぜ道を進む。
「稲作はスリランカ発祥って、本当ですか」
暗闇の中を歩きながら、話題もないので、俺はお爺さんに話を振った。
「うん?」
「いやさっき会ったとき言ってたでしょ、お爺さん」
「…ああー」
とお爺さんは思い出した風情。
「そうそう、スリランカ人の知り合いと話してたらな、スリランカでは大昔から稲作をしてるそうだ」
「そうなんすかあ」
と、俺は曖昧にうなずく。
稲作がどこ発祥だか知らないが、スリランカなんて聞いたこともない。
ガセネタではないのか、という気がする。
だが俺はお爺さんの機嫌を損ねるのが嫌で、曖昧なままにしておいた。
それにしても、スリランカに知り合いがいるとは、農家のお爺さんの交友関係も案外広いらしい。
「面白いだろう、スリランカに行くと、この界隈と同じような風景があるんだぞ」
本当なのかなあ、と俺は疑う。
農村を越えて、森に入る。
俺とお爺さんは、依然俺のスマホで足元を照らしながら、頼りない道行を続けているのだった。
草むらを掻き分けて進む。
「もう何十年も経つのに、この辺りは、戦前から変わってないなあ」
お爺さんが、妙な弱々しい声をあげる。
「爆撃機が来ても、ここの木の陰におれば安全だと皆言うとったもんだ」
お爺さんは、誰ともなしに語りかけている。
俺は自分の足元が精一杯なので、彼に構っている暇はなかった。
一時間ばかりかけて、森を抜けた。
深夜にも自動車の交通量が多い、国道沿いの歩道に俺たちは立っている。
「来ましたね」
俺は感慨に耽り、お爺さんに気軽な声をかける。
「そうだな」
お爺さんは、不確かな声で答えた。
なんだか、泣いているような声だ。
俺は首をかしげた。
「どうしたんすか、苦しいところはもう抜けましたよ」
「それはそうだが、先のことを思うと心配なんだ」
お爺さんは、弱い声で訴えた。
俺には訳がわからない。
「何がですか」
「お前さん、俺がいくつだと思う」
「六十ぐらいですか」
国道沿いの街灯の明かりを頼りに、俺は目を細めてお爺さんの顔を見る。
それほど年老いてはいないように見える。
「しかし、実はもう九十を超えている」
お爺さんは言った。
「えっ、九十」
人は見かけによらない。
夜更けで真っ暗な中ではあるが、照明を頼りにすれば若く見えたお爺さんだ。
そこまでの年だとは思わなかった。
九十超えたお爺さんが、夜更けに元気にうろうろしているとは面白い。
俺は、感心した。
「その年で、よくうろうろできますね」
「言っただろう、胸騒ぎがして眠れないんだ」
街灯の明かりの下、訴えるようにお爺さんは言った。
「俺は昔を見とる。あの国の大統領が変わる度に、俺はいつも不安なんだ」
俺は面食らう。
何のことだ。
「お爺さん?」
「人間が一人ずつ殺されたり、食い物がなくなったり、そんなのは些細なボタンの掛け違いからだ」
お爺さんは泣き声をあげる。
俺は、戸惑った。
二人して、真っ暗な農道と森とを苦労して抜けてきたのに。
何も泣くことはないだろう。
お爺さんは、腹が減っているのかもしれない。
「落ち着いてください。ほら、道の向こうに牛丼屋が見えるでしょう。俺、今、金あるんです。牛丼一杯、おごりますよ」
俺は取り乱したお爺さんをうながして、深夜営業の牛丼店に向かう。
お爺さんをなだめながら、ため息をついている。
外国人のくだらないトランプ大会のせいで、関係ない俺たちにまでとばっちりだ。
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