『瞬殺猿姫(37) 猿姫たちと脱出する神戸下総守』
猿姫(さるひめ)たち一行は、神戸城本丸の御殿から脱出した。
城主である神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)を連れている。
彼を守るように、先頭に猿姫と織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。
殿に蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)が立って、神戸下総守を守るようにして進む。
夜空の下の城内である。
月明かりと、そこここに焚かれた篝火だけが目の頼りだ。
背後の神戸下総守を気にしながら、三郎は猿姫の横で緊張した顔を見せている。
本丸の広場を抜けて、四人で二の丸に出た。
「下総守殿のために、馬を手に入れましょう」
三郎は言った。
元来、身分のある者は徒歩で移動などはしない。
大名の子息である三郎は普段から猿姫と共に歩いているが、彼が例外なのだ。
三郎と長らく行動を共にしていて、猿姫もそのことに鈍感になっていた。
これからこの城を脱出するのだから。
次の場所に落ち着くまで、確かに長い道行きになるかもしれない。
猿姫や三郎、阿波守はともかく、歩き慣れていない下総守の足には厳しいだろう。
気をつけてあげないといけない。
「お気遣いかたじけない」
三人に守られて進みながら、下総守も安心した顔を見せた。
彼にしても、歩き続けることが気掛かりだったのかもしれない。
「して、馬場はどこにござる」
三郎が尋ねた。
「三の丸にあります」
「三の丸のどちら…?」
「西側でござる」
猿姫たちは、言葉を失った。
三の丸の西側は、敵方である関氏の軍勢が殺到しているはずだ。
そんなところに、のこのこと現れるわけにはいかない。
これから自分たちは東に進むのだ。
猿姫と三郎は、顔を見合わせた。
やむを得ない。
「下総守殿、申し訳ござらぬが、しばらくは徒歩でご辛抱くだされ」
苦しげに伝える三郎である。
彼のその調子で、下総守も察したらしい。
馬を手に入れるのは、不可能。
暗い顔でうなずいている。
「主に馬を使うのは、関家との行き来のためだった」
消え入る声で言う下総守。
「ははあ」
「それで、従来あの位置に馬場があるのだが。今考えれば、東側にも設けるべきであったな…」
彼はまだ若い当主である。
神戸家の家督を継いで間もなく、城内の馬場の位置にまで心を行き届かせる余裕は、まだなかったかもしれない。
まして、本家筋にあたる関家から攻められるとは、思わなかったのだろう。
こんな乱世の時代には、何が起こるかわからないのだ。
猿姫は改めて思った。
二の丸の東の果てに、竹藪が広がっていた。
夜間に見る竹藪は暗くて、気味が悪い。
四人の前を、城の女中たちが明かりを手にした城兵に引率されて、竹藪の中に入っていく。
「なんだあれは…」
猿姫は怪しく思った。
「あの連中、竹薮に入っていく」
もしやあの中で自害でもするつもりか、と猿姫は気を揉む。
「心配召さるな。二の丸の東側から三の丸に抜けるための地下通路が、あの竹藪の中にあるのだ」
後ろから、下総守の声が猿姫の耳にかかる。
「地下通路」
「うむ。二の丸と三の丸の間には堀があるが、地下通路はその堀の下をくぐるように三の丸内の祠にまで通じている」
妙な仕掛けがあるものだな、と猿姫は苦笑した。
神戸家のような地方の小名の城にも、自衛のための工夫がこらされている。
たとえ城は落とされても、当主が脱出できれば後々再起を図ることもできるのだ。
「我らも行きましょう」
三郎の声を合図に、四人は竹薮の中に進む。
竹薮の中。
立っていた大きな石塔がどけられると、その下に空洞が口を開けた。
石で内側を覆われた通路が、地下に向けて通っている。
背後で見ている猿姫たちに気付かず、先にいた兵たち、女中たちがその中に吸い込まれていく。
猿姫たち四人は辛抱強く前にいる彼らが進むのを待っている。
猿姫は、それとなく下総守の顔色をうかがった。
下総守は、何ら表情を表すことなく、兵たちと女中たちが地下通路に入るのを見ている。
「下の者たちに先を越されて、腹は立たんのですか」
後ろから、阿波守がささやいた。
下総守に話しかけている。
「だいたい連中には、城を守る気もなさそうだ」
阿波守の、馬鹿にしきった声。
「阿波守殿…」
たしなめる三郎。
阿波守は気にしない。
「あの連中、後ろから襲って斬って捨てたらどうです」
下総守相手に語っている。
それとも、からかっているのか。
いずれにしろ、たちの悪いことだ。
「口を慎んだらどうだ」
見かねて、猿姫も阿波守を振り返り、たしなめた。
「下総守殿。俺が貴殿なら、ああいう不忠の輩共には目にものを見せてやりますぞ」
猿姫の言葉も無視して、阿波守は続けた。
猿姫は顔をしかめる。
しかし、阿波守は阿波守で思うところがあって言っているらしい。
その声には、ふざけた調子も煽るような調子もない。
どうも、怒っているようだ。
「城主をないがしろにして我先に逃げるとは、とんでもない奴らだ」
誰に言うともなく、彼はそう吐き捨てた。
猿姫は、後ろにいる阿波守の顔を見つめた。
彼女は数日前、木曽川の船着場で、阿波守とその配下の船頭たちを相手に戦ったことを思い出している。
そのときは猿姫には、何の考えもなかった。
目の前に立ちはだかった阿波守たちを、彼らが戦闘不能になるまで打ちのめした。
しかし、今から考えると、思うところがある。
阿波守は、美濃国の大名である斎藤家の家臣として戦った。
斎藤家の権益を守るために、自分の身を張って「織田家の者」である猿姫に立ち向かったのだ。
猿姫が彼を拉致して以降、阿波守は人を食った発言ばかりをぶつけてくる。
しかしそれも、斎藤家の家臣としての彼の立場を思うと、理にかなったものだったのかもしれない。
阿波守は、主家である斎藤家に忠誠を誓っているのだ。
猿姫と三郎への無礼な態度も、彼の武士としての誇りから来ているものだったのかもしれない。
彼を拉致した猿姫と三郎は、故郷を離れてさまよう根無し草の身の上だったから。
猿姫は、今までとは少し違った気持ちを抱いて、阿波守の怒った髭面を見た。
猿姫自身、少し前までは駿河国の大大名である今川家配下の武家に仕えていた。
しかし阿波守のように、主家に対しての忠誠心を持ったことはない。
あくまで、己の存命のための仕官である。
自分の価値を、有力大名の傘下で働くことに見出したつもりもない。
ただ神戸下総守に対し、彼の配下の不忠を訴える、阿波守の言動。
猿姫は、少々心を動かされた。
思いがけず、己の利益の外に重きを置く態度を、阿波守に見てしまった。
…しかし。
諭されている当の下総守は阿波守を振り返り、涼しい顔でいる。
「この時勢であるのでやむを得ない」
阿波守の追及に、下総守は涼しい顔で答えた。
「やむを得ないと申されるか」
「うむ」
下総守は今や、落ち着いている。
「関家がこの城を落とすつもりだと知って、私は配下の者に何を指示していいかわからなかった。取り乱した。しかし彼らは彼らの判断で、いち早く難を逃れている。私と違い、何とたくましいことか」
たしなみのいい態度を見せる下総守である。
後ろで、阿波守は絶句している。
「誇るべき配下の者たちである」
下総守の、達観した声。
「おっしゃるとおりでござる」
下総守に調子を合わせるように、三郎も合いの手を打った。
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