『手間のかかる長旅(099) お寺泊の余地』
時子(ときこ)は座ったまま不安な面持ちで、横に座るアリスを眺めている。
アリスは上の空で、目の前の本尊に視線を向けていた。
彼女は少し前に、この本堂に泊まりたいと漏らした。
時子には寝耳に水の話だ。
面接の帰りに、時子はちょっとした寄り道のつもりでこの寺に来たのである。
だいたい着慣れないリクルートスーツを身に着けているので、さっさと帰って普段着に着替えたいのだ。
着慣れないフォーマルな装いのまま、寺の本堂で一晩過ごすなんて考えられない。
アリスは何を考えているのだろう。
「じゃあ、お坊さんに挨拶して、帰る?」
帰りたい一心で、時子はアリスに声をかけた。
アリスは時子を見た。
「えー、もう帰るの?」
アリスは普段の彼女らしくない、眉をひそめた不満そうな表情を露わにした。
「泊まらないよ?」
時子は念を押す。
アリスは唇をとがらせた。
「駄目だよ、泊まらないよ」
時子は慌てて言葉を強めた。
時子の態度を見て、アリスは肩をすくめる。
「なら、仕方ないにゃ」
「二人で帰るよ?」
「仕方ないにゃ。でもね、もう少しだけ、ここでまったりしたい…」
よっぽど、この本堂の雰囲気が好きなのだろう。
確かに落ち着く場所だけれど、時子にはアリスの気持ちがわからない。
「お寺に泊まるなんて、異常だよ」
つい、時子は本音を口にした。
アリスは時子を見る。
「そうかな。でも、このお寺、もともと泊まれるんだよ」
落ち着いた調子で言った。
時子は首をかしげた。
「見つかったら追い出されるでしょ?こんなところに寝てたら」
「違うよ、ちゃんと泊まれるんだよ。お寺の人に予約を入れてさ。ゲストハウスみたいな」
時子には意外なことを告げられた。
「え、そうなんだ。でも、ここに寝るんでしょ?」
「この本堂じゃなくてさ。他に、泊まれる部屋があるの。和室のいいお部屋」
「へえ」
お寺に泊まるなんて考えたこともなかった時子には、意外だった。
本堂に泊まるのは嫌だけれど、宿泊客向けの施設があるのなら、それはいいかもしれない。
「アリス、そんなことよく知ってるね」
「ここの坊さんに聞いたにゃ。歴史のある寺だから、遠くから泊まりがけで参拝する人たちも結構いるんだって」
「へえ、そうなんだ」
時子は感心して、うなずいた。
この如意輪寺、もしかしたら有名なお寺なのかもしれない。
彼女は今までその存在を知らなかったが。
地元にそんな有名な寺があったとは。
「ここ、有名なお寺なのね」
アリスはうなずいた。
「知る人ぞ知る寺といったところにゃ。そして、私もこの寺を知っている」
そう得意げに答えた。
時子もうなずき返した。
この本堂で一晩過ごすのは、いい気持ちがしない。
でも、ちゃんと宿泊できる施設が他に整っているのなら、泊まってもいいかもしれない。
部屋着も貸してもらえるかもしれない。
夕食に、アリスが言っていた精進料理と言うのも、食べられるかもしれない。
精進料理には、時子も興味がある。
お寺泊も、悪くない気がしてきた。
でも…と、時子は思い返した。
お寺であっても、泊めてもらえば、少なからず宿泊料金がかかるはずだ。
お金を貯めるために工場で働くことにしたのだから、ここで気の迷いからお金を使うわけにはいかない。
我慢しよう、と思った。
友人たち皆で旅するための、資金が欲しい。
アリスと二人で楽しい体験をするのも悪くはないけれど…。
そして帰ると決まったら、たとえアリスが一人で泊まると言い張ったとしても、何とか連れて帰りたい。
時子一人で帰るのは、心細いのだ。
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