『食事作法、美意識の範囲』
食事は、いかに音をたてずに執り行うか。
それが肝要だと私は思っているのだ。
できる限り、静かにものを食べる。
誰しも、食事はそうやってとるべきだ。
そう思っているので、昼時に入った行きつけの食堂で、私は大きな殺意を覚えている。
カウンター席の隣に座った客の食べっぷりが、実に騒々しく、不愉快なのである。
「ぐりゅっ、ぷぴぴ、ぺろぺろ」
隣に座った男性が、そんな咀嚼音をたてて騒々しく物を食べている。
かの人物が食事する際の咀嚼音をあえて字で表現すれば、上記のようになる。
見るからに不愉快な字面である。
「ぐりゅっ、ぷぴぴ、ぺろぺろ」
私は、舌打ちしたい気分だった。
私が今食べているスープカレーは各種野菜のだしが利いて、とても美味しかった。
だが隣でうるさく咀嚼音をたてられては、せっかくの味もわからなくなる。
心がかき乱されるからだ。
「ぐりゅっ、ぷぴぴ、ぺろぺろ」
隣の男性も、スープカレーを食べている。
しかし、なんと気に障る咀嚼音であること。
スープカレーは当然、汁気が多い料理なので、スープを飲む際には気をつけないと音をたててしまう。
食事で音をたてるのが嫌な私は、たしなみよく静かにスプーンでスープをすくい、口に運ぶ。
しかし隣の男性は、スプーンを豪快に振るって、皿からスープを口内にかき込んでいるのだ。
「ぐりゅっ、ぷぴぴ、ぺろぺろ」
いい加減にしろよ、と私は言いたい。
隣でそんな音をたてられるだけで、食欲が減退してしまう。
スープを音をたてずに飲めない人間には、美味しいスープカレーを口にする資格などない!
食事にストイックな私は、そこまで考えているのだ。
隣の男性は、スープカレーを食べる資格なんぞない人間なのだ。
不愉快だから、さっさと食べ終わって出て行ってくれないだろうか。
「ぐりゅっ、ぷぴぴ、ぺろぺろ」
私は、ため息をつきたい気持ちを押し殺して、音をたてずにスープを飲み続ける。
「マスター、おあいそ」
隣の男性客が立ち上がりながら、不機嫌そうに言うのが聞こえた。
私はそれとなく、彼の顔を見上げる。
しかめ面をしながら、男性はカウンターの向こうにいるマスターに、食べたものの代金を支払った。
お釣りを受け取った後、店内をずかずかと乱暴に歩いて進んで行く。
体当たりするような勢いで扉を開けて、外に出て行った。
どこまでも騒々しい客だ。
まったく何様なのだろう。
しかしこれで私はようやく、心置きなくため息をつくことができた。
「あのお客、他の席に座らせた方がよかったかな」
マスターは苦笑いしながら私に語りかけた。
私のため息を見ての言葉なのだ。
気を遣ってくれているらしい。
私は、苦笑いを返す。
「まあ、勘弁してあげてよ」
私の顔を見て、マスターはそう言った。
「勘弁ですか。まあ…」
私は言葉をにごす。
終始、咀嚼音をたてながらの食事ぶりと、出て行く際にも騒々しかった男性客。
彼のことを思い出すと、どこをとっても不愉快だった。
勘弁するのは難しい。
「あの人は、ああいう人でさ」
マスターは、苦笑しながら続けた。
「総入れ歯なのよ」
「はっ?」
マスターの言葉に、私は思わず目を見張ってしまった。
「総入れ歯?」
「うん」
と、マスター。
さっきの男性客のことだろうか。
総入れ歯にするような、そんな年配には見えなかったが。
「事情は知らないけど、若い頃に歯が全部なくなっちゃってさ。今、総入れ歯にしてるんだって」
「はあ…」
私は、生返事を返すぐらいしかできない。
「総入れ歯だと、スープをうまく吸うのも難しいんだってよ。どうしても、すする感じになっちゃうんだね」
「そうだったんですか…」
私は、頭の中が真っ白になった。
「うん、そうらしいの。彼、うちのスープカレーを気にいってくれてるみたいだから、ちょっと気の毒なんだよねえ」
マスターは残念そうに言った。
私は、かろうじてうなずく。
優しいマスターなのだ。
それとなく、私のことをたしなめているのかもしれない。
音をたてずにスープを吸うことができない人の隣で、ことさら静かに食事してみせた私だった。
そうしたくてもできない身の上の人にとっては、私の食事ぶりはあてつけのように感じられたとしても不思議ではない。
私が男性客の食事ぶりに殺意を覚えたのと同様に、彼の方でも私に殺意を覚えていたのかもしれない。
店を退出する男性の不機嫌な様は、その一端なのだろう。
「お客さんみんなに、楽しくごはんを食べてもらいたいんだけどね。簡単なようで、難しいよね」
気のいいマスターは、何気なく私に語る。
件の男性客とマスターの心情を思い、私は己を恥じていた。
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