三十三間堂から六波羅へ。京都市の旅(2)

太閤塀に沿って三十三間堂の周囲を歩きましょう。

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住宅地の趣きですな。

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幕末に、坂本龍馬(さかもとりょうま)を始めとした土佐藩士の住居がこの界隈にあったんだそうです。

この界隈の地名は「大仏」と言って、安土桃山時代には方広寺の境内にあり、大仏様が立っていたのだとか。

後白河法皇豊臣秀吉坂本龍馬、といくつもの時代の偉人の痕跡が重なり合う土地ですな。

京都の街のこうした側面に惹かれます。

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三十三間堂の向かって東側は、かつて後白河法皇の暮らした住居、「南殿」のあった場所です。

日中はさらに北方にあった「北殿」という政庁で政務を執り、「院政」と後に呼ばれる独特な政治体制を主導された後白河院

朝晩には、この南殿一帯にて休まれたのですね。

南殿の跡地には、今は養源院と法住寺という二つのお寺、そして後白河院の御陵とがあります。

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血天井」が著名で、絵師俵屋宗達(たわらやそうたつ)の杉戸絵を所蔵している養源院。

浄土真宗遣迎院派のお寺です。

遣迎院派って、珍しい宗派ですね。

もともとは、豊臣秀吉の側室、淀(よど)君が亡父、浅井長政(あざいながまさ)の菩提を弔うために建立したお寺でした。

建立後間もなく焼失してしまうのですが、天下が豊臣家から徳川家のものとなって後、淀君の妹であり二代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の正室であった崇源院(すうげんいん)の手で再建されたのですね。

浅井長政は、崇源院にとっても父にあたります。

養源院の天井には、かつて京都の伏見にあった城、伏見城の床板が使われています。

伏見城は、関ヶ原の合戦の際、徳川方が守る城でした。

石田三成(いしだみつなり)方の軍勢に攻められて落城することになりましたが、篭城していた徳川家の武将、鳥居元忠(とりいもとただ)以下の武将たちのものと伝わる血痕が、その床板に残っていたのですね。

その伏見城の床板が養源院の天井に使われ、「血天井」となって残っているというのです。

おぞましい逸話ですが、好奇心がわきますよね、実物を見てみたいですね。

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お寺は山門から奥まったところにあります。

見に行ってみたのですが、拝観受付に、拝観料の記載が無かったのですね。

500円ぐらいだったら血天井を拝むために納めるのもやぶさかではないのですが、もし3000円ぐらいだったら苦しみます。

受付の方に一度尋ねてしまうと引っ込みがつかなくなると思うので、用心深くて吝嗇な私は血天井を見ることなくお寺を後にしました。

帰宅後にネットで調べたところによると、養源院の拝観料、500円だそうで。

それぐらいだったら血天井、見ておいてもよかったかもしれない…と今さら思うのでした。

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お隣の法住寺にお参りしました。

後白河院が暮らした南殿の跡地にあって、院の御陵を守ってきたお寺です。

現在は院の御陵は「後白河天皇陵」として宮内庁の管理になっているのです。

せっかくですから、御陵にもお参りしたいものですが…。

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養源院と法住寺の間にある御陵の入口は、閉まっています。

なんと、土日祝日は開放していないのだそうです。

参拝は平日の午前9時から午後4時半までに限られるのだそうで。

宮内庁、観光客泣かせの厳しい方針ですね。

もっとも、休日に観光客が大勢来るようになると、管理上の問題が出てくる故なのかもしれません。

それにしても、御陵への参拝が制限されているなんて、こんなことは初めてです。

まあ、愚痴を言っていても仕方がありません。

平安時代末期の政治史において、大きな存在感を誇った後白河院

敷地の外からその御陵のある方を眺めて、感慨に耽りました。

 

次の目的地を目指しましょう。

行きたいのは、三十三間堂界隈から北にある六波羅蜜寺というお寺なのです。

この六波羅蜜寺も、平清盛に縁の深いお寺なのですよ。

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 大和大路通沿いに北に歩きます。

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京都国立博物館のレトロな門前を素通り。

敷地内でロダン作の彫刻「考える人」が考えているのが見えました。

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京都国立博物館の敷地に隣接して、豊国神社があります。

安土桃山時代の天下人、豊臣秀吉を神として祀った神社なのです。

お参りしておきましょう。

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なかなか雰囲気のある境内でした。

ちなみに、秀吉の墓所「豊国廟」は、この神社の東にある阿弥陀ヶ峰という山の頂上にあるということです。

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手水鉢には豊臣家の家紋、五七桐の紋が入っています。

日本国政府の紋章としてもお馴染みの紋ですね。

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立派な唐門ですね。

近隣にある南禅寺の塔頭、金地院から移築されたのですが、もともとは伏見城の遺構なのだそうです。

私も参拝しました。

 

豊国神社の隣に、方広寺があります。

豊国神社との間の境が曖昧なので、私は知らず知らずのうちに入っていました。

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表面に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が徳川家の天下を冒涜するものとして批判を受け、大阪の陣で豊臣家が滅びるきっかけになった、有名な梵鐘があるお寺なのです。

もともとは大仏を祀るお寺で、秀吉が刀狩りを行って民衆から武具を没収したのも、名目上は方広寺の大仏の材料にするため、ということでした。

今はこの大仏も大仏殿も残っていませんが、境内の梵鐘が見学できます。

かつては三十三間堂の蓮華王院を取り込むほどの広大な寺域を誇った方広寺ですが、現在はこじんまりとした慎ましい広さの境内です。

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あの鐘のようですな。

見たところ、周囲に説明版等が無く、「無関係の鐘では?」と不安になりました。

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とても大きな梵鐘です。

その表面に、気になる箇所が。

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遠くてよく読めませんが、銘文の「国家安康」「君臣豊楽」の箇所を白塗りしてくれてあるようですね。

大胆なことをしますね。

でもおかげで、これが問題の梵鐘なのだとよくわかりました。

感慨深い思いで白塗り部分を眺めました。

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境内では瓢箪の実が育てられています。

たぶん、豊臣秀吉瓢箪を集めた形の「千成瓢箪」の意匠を馬印に用いていたことにちなんだものでしょう。

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たくさん成っていて、これも千成瓢箪ですね。

面白い眺めです。

これらの実を乾かして水入れにしたり、唐辛子粉入れにしたりできますね。

釣り下がる梵鐘を見たり瓢箪を見たりして、境内から出てきました。

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豊国神社と方広寺は地面から一段高くなった土台の上にあって、その周囲には巨石が石垣として積まれているんですね。

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やはり秀吉の手によるものでした。

かなりの数の巨石が惜しげもなく道の端に積まれているものですから、驚きました。

大阪城の石垣を築いたのと同じ方法でもって、日本各地から巨石を集めたのかもしれませんね。

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